隠された手々 084

禁転載

「この城を出ようか」
エリクが雫にそう言ったのは、件の事件から一週間後、ようやく調書が完成した時のことだった。
することもなくなったし仕事でもしようかと着替えをした雫は目を丸くする。
「出るんですか?」
「うん。資料はあらかた調べ終わったけどなかったし、ここは危険だからね」
彼は「遠くまで連れて来たのにごめん。次はガンドナに行ってみよう」と隣国である大国の名を挙げた。
何でも二百四十年前の事件が起こった土地は今はガンドナの領地になっているのだという。
それでなくともこの大陸でファルサスと並ぶ程歴史のある国だ。魔法技術も発展しており、資料も多い。
次の可能性としては充分だろうと説明を受けた雫は頷いた。
「了解しました。……けど、出られるでしょうか。レウティシアさんはともかく王様が」
「何とかなるんじゃないかな。あの人もそうそう暇じゃないだろうし」
むしろそうであって欲しい、と思いながら雫は簡単に荷造りをする。
この世界に来てから幾度となく急な出立をしているので、荷物はいつでも最小限だ。
だが、二人は準備が終わってもこの日城を出ることはなかった。その前にラルスとレウティシアの二人から唐突な呼び出しを受けたのだ。

二人が案内された部屋は城の奥宮にある王族の私的な広間の一つだった。
そこには既に王族の兄妹が待っており、それぞれが離れて座っている。レウティシアは二人に椅子を示して座るよう勧めた。
「突然御免なさいね。本当はもっと早くこの場を設けるつもりだったのだけれど、あのような事件があったもので」
王妹の苦笑混じりの説明に、雫はそう言えば事件の起こった日の昼間、ラルスが「明日話がある」と言っていたことを思い出す。
思えばあの時の話についてはそれきりになってしまっていた。事件の処理が済んで今日ようやくその機会が回ってきたのだろう。
妹から視線で促されたラルスは二人に視線を送る。それは、初めて謁見した時と同じ温度を感じさせない王の目であった。
「長引かせるのは面倒だ。結論から言おう。
 お前たちが知りたがっている二百四十年前の事件について―――― あれが、異世界へ戻る手段として使えるかと言ったら、無理だ」
「え?」
つい声を上げてしまったのは雫の方だが、隣を見るとエリクも目を丸くしていた。
今までずっと雫を何だかよく分からない理由で処断したがっていた王は、驚く雫をじっと凝視している。
まるで見張られているような居心地の悪さは、信用が得られたわけではないことを彼女にプレッシャーとして伝えてきていた。
「無理だというのはどういう意味ですか。ファルサスは事件について何処まで知っているのです」
「ほぼ全部だな。知っているから無理だと分かる」
ラルスはエリクの質問に答えると、一旦雫から視線を外した。いつもの面倒そうな表情に戻ると足を組みなおす。
「例の事件はある強力な呪具が原因となって引き起こされていた。そしてそれはあの時壊されている」
「連続した事件が突然止んだのはそのせいですか」
「そうだ。それは二つとない呪具だったから、もう使えない」
あっさりと出された結論に、力が抜けてしまった雫は椅子の背もたれによりかかった。
前例のない彼女の来訪、その帰還手段として、やはり前例のないその事件だけが手がかりだったのだ。
にもかかわらず事件の原因となった呪具は今はもうないのだという。
これから一体、何を目当てにして何処に行けばいいのか、彼女は道を見失って目の前が暗くなりかける。

