隠された手々 087

禁転載

ハーヴからの伝聞だと、問題の女はファルサスの北、北方大国メディアルの南にある小国ピアザで彼の師に話しかけてきたらしい。
酒場にいた師の顔を何処で知っていたのか、高名な学者であることを見抜いた彼女は、彼と一時間程質問や議論を交わした後、問題の本について切り出してきたという。

「本当にそのような本があるとしたら問題ね……」
話を聞き終わったレウティシアは深い溜息をついた。物憂げな青い瞳がハーヴ、エリク、雫の順で立ち並ぶ一同の上を通り過ぎていく。
彼女の背後では執務机に座る王が、まったく顔を上げず手も止めないまま書類を処理しているのだが、既にその存在は妹の眼中から外されているらしい。
レウティシアは長い髪をかき上げてもう一度溜息をつくと、ハーヴに師を城に呼んでくるよう命じた。彼が恐縮して出て行くと残る二人を見やる。
「で、貴方たちはどうするのかしら」
「先にあなたのご意見を伺いたい。その本こそが外部者の呪具であるとお考えですか?」
エリクに聞き返され、彼女は苦い表情になった。レウティシアは背後の兄を軽く振り返ったが、まったく反応のない様子に諦めると口を開く。
「断言はできないけれど可能性は高いと思うわ。外部者の呪具は大抵が実験か記録の性格を持っているというし。
 ただ私も実際それらに相対したことがないから、実物を見ても判断できないかもしれない。
 けれど、違うとしても封印資料の中身が洩れていることは大問題。その本は回収したいと思っています」
ハーヴが持ち込んだ紙片に書かれていた内容は、封印資料と禁呪資料の両方に渡るいくつかの情報だった。
それが一つだけならレウティシアも眉を顰めつつ看過出来たかもしれないが、「起こっていないこと」である最後の項目を 除いて全てが極秘情報ではさすがに問題がある。 本を持っていたという女が口頭で語った内容は、禁呪についての内容を含めてそのまま放置しておくには危険すぎるものだったのだ。
エリクは王妹の答に若干目を細める。そこには普段雫には見せない鋭さが垣間見えた。
「書かれている内容はファルサスに限定されないようですが」
「悪用するつもりはない、と今言っても仕方ないわね。何を以って悪用とするかも違うでしょうし。
 でもそれが外部者の呪具と思えるものなら破壊するわ。それに……その女には別口で聞きたいこともあるの」
「別口?」
レウティシアは頷きながら執務机に寄りかかる。二人には座るよう勧めると彼女はエリクに視線を送った。
「カンデラの禁呪事件……貴方に処理をお願いしたのは実際の構成部分だけだから知らないでしょうけど、
 あの事件を画策した教祖には一人の女がついていたという情報が入ってきているのよ。
 で、その女は何故か紅い本を肌身離さず持っていた。これって偶然だと思う?」
試すような彼女の視線に雫は息を飲む。
あの一件にも同じ女が関わっていたのだとしたら、それは本当にファルサスとしては放置できないところだろう。
顔も名前も知らない女の意図を掴みかねて、雫は難しい表情になった。その隣でエリクが答える。
「ですがカンデラの構成と同じものは禁呪資料の中にもありませんでしたよ。似たものならありますが」
