異質と罪人 081

禁転載

クレステア
それはディスラルの姪の名であり先々王の妹の名。
ここ数十年の歴史の中でもファルサス屈指の魔法士と謳われた、カティリアーナの祖母。
…………だったはずだ。少なくともハーヴはそう思っていた。今、この時までは。

「……え? カティリアーナ様……クレステア様?」
「だから、同一人物だ。クレステアは子供など産んでいない。孫だというのは俺の父が便宜上そうしただけだ」
面倒そうな王の説明に驚いたのはハーヴだけで、エリクはいつもの平然とした様子を崩していなかった。
もっとも彼の感情が表に出ないのはいつものことである。ハーヴは息を止めて友人の横顔を見やった。
かつての少女と同じ、だが変わり果てた姿。
そこには何も見えない。忌まわしく捻じ曲げられた命以外には。
これが彼女の真実だと言うのなら、「カティリアーナ」とは何であったのだろう。
ハーヴは喉に重い何かが詰まる気がして首元に手を触れさせた。ラルスはそんな臣下を一瞥して淡々と続ける。
「クレステアはな、ディスラルに傾倒していたらしい。奴の死後も影から王族や重臣たちの疑心暗鬼を煽っていた。
 何人かは自分の手を下したようだが証拠は掴ませていない。けどある時、それを兄……俺の祖父に勘付かれたんだな。
 アカーシアを手に詰問しに来た兄を見て、クレステアはどうやって逃げようとしたと思う?」
「ど、どうやってと言われましても……」
「簡単なことだ。クレステアは言質を取られ処刑される前に自分を捨てたんだよ。
 記憶と人格を封じて、まったく無知な人格を表に出した。
 そうして別人になったクレステアは、結局黒に限りなく近い灰色ということで幽閉されるに留まったんだ」
王がハーヴへと説明してやる間、エリクは微動だにしなかった。
その藍色の瞳が注視しているのはカティリアーナなのかクレステアなのか、誰にも判らない。
判ることと言えば目の前に立つ亡骸はまさしく王家の暗部の一つで、既にただの少女のものではないということだけだった。
「いつか戻るかと思って幽閉されてたが、まったく戻らないどころか精神に合わせて外見年齢も幼くなって固定された。
 このままじゃいつまで生きているか分からない、そう思った俺の父親が別の名を与えて牢から出してやったんだ。
 俺は処断を主張したんだが、記憶がなく精神が別人のものなら罪を負わせることはできないと言ってな。
 まったく甘い考えだ。記憶があろうがなかろうが同じ人間だというのに」
―――― 突如王族として現れた少女。彼女の面倒をレウティシアはよく見ていたが、ラルスはいない者として扱った。
「では……カティリアーナ様が禁呪を組めたのは……」
「組めて当然だ。クレステアは元々禁呪の使い手だった。だから俺はこの男を無罪にするよう主張したんだぞ?
 禁呪を教えた罪はあるが、教えようが教えまいがあの女は使えた。それに加え、あの女を処分した功績を買ったんだ」
ハーヴは頭を抱えて座り込みたい虚脱感に襲われる。
そんなことは知らなかったのだ。勿論エリクもそうであろう。
カティリアーナは王族ではあったが、愛らしく不器用な普通の少女だと思っていた。
不安げにエリクの後を追う姿も幼子のような笑顔も、作られたものには到底見えなかったのだ。
目の前の彼女が老婆の姿をしていることもあり、ハーヴは未だ何処か別の棺にカティリアーナが眠り続けている気がしてこめかみを押さえる。
言いようのない気分の悪さが心中に広がり、躯に繋がる空気を吸うことにさえ抵抗を覚えた。
顔色の悪いハーヴから視線を外して、ラルスはクレステアに意識を戻す。
彼女の亡骸はまるで道化回しのように優雅な仕草で、目の前の男に向かって枯れた腕を伸ばそうとしていた。