だが、彼女の同伴者は彼女よりも遥かに冷静だった。エリクは整った顔を思案に染めながら質問を重ねる。
「その呪具の出所は分かりますか?」
「分かる。が、ファルサスが作ったわけではない」
「他に類似のものはないのですか」
「あるらしい。何処にあるのかどんな効果のものなのかは分かっていないが」
何だか霧の中に手を差し込むような問答だ。雫はエリクの横顔を見ながら息を飲んだ。
何処にあるか分からないという他の呪具に、まだ希望を持ってもいいのだろうか。
魔法には世界を渡る法則などない。それはエリクから最初に聞いていたことだ。だから彼女は解明されていない事例に頼るしかなかった。
その謎が明らかになりつつあある今、まだ諦めなくていいのか、それとも無理なのか判断が出来ない。不安とも期待ともつかぬ思いが広がっていく。
エリクは困った顔をしている雫を一瞬見やって、王に続けた。
「その出所を教えてください」
ラルスは青い瞳を細める。すぐに答えないのは答える気がないからだろうか。エリクもそう思ったのか質問を変えた。
「魔女についての記述を改訂したのは何故ですか」
「容赦ないな」
「あなたと同じくらいには」
分かりきった嫌味にラルスは唇を曲げて笑う。けれど気分を害したようには見えなかった。
その間にもエリクは追及の手を緩めない。かつて雫にも語った推測を口にした。
「その魔女は、当時のファルサス王姉フィストリアでしたか」
「違う。だったら途中で改訂などしないさ。最初から書かなかったはずだ」
ラルスの言うことはもっともだ。しかしそれでは「何故改訂したのか」が分からない。
不審を拭えない雫が眉を寄せると、王はまた彼女を見据えた。威を伴う視線に雫は気圧される。
―――― 何故かは分からない。だが、「分からない」という不安以上に何かが怖い。
今すぐ逃げ出したいような、だが何から逃げればいいのか、まずそれが分からないのだ。
彼女は震える内心を抑え、意思だけで自分を支えると王を睨み返した。ラルスは軽く眉を上げると彼女に向かって問う。
「前にお前に聞いたことがあったな。『もし自分が気づかぬうちに何かに支配され鑑賞されていたらどうする?』と」
「……ありましたね」
聞かれたのは確か禁呪の事件が起こる直前のことだ。雫は記憶をなぞりながら頷いた。妙な話だが腹立たしいと、その時は返したのだ。
「今、その通りのことが大陸で起きている、と言ったら信じるか?」
「え?」
「今というかもうずっと昔からだな」
ラルスは指を組んで膝の上に置く。聞こえない溜息が、そこに零れた気がした。
「俺の言ったことはつまり、本当の話だ。この大陸は、誰かの手によって実験場とされている。
 そして実験用の呪具を送り込み、人間を弄って記録している世界外の存在たちを称して―――― 外部者と呼ぶんだ」
王の声は淡々と響く。
しかしその内容は、聞いていた二人の中にすぐには答えられない衝撃を与え、その場に痺れるような沈黙をもたらしたのだった。



エリクは当然ながら「はい、分かりました」とは納得しなかった。詳しい説明を求めてラルスに問う。
「世界外存在? 何ですかそれは」
「世界外は世界外だ。この世界の存在じゃない。その証拠に外部者の呪具は法則に逆らう力を行使してくる」
「法則に逆らうとは?」
「人の複製を作る力、精神を肉体から切り離す力、時間干渉、そして人の記憶を現出させる力。
 どれも人間には実現不可能な、魔法法則に反する力だ」
何だかどれも魔法みたいだ、と雫は思ったが、エリクの険しい表情を見るだに、この世界でもそれらは異常な力なのだろう。
大体二百四十年前のことも「魔法では不可能な事件」として教えられたのだ。
魔法では時間を巻き戻すこともできないし、ましてや人の過去を現実のものにすることなどできないと。
そしてラルスの言う「人の記憶を現出させる力」があの事件に相当しているのだとしたら……。
「では二百四十年前の事件は世界外の存在が関与していたということですか?」
「そう。だからその呪具がない今、俺たちにはもうどうにも出来ない。
 人が使う魔法ってのは法則ありきのものだからな。……だよな?」
「ええ」
兄に話を振られてレウティシアは頷く。
魔法士の頂点にいる彼女がそう言うのだ。世界外存在の揮う力とは余程異質なものなのだろう。
頭の半分で納得しながら、けれど雫は同時にもう一つのことに気づいていた。
何故ラルスが自分を疑い、殺そうとするのか、答はとっくに揃っている。
レウティシアはそれを既に教えてくれていたのだ。ただ雫がその時は理解できなかっただけで。
『貴女と同じ、外の世界から来た干渉者がこの世界には存在している。ファルサス王家にはそれらを排除しろという口伝がある』
干渉者とは鑑賞者だ。
人の誇りを踏みにじり、世界を箱庭とする観察者。この世界に混じりこんだ異質な異物。
そして―――― 他に異質なものはこの世界には存在していなかったのだろう。前例のない来訪者……雫が来るまでは、きっと。
「つまり私は……異世界から来て、おかしな力でこの世界を実験場にしている存在ではないかと、思われてるんですね?」
震える声で彼女は問う。
集まった三人の視線のうちの一つ、静かな戦意を隠そうともしない王の目は、何よりも強く彼女の言葉が真であると示していたのだった。