「その二人が同じ女で、彼女の言う本の性質を信じるのなら、問題の構成は他国の禁呪資料か、或いは今はもう散逸した資料……
 それか、もしかしたら『消された試行』から借用したのかもしれないわ」
消された試行、と言った時、レウティシアの表情は不愉快げに歪んだ。それを聞いたエリクの顔も同様である。
もし本当にそんな試みが存在したのなら、それはこの大陸に生きる人間にとって屈辱以外の何ものでもないだろう。
雫も元の世界にいた頃は時々、「人類はかつて今以上に高度な文明を持っていたが、何かによって滅亡してしまった後、もう一度ここまでやりなおしたのだ」 という風説を聞くことがあった。
だがそれも人類が自らのミスや自然災害によって滅んだとされるからこそ興味深い仮説だと思えたのであって、 外部の何者かが実験を繰り返すかのように世界を弄ったのだとしたら、やはり彼女も不快に思っただろう。雫は我知らず両手を強く握った。
「ファルサスはその女と本を捕捉するわ。結果が出るまで貴方たちはこの城にいてもいいけれど」
「いえ。自分たちで探しに行きます」
きっぱりとしたエリクの返事はファルサスを信用していないことを意味するのか、頼りたくないと思っているのかのどちらかだろう。
そしてそれは雫も同感だった。
待っていた方が結果的にはいいのだとしても、それでは誰かの手によってそれが自分の手元に届くまで、どうすることもできないのだ。
届けられてから、或いは遠くで損なわれてしまってから「違う」と不平を叫んでも仕方ない。であれば自分で行くのが筋というものだろう。
頷く雫を目にしてレウティシアは苦笑した。
「なら貴方たちをファルサスからの使者として権限を与えましょうか」
「不要です。僕たちはファルサスの人間ではありませんから。出国の許可だけを頂きたい」
「分かったわ。手配しましょう。―――― 制限資料に関する貴方の記憶も、今回の捜索が終わるまでは貴方のものとしておくわ。
 全てが終わったら一度城に戻って来なさい」
王妹の声には普段は感じ取れない傲岸さがありありと表れていた。雫はそのことに少し驚いて、釈然としなさに眉を曇らせる。
エリクに機密書類を整理させたのは彼女なのだ。なのにその記憶を操作することを当然のことと思っている態度に雫は憮然となった。
たとえ王家の情報を洩らさぬことが第一なのだと言っても、それは行き過ぎた傲慢にしか思えない。
王家の秘密がどれ程のものか、と表情で語りかけた雫はけれど、エリクに膝を軽く叩かれ、慌てて目を伏せた。
「一般資料の整理が途中ですから、それを終えてから……明後日には城を出ます」
「相変わらず変なところで律儀ね。分かったわ」
雫とエリクは王妹に軽く礼をして執務室を立ち去りかける。その時背後からこの日初めて王の声がかかった。
「見つけたならその本の在り処は教えろ。壊しに行く」
「彼女の帰還に関して用済みになった時、でよろしいのなら」
「構わん。むしろさっさと帰れ。ぐずぐずしていて俺が追いついたら殺してしまうぞ」
エリクは冷ややかな目をしただけで答えず、ただ雫の背を廊下へと押し出した。扉を閉める直前、ラルスの声が雫に届く。
「お前の給金はその男に渡しておくからな。無駄遣いするなよ」
無駄遣いなんかしたことない、という反論は雫の心中でのみ為され、結局その後も言う機会は訪れなかったのだ。

