隠された手々 086

禁転載

城都の片隅にあるその小さな建物は、内部の大半が大陸全土の歴史に関する一般論文を所蔵した書庫となっていた。
歴史を専攻する学者のうち、優秀な人間のほとんどは宮仕えをしているが、能力的に、或いは性向的にそうではない人間も割合的には半数以上を占めている。
そういった無所属の学者たちを含め、多くの学者が寄稿した論文を編纂し、紀要として発行しているのがこの「大陸歴史文化研究所」なのだ。
大きな国の城都には例外なく支部がある研究所の一室、談話室というにはあまりにも狭い部屋でハーヴはお茶を飲みながら野に下った師の話に相槌を打っていた。
先月諸国を巡る旅から戻ってきたという初老の男は温められた息を天井に向けて吐き出す。
「それでな、その女が言ったのだ。『今はもうない歴史を知りたくはないか?』と」
「今はもうない歴史? 資料が散逸してしまった暗黒期のことですか?」
「私もそう思った。が、どうやら違うらしい。『もう起こってもいない歴史』の話なのだと」
何だか雲を掴むような話だ。まるで子供の戯言のような言葉に若い魔法士は眉を顰める。
「起こっていない歴史など歴史ではないでしょう。それは単なる空想か創作では?」
「と言ったらな、彼女は笑ったのだよ。『この大陸は実験場で、私はその記録が全て記された本を持っている』と。
 その中には今はもうない……消された試行の記録もあると言うんだ。馬鹿馬鹿しいと私は笑い返したよ。
 でも酒が抜けると後から―――― 怖くなった。彼女はファルサスを含めいくつかの大国の、禁呪に纏わる門外不出の歴史も知っていたんだ。
 これが妄想でなかったらどういうことだ? 本当にそのような怪しげな本が存在しているのか?」
ハーヴは師が差し出した紙片を受け取る。そこには紙いっぱいに癖の強い走り書きがされており、最後には「終わったら処分のこと」と書かれていた。
十年に渡って彼に師事していたハーヴだからこそ読める文字。
それが構成する文章は、過去に起きたファルサスの禁呪の絡みの事件について、いくつかの真相を事細かに述べていた。
宮廷に仕える者たちでさえも知るはずがないはるか昔の事件に関して、彼は紙片にざっと目を通して息を飲む。
その一連の記述は「ありうるかもしれない」という内容ではあったが、彼一人では真偽の判断は出来ない。
ハーヴは紙片を「友人と相談してみます」と言って懐にしまった。
「その問題の本とやらはご覧になったのですか?」
「外だけだがな。中は見せてくれなかった。革張りの深紅の本で、金の縁取りがされていた。
 年代がかっているようにも見えたが、古さは感じさせない。表紙に触れると何だか息づいているような感触で、それがひどく……気味が悪かった」
師はそこでまたお茶のカップを手に取る。
何気なくその手元を見たハーヴは、この時になって初めて、豪胆で知られていた師の指が小刻みに震えていることに気づき―――― 得体の知れないその本に強い興味を抱いたのだった。