とんだ誤解だ、と言いたかったが、自分が難しい立場にあることは雫にも分かった。
この場合「そうである」という証明よりも「そうではない」と証明することの方が遥かに難しいのだ。
雫は実際この世界においても無力な人間であるが、それを「擬態している」と言われればそれまでだ。
だからこそラルスは今まで彼女を肉体的にも精神的にも試そうとしていたのだろう。
だが、「おかしなところは何処にもない」という結果に彼が納得していないのは明らかだ。
これは一体どうやって切り返せばいいのか。分からず悩む彼女の肩をエリクは軽く叩いた。彼はラルスに向かって冷ややかな視線を注ぐ。
「馬鹿馬鹿しい。彼女にそのような力がないことはすぐに分かるのではないですか?
 第一本当にそうだとしたらわざわざこの城に来る理由がないでしょう。自分の力を使って帰ればよいのですから」
「と、私も兄上に主張したのだけれど」
「アカーシアを標的にしてきたということもあり得る。この剣は外部者の持ち込んだ呪具に唯一対抗出来る剣だからな」
「…………だったら濠に突き落とされる前に剣取ろうとしましたけど」
ぼそりと呟かれた雫の言葉に部屋の温度は一気に下がった。主に、エリクとレウティシアの空気が。
一週間前に彼女を城の濠に突き落とし、「何だ、浮いてくるのか」とつまらなそうに言いながら引き上げた男は、その一件を妹には教えていなかったらしい。おまけに雫の方も誰かに愚痴を吐いては負けるような気がして黙っていたのだ。
無言で立ち上がろうとするエリクを雫は慌てて引き止める。その間にレウティシアは兄に対して思い切り怒鳴りつけた。
「貴方は! 何を考えてらっしゃるのです!」
「ちゃんと助けたぞ。生きてるじゃないか」
「死ななかったからと言って全てが許されるわけではないのですよ! 人の命を何とお考えですか!」
「平等ではないと思っているだけだ」
ラルスは軽く手を振って妹を抑える。レウティシアが黙ったのは彼が冗談や言い逃れをしているのではないと分かったからだろう。
不信の目を向ける妹や、氷の視線で睨むエリクではなく、ただ溜息をつきたそうに座している雫に向って、王は口を開いた。
「他人よりも家族の方が大事だ。
 俺は立場上そう公言も出来ないし、必ずしも行動を伴えるわけではないが、個人としてはそう思っている。
 そして王としては……同程度の能力、性向の人間であれば異国人よりも自国の人間の方を優先している」
兄であり王である彼は、人を平等とは思っていない。平等に扱いもしない。
雫はラルスが今の話で何を言いたいのかよく分かる。溜息の代わりに代弁した。
「それは、怪しい異世界の人間よりも、この世界の人間の方を大切にするということですよね」
「そうだ。間違っているか?」
「いいえ」
それを間違っていると、彼女には言えない。王として、また「異質を排除する者」として当然のことだ。
彼にも彼の立場がある。守るべき者も、見逃せない敵もそこに含まれているのだ。
だが、雫もまた自分を譲ることはできない。
疑わしいからと言って覚えのないことで殺される気はさらさらないのだ。つまり、彼と雫はずっと平行線なのだということだろう。
薄々分かってはいたが、のしかかる疲労感に雫は顔を顰めた。
帰る為の手がかりが消えたということもあり、これ以上どうすることもできない行き詰まりに肩が落ちる。
何故自分はこの世界に来てしまったのだろう―――― そんな始まりの疑問が今更ながらに脳裏をよぎった。