扉が音もなく閉まってからしばらく、きりのいいところまで仕事を終えたラルスは顔を上げた。机によりかかる妹を頬杖をついて見上げる。
「……つまらん」
「残って欲しいのなら優しくすればよかったのですよ。今更どの口が不満を言うのです」
「別に残って欲しいわけじゃないぞ」
雫が来て以来、長らく食べていなかった人参を幾度となく口にすることになった男は白々と言い捨てた。逆に嫌味を言ってきた妹を揶揄する。
「お前もまた優秀な魔法士を逃がしたな」
「才ある者には己の居場所を選ぶ権利がありますから。
 そんなことより兄上もいい加減結婚なさってくださいね。私が他国に嫁いだらどうするのです。一人ぼっちですよ」
「そうしたらその国を併呑するさ。ばっちり」
「怒りますよ。この駄目兄上」
レウティシアの非難にも顔色を変えず王は再びペンを取る。
それは多忙の中に落とされた、束の間の空白だった。



「ピアザってどんな国なんですか? 北ってことは涼しいですか?」
「ファルサスよりは涼しいと思う。僕は行ったことないけど」
執務室を辞して中庭の芝の上に座り込んだ二人は、広げた地図を見ながら数日後の旅の計画を立てていた。
ようやくこの暑さから逃れられるらしいと分かった雫は小さくガッツポーズをする。エリクはそれに気づかない振りをして、地図上を指差した。
「今回は転移陣の許可を取れると思うから直接ピアザに行けるよ。ハーヴが戻ってきたら詳しい場所を確認しよう」
「了解です」
雫は髪を上げていたスカーフを一旦解く。大分伸びた黒髪はそろそろ背の半ばに届こうかという長さだ。
この世界に来てから半年近く、一度も髪を切っていないのだから仕方ない。雫は紐を使って髪を束ね直すとスカーフを戻そうとした。
だが、不意に強い風が吹き、彼女の手元から薄布は舞い上がる。
慌てて掴もうとした雫の手をすり抜けてスカーフは飛んでいくと、植え込みの向こうに消え去った。数秒遅れて火のついたような泣き声が聞こえる。
「あれ?」
「何だろ。子供の声だね」
二人は地図を畳みながら立ち上がると植え込みの裏側を覗き込んだ。見るとそこには草の上、三歳くらいの女の子が転がって泣いている。
顔にスカーフを張り付かせばたばたと暴れる子供に、雫は血相を変えると植え込みを飛び越えた。スカーフを取り払うと子供を抱き上げる。
「ご、ごめんね。お姉ちゃんが悪い」
一応謝ってはみたものの子供が泣き止む気配はない。むしろ大きくなってしまった泣き声に雫は困り果てた。片手でポケットを探ってみる。
だが、中から出てきたのはペンと何も書いていないメモ用紙の束くらいだ。
雫はしゃくりあげる女の子を下ろすと「ほら、これ見て」と小さなメモ用紙を一枚取って折り始める。
彼女の指が何度かメモ用紙を折り、小さな鶴を作り上げた頃ようやく女の子は泣き止んだ。むしろ興味津々といった目で鶴に手を伸ばしてくる。
雫は小さな手に折鶴を渡してしまうと涙に濡れた顔をハンカチで拭いてやった。それを見てエリクが感心したように呟く。
「君、面白いもの作れるんだね。紙で鳥を模してるの?」
「折鶴ですよ。鶴っていないんですか? こっち」
「ツル? 知らない。鳥の名前か」
どうやらこの世界には鶴はいないらしい。雫は「そうなんです」と言いながら、他にも何かが欲しいと催促してくる女の子の前に座り込んだ。
折り紙はそれほど種類を知らないので、代わりとしてメモ帳に絵を描き始める。
「そう言えばこの世界ってシマウマとかキリンっていないんですか?」
それは旅を始めてまもなく、出会った子供との遊びの中で疑問に思ったことだ。雫の隣に座ったエリクは首を傾げる。
「何それ。それも鳥?」
「違います。縞がある馬と斑点がある首長動物です」
「縞がある馬? 凄いな。見てみたい」
「こーんなですよ、こんな」
雫が馬の絵に縞を書き込むと、エリクと女の子の二人はそれぞれ目を丸くした。女の子は少し間を置いて「ねこ!」と声を上げる。
「あー、トラネコに見えるのかな。違うよ、シマウマ」
存在しない動物を教えていいのだろうか、とも思ったが、子供は絵を気に入ったようだった。シマウマを指差してしきりに「ねこ、ねこ」と騒ぐ。
雫は笑いを堪えながら試しに縞のない馬の絵を描いてやった。「これは?」と聞くとやはり「ねこ!」と返ってくる。
半分くらいは予想していたが、雫は間違ったすりこみを見て堪えきれず爆笑してしまった。腹を抱えて笑いながらエリクを見やる。
「あっはは。可愛いですよ、ほら」
「何でそんなに笑えるのか分からない」
「素直なところが可愛いじゃないですか。あー……ごめんね。猫はこっち」
新しく猫の絵を描いてやると、女の子は首を傾げて「ねこ?」と聞いてきた。雫は笑って首肯する。
「こっちは馬、これが猫」
「ねこ?」
「おうま、と、ねこ。おうまは首が長いでしょ?」
「うま!」
「そうそう。よく出来ました!」
誤解を解いて満足すると雫は大きく伸びをした。
改めて周囲に母親か誰かがいないか見回してみるが、他に人の姿は見えない。
「あれ、迷子ですかね。誰かの子供でしょうか」
「多分違うよ。病気の調査の為に城に集められた子供の一人だと思う」
「病気の調査?」
ぱっと見たところ何処も悪いところは無いように見えるが、この子供は何かの病気を患っているのだろうか。
心配げに眉を顰めた雫にエリクは補足してやった。
「ほら、前に話しただろう? 子供の流行り病。原因不明だってやつ」
「ああ。言語障害が出るってやつですか……。って、この子もそうなんですか?」
「見れば分かるじゃないか」
呆れたようなエリクの言葉に雫はもう一度女の子に注意を移す。
だが、健康的に肉がついた外見も少し舌たらずな言葉も年相応で、何がおかしいのか分からない。
彼女は、両手に折鶴と動物の絵を掴んでご機嫌な女の子と目を合わせた。雫が首を傾げると、子供も真似をして首を傾げる。
「あの……何処が悪いんですか?」
見てもちっとも分からなかった雫が聞き返すと、エリクは僅かに目を瞠った。そのまま二人は沈黙する。
これが確かに「異常」であると彼ら二人ともが知ったのは、雫が魔法のある世界に来訪してから約半年、この時が初めてのことだったのである。