小さな手をよく引いてやったことがあった。
城の中でさえ、彼女は居づらそうにおどおどと辺りを窺うばかりだったので。
彼女は何処にいてもいつも落ちつかなそうに見えた。時折、何もない場所をじっと見つめていることがあった。
過去から己を切り離した彼女は、はたして自分のことをどう思っていたのだろう。
記憶がないという記憶さえ失って一人彷徨っていた彼女は。



エリクは伸ばされた腕の手首を逆に掴む。それは、腕力を強化されてはいても老女の力で抗えるものではなかった。
クレステアはもう一方の手を使って男の手をはずそうとしたが、エリクはそれを許さない。彼女が手をはずすことを諦め、彼の目へと爪を伸ばした瞬間、その手を避けて彼女の腕を捻り上げた。半ば動きを奪われたクレステアは奇怪な呻き声を上げる。エリクは彼女の体を押さえたまま王を見やった。
「傷をつけていいですか? 瘴気を抜けば動かなくなります」
「構わんぞ。その死体は見られても困るから燃やそうか悩んでいるくらいだ」
「ならその方がいいかと。見る人間が見れば禁呪の痕跡が分かりますから」
「そうなのか? なら今燃やすか。ハーヴ、頼む」
「私ですか!?」
淡々と会話を交わす二人に呆気に取られていたハーヴは、突然話を振られて悲鳴を上げた。
いくら死体で罪人であっても王家の女性に火をつけろなどという命は勘弁して欲しい。
彼は助けを求めて辺りを見回した。クレステアを拘束したままのエリクと目が合う。
「僕がやるよ。魔力貸して」
「……お前」
「平気だよ。彼女はもう死んでる」
死体は、ただの物体だ。魔法士ならば皆そのことを知っている。
それでも彼女に会う為に今夜戻ってきて、自ら彼女の体を燃やそうとしている友人が無心でいるはずはないと、ハーヴは思っていた。
声をかけようとしても、肝心の言葉が思いつかない。「それならば俺がやる」といっそ言ってしまいたかった。
だがこれは―――― おそらく彼が選んだ決別なのだ。
ハーヴは力なく肩を落とすと友人の隣に歩み寄る。小さく詠唱しながらエリクの肩に触れ、構成を持たない魔力を注いだ。
まるで四年前に戻ったかのように悲しい。それは、カティリアーナがカティリアーナではなかったと分かっても同じだ。
目を閉じたハーヴの耳に友人の詠唱の声が聞こえる。
それは確かに、かつて妹のように彼女を慈しんでいた時と同じ、ひどく穏やかな声音だった。


彼女が何を求めていたのか、それに応えてやれたのか、今となっては分からずじまいだ。
ただ彼女の笑顔だけは今でも忘れることが出来ない。
初めて出会った時、嬉しそうにヴェールを受け取った笑顔と、最後の時淋しそうに笑った顔だけは。
そして、今の彼女の姿も自分は生涯忘れることはないのだろう。
これは、自分の届かなかった真実。触れることのできなかった彼女の残滓なのだ。