外部者の呪具と、外部者に対する呪具の使い手、これからどちらを探すかは、話し合いの結果とりあえず保留ということになった。
何も手がかりがない上に、大陸は広い。探す対象を選んでいられないというのがその理由だが、それでもエリクはいくつかのことに気づいたらしい。
「対抗呪具の使い手だけどね。多分複数人いるんじゃないかと思う」
「複数ですか? それって呪具も複数あるってことでしょうか」
「そこまでは分からないけど。ラルス王との会話を覚えてる? 
 僕は呪具の使い手が二百四十年前の人間と六十年前の人間の二人いることを指して『彼ら』と言ったけれど、
 王はそれに返して『彼らならば元の世界に戻せるかも』って言ったんだ。
 ってことはつまり現時点、そうじゃなくても同時に使い手が二人以上存在することを彼は知っている。
 明言を避けたのはやっぱり過去に王家と繋がりがあったからじゃないかな」
出立の日を何となく延期してしまった二人は、それぞれに割り振られた仕事を終えて、雫の部屋で夕食を共にしていた。
女官や兵士たちが使う大食堂に行かなかったのは話の内容が内容だからである。持ち込んだ食事を口に運びながら雫は感嘆の声を上げた。
「うっわぁ……よくそんなことに気づきましたね」
「違和感を覚えたからね。あと多分、呪具の使い手はそれなりに魔力が大きい人間じゃないかと思う。
 二百六十年前の一件では魔女と誤認されてるくらいだし、六十年前のことにしても王家の精霊を使役するにはかなりの魔力が必要だ」
「王家の精霊を使役しているのに王家の人間じゃないんですか?」
「精霊を使役できるのは本来、直系の魔法士だけなんだけど、その中に該当する人間がいない。
 表の資料を見ただけなら隠された出自の人間じゃないかって思うけど、封印資料にも記載がなかったからね。
 あの時代は王族同士、内部の政争で殺し合いがひどかったし、二十五年間で死んだ人間は何十人もいるから、その中の誰かっていう可能性もあるけど
 名前まで伏せられているのは異例だ。単に非常事態だったから、誰か直系を媒介にして間接使役という形で精霊を与えられたんじゃないかな」
「……難しいです」
話についていけなそうになった雫は、肉を切る手を止めて相槌を打った。
エリクはほとんどのことを分かりやすく丁寧に説明してくれるのだが、たまに一聞くと十返ってくることがある。
ゆっくりと議論を経て進んでいくのならそれでも何とかついて行けるのだが、知識の下地がほとんどない事柄について急に情報を与えられても、飲み込めぬまま思考の海に溺れそうになってしまうのだ。
雫の様子に気づいたエリクは苦笑すると、「王家とは縁があるみたいだけど、王家から探るのは難しいってこと」とまとめる。
その意見は残念だが動かしがたい事実でもあるだろう。
過去の記録はどうであれ、ラルスもレウティシアも肝心の対抗呪具の使い手には会ったことがないというのだから。
雫は温かいスープを飲みながら今までに分かったことを頭の中で整理した。カップを下ろすと小首を傾ぐ。
「つまり、呪具の使い手は凄い魔法士って可能性が高いんですよね。そういう人を探せばいいということですか?」
「ご名答」
それならばまだ何だか分からない呪具を探すより探しやすいかもしれない。
雫は何となくリディアの顔を思い浮かべたが、はっきりしないまま頭を振った。
「凄い魔法士ってどうやって分かるんですか? ステータスポイントでも見るんですか?」
「何それ。ある程度なら魔法士同士見れば分かるけど、一定以上になるとちょっと僕じゃ分からないな。ましてや封印してあったりしたらお手上げだ」
「なるほど。でもそれくらいの魔法士ならどっかのお城に勤めたりしてるんじゃないですか?」
「その可能性も高いとは思う」
エリクの返事を聞きながら、けれど雫は何かが記憶の片隅に引っかかった気がして眉を寄せた。
だがそれが何であるのかは、どうしても思い出せない。すっきりしなさに彼女は食事の手を止める。
「どうかした?」
「いえ、何か……」
何を言えばいいのか、それでもこの思い出せなさを口にしようとした雫は、だが扉が外から叩かれたことで言葉を切った。
彼女は「開いてますよ」と声を掛けて待ってみる。すぐに入ってきたのは、やはりすっきりしない表情をしたハーヴだった。
雫がお茶を淹れる為に立ち上がると、彼は「邪魔してごめん」と言いつつエリクに何かの紙片を差し出す。エリクは紙片を一目見て顔を顰めた。
「何これ。汚い字だね。読みにくい」
「簡単に読まれちゃ困るんだよ。ちょっとおかしな話で悪いんだが、ここに書いてあることが本当にあったことか教えて欲しい」
「うん。分かったから読んで」
何か込み入った話なのだろうか。雫は怪訝に思いつつもお湯をもらいに外へ出る。
宿舎となっている建物の端には給湯室があって、魔法で保温されているお湯がいつでも手に入るのだ。
彼女は中でも熱湯に近い温度で保たれているお湯を選び、自分の持ってきたポットへと中身を移した。減ってしまった分は水道から水を注ぎ足しておく。
そして五分後彼女が部屋に戻った時、何故かすっきりしない表情はハーヴだけではなくついにはエリクにまで伝染していた。

「これ、一応上に報告した方がいいと思うよ」
「上って何処に。魔法士長にか?」
「もっと上。王か王妹に」
「げ……ってことは封印資料なのか?」
ハーヴの顔はこれ以上ないくらい引き攣る。それが何故なのか彼女には分からないが、面倒ごとでも起きたのだろう。雫は黙ってお茶を出した。
蒼ざめていた魔法士は彼女に気づいて礼を言う。
「封印資料かどうか僕は明言できない。けど、報告した方がいいってことだけは言っとくよ」
エリクは立場上、真偽を口にすることはできないのだ。だが報告を促す言葉こそがまぎれもなくこの情報が真であることを物語っている。
ハーヴは信じられないといった面持ちで返された紙片を見た。手元でそれを元通り畳み掛けて、しかし最後の一項目で引っかかる。
彼は再びメモを開くとエリクにその部分を示した。
「でもこれはないだろう? ファルサスとセザルが戦争になったことなんてない。おまけに禁呪による負の実体化つきだ。
 この間のカンデラでの実体化でさえ城の廊下に収まるほどの大きさだったんだろ?
 荒野に巨大な負の蛇が現出して死体の軍勢を操ったなんて話、あったとしたらさすがに隠蔽しきれるはずがない」
何だか分からぬハーヴの話ではあったが、雫はカンデラで遭った蛇を思い出してぞっと身を竦めた。
エリクを横目で見やると苦い顔をした彼と目が合う。
―――― 彼は何故そんな目をして彼女を見てくるのだろう。
藍色の瞳に割り切れぬ困惑を見出して雫はまばたきをした。理由が分からないまま、しかし彼はふっと視線を逸らす。
「僕の知る限りは起こっていないことだ。が、まぁ他のこともある。報告しておくに越したことはないよ」
「そうか……そうだよな。時間取らせて悪かった」
「いいよ。差し障りがなかったら結果を教えてくれると嬉しい」
「分かった」
ハーヴはお茶を飲み干すと立ち上がる。彼はもう一度雫に礼と詫びを言うとドアへと向った。ノブに手をかけて二人を振り返る。
「一応はっきりするまでこのことは内緒にしておいてくれ。先生に迷惑がかかりそうだ」
「平気だよ。言う相手もいないし」
「悪い。それにしてもぞっとしない話だよな。その女曰く、この大陸は実験場だってさ?」
軽く笑いながら廊下に出て行く男の言葉を、雫とエリクの二人は顔を見合わせて反芻した。
そのままつい先日聞いたばかりの話と照らし合わせる―――― までもない一致に顔色を変える。
「ちょ、ちょっとハーヴさん待って!」
「え?」
廊下を既に十数歩進んでいたハーヴは追いついたエリクに肩を掴まれて足を止めた。
そして再び有無を言わさぬ勢いで部屋の中へと引き摺り戻された彼は、師である学者が何処でその問題の女に会ったのかを、二人に向って詳しく 説明する羽目になったのである。