沈黙を打ち破ったのは、先程までにも増して冷ややかなエリクの声だった。彼は王族二人に向けて話を戻す。
「それで『外部者』なる世界外存在がいるとして、その呪具が壊された二百四十年前の事件の情報を隠しているのは何故ですか?
 何故魔女の記述を消したのか、先程の質問にお答え頂いていませんが」
「お前も結構しつこい男だなー。一応ファルサス王家の最重要機密を話したんだから少しは誤魔化されろ。これじゃ妻になる女は苦労するだろうな」
「陛下の妃になられる方ほどではないと思います」
何とも言えない嫌味の応酬にレウティシアは頭を抱え、雫は唖然とした。
どうも雫とラルスとは違った意味で、彼ら二人もそりがあわないらしい。
「あうわけないよね……」と内心で呟く雫をよそに、今の返しを聞かなかったことにしたらしいラルスは軽く手を振った。
「俺はその娘を信用したわけではない。が、まぁ逃げ出さなかったことは買っている。
 だからおまけして教えてやろう。世界外の存在……外部者の呪具に対抗するものが、この世界には二つあるんだ」
「ファルサス王家を加えて二つ、ですか?」
「そう。一つはこのアカーシア。で、もう一つが『この世界の呪具』だ」
また新しいものが出てきた。雫は習性でノートを取りたくなったが、あいにく何も持ってきていない。
後でエリクと議論しながら書き出そう、そう思って彼女は聞き取りに集中した。
王との応酬を引き受けるエリクは、新たな単語の出現に顔を険しくする。
「この世界の呪具? 何ですかそれは」
「干渉を拒絶する為に、この世界で生まれた対外部者用の呪具だ。
 二百四十年前に外部者の呪具を破壊したのもこれで、やはり法則外の力を持っている。
 魔女に関する記述を消したのは、この呪具の使い手が城に来て事情を伝えていったからだ。それで城は使い手に関する記述を消した」
「当時は女性が使い手だったということですね」
「そんな感じ」
「六十年前のファルサス内乱に関わった男もその呪具の使い手ですか?」
エリクが王家の封印資料を見た時に疑問に思った存在。
それがレウティシアの言うように「二百四十年前の事件に関わった存在と同じ」だとしたら、つまり同じ呪具の使い手だという意味だろう。
彼の質問に王妹は微苦笑したが、兄の方は一瞬驚くと、すぐに苦い顔になった。
「お前……本当にうるさいな。結婚できないぞ」
「構いませんよ。それより僕の言っていることは間違っていますか?
 アカーシアが王家に継がれているように、その呪具も王家に縁深い人間が使っている。だから彼らは城に現れるのではないですか?」
「どうだろうな? でも俺は会ったことはないぞ。何処にいるかも分からなければ連絡の取りようもない。
 ただ―――― 」
ラルスは雫を見る。
青い瞳にはこの一瞬だけ、敵意も何も見えなかった。
雫が瞠目すると彼は両目を閉じる。
「ただ、その呪具の使い手は法則外の力を使える。ということは、彼らならばお前を何処だか知らんが元の世界に戻せるかもしれんな」
「え……」
唐突に自分の上へと戻ってきた話に、雫は虚を突かれた。
問う形に口を開いて王を見つめる。
それはまだ、可能性が残っているということだろうか。諦めずともいいということなのか。
分かるような分からないような話に頭はただ混乱するばかりで、感情を素直に選べない。
戸惑う雫の前でラルスは立ち上がった。仕事に戻る時間なのか、彼は飾り戸棚に置かれた時計を確認する。
「もっとも……彼らを見つけられても、外部者と思われて殺害される可能性の方が高いと、俺は思うが」
静かなだけの声に、しかし浮き足立ちかけていた雫はぞっと背筋を震わせる。
自分の目の前にいつの間にか深い底なしの淵が広がっているような、そんな思いに囚われたのだ。
彼女は何も言えずに強張る自分の両手を見下ろす。
それは広い大陸に僅かしかない可能性を掴み取る為には、あまりにも小さなものに思えたのだった。