エリクはクレステアの体内を中心として魔力を注ぎ構成を組み上げる。
生きた魔法士にこのような魔法をかけても生来の魔力が反発してうまくいかないが、今の彼女には本人の魔力がない。
むしろ内部に淀む禁呪の澱を対象として、彼は火を伴う昇華の構成を仕掛けた。
暴れる彼女の腕と肩を掴んで押さえつける。これ以上力を込めては折ってしまうかもしれない。それは少しだけ嫌だった。
構成を完成させるとエリクは軽く息をつく。あとは魔力を通せば終わりだ。ラルスを見やると王は頷く。
―――― だがその時、新たな声が庭に響いた。
「あれ、エリク?」
場の誰もが予想していなかったであろう声。その声に三人の視線が集中した。
いつの間にこんなところまで来たのか、そこには雫がハーヴの上着を抱えて立っている。クレステアを捕らえたままのエリクはさすがに目を丸くした。
「やぁ、久しぶり」
「久しぶりです! 元気そうでよかった……って何か不味いところに来ちゃいましたか」
「どうだろう。でも危ないから中にいて欲しかったな」
雫はクレステアを見てそれが死体だと分かったのだろう。顔を少し強張らせた後「すみません」と頭を下げた。
「あの、ハーヴさんに上着を返そうと思って」
「いつでもよかったのに」
男物の上着を綺麗に畳んで持つ雫は、夜着の上に魔法士のローブを羽織っていた。何処かで転んだのかローブの裾は薄汚れて擦り切れている。
彼女は少し躊躇したものの、エリクの隣にいるハーヴに駆け寄った。上着を渡そうとして、しかし襟首を後ろから掴まれる。
「邪魔をするな。ちょっと離れてろ」
「放してください、王様!」
「邪魔娘が騒ぐな。目を閉じて耳を塞いでろ。むしろ気絶しろ」
「無茶なこと言うな!」
ラルスが手を放すと雫は畳んだ上着の中に手を差し入れた。それを何気なく見やったエリクは、彼女の黒い瞳と目が合う。
それは、月光を映さない沈むような目だ。意思のない人形の目。
彼女のものでありながら彼女のものでは決してない目を見て、彼は瞬時におおよそを悟った。クレステアを掴んでいた手を放す。
雫は上着の中から手を抜いた。小さな手は鈍く光る短剣を握っている。ラルスには死角になっていて見えない。彼女は舞うように振り返った。
「雫!」

彼女の望みは、何であったのか。
応えてやれたのか、拒絶したのか。
罪を選んだのは、誰だったのか。
けれど全てはもう、終わってしまったこと。

短剣が突き出される。
ラルスはだが、それをすんでのところで払った。短剣を叩き落され雫はよろめく。
王の手が剣の柄にかかる。エリクは彼女の肩を掴んだ。クレステアが逆方向に走り出す。
混乱が支配した一瞬。
それを終わらせる斬撃が雫の頭上に振りかかる。
容赦ない一撃に、しかしエリクは彼女の体を押し退けた。白刃の下に割り込む。
アカーシアは止まらない。ハーヴは王に向って踏み出す。だが、それも間に合わない。
鮮血が予想された結末。
しかし、明るい夜空に響いたのは……剣同士がぶつかりあう金属音だった。

「やるな」
ラルスは短く言って剣を構え直した。護身用の突剣で王の攻撃を受けた魔法士を見下ろす。
エリクは剣を持つ自分の手に一瞬目を落としたが、それを収めることはせず改めて柄を握り直した。
「だが、次は斬り捨てるぞ。退け」
「お断りします」
「罪人に殉じるか? そしてお前はまた自分を捨てるのか」
「自分を捨てたことはありませんし、自分に罪がないと思ったこともありません。
 今の彼女は精神魔法をかけられている。治療をします」
クレステアの姿は既に見えない。何処かへ逃げ出してしまったのだろう。
草の上に座り込んだ雫が、光のない目でエリクを見上げた。
「いいよ、殺して」
操られた少女の言葉にエリクは顔を歪める。苦痛を思わせる友の表情にハーヴは息を飲んだ。王は冷然と二人を見据える。

けれどまだ今は、終わってしまってはいないことだ。いくらでも変えられる道行きだ。

雫は頭が痛むのか両手でこめかみを押さえた。その体を、剣を手離したエリクが抱き上げる。
「エリク、私、殺して、って」
「殺さない」
少女は苦しそうにかぶりを振った。小さな頭に彼は自分の額を触れさせる。
「大丈夫。少し眠って」
ハーヴからもらった魔力がまだ少し残っている。それを使ってエリクは眠りの術をかけた。雫の瞼がゆっくりと下り始める。彼女は最後に小さく囁いた。
「死にたくないよ」
それが本当の言葉だと、彼は分かる。言われなくとも分かっている。
だからエリクは少女の体を抱き直すと、「知ってるよ」とだけ呟いた。