隠された手々 088

禁転載

何がおかしいのか、おかしくないのか分からない。
それが共通して二人の抱いた疑問だ。怪訝な顔の雫を見て、どちらかと言えば険しい表情になったエリクは口を開く。
「今さっき、君はこの子に猫と馬の絵を描いてやっただろう?」
「はい。ちょっと可愛くしてありますけど通用してますね」
「うん。僕にも猫と馬に見える。でも、その子は馬を指して『猫』と言った」
「言いましたね」
「おかしいだろう?」
「おかしくないですよ」
二人はそこでまた沈黙してしまった。雫は眉間の皺を深くする。
何がおかしいというのか、説明されても本当に分からない。これくらいの子供なら猫と馬を間違えるくらい普通のことだろう。
ひょっとしてエリクが子供に要求する知識水準は非常に高いのではないか。
そんなことを疑った雫が彼を見やると、エリクは真剣な顔で何事かを考え込んでいた。彼はしばらくしてまた確認を再開する。
「この流行病は大陸西部から徐々に広がりつつある。発症は一歳から二歳くらいの子供を中心として起こり、症状は言語に障害が出るというものだ」
「はい」
「で、この子もそうだ。障害が出ているのが分かるよね?」
雫は女の子をもう一度見たが、おかしなところは何も見つからない。
一体何だというのか。彼女は若干むきになって反論した。
「分かりません。物の名前を取り違えて覚えるのくらい普通じゃないですか」
「普通じゃないよ。言語ってのは基本、生得的なものじゃないか」
「―――― え?」
何だか聞き逃せないことを聞いた気がした。雫は目の前の男を凝視する。
生得的とは「生まれつき持っているもの」という意味なのだ。
勿論、人は能力的に言語コミュニケーションを取れる要素を兼ね備えているが、文脈的にそれだけの意味ではない、何だか強い違和感を覚える。
雫は自分が緊張していることを意識しないまま、逆に聞き返した。
「えーと、言葉って子供の時に覚えるものですよね? 生得的って聞いたり話したりの能力の方ですか?」
「覚える? 違うよ。基本単語と文法はあらかじめ人の知識として備わっているじゃないか。
 覚えるも何もない。思い出すかどうかってだけだろう?」
「え、え? そんな馬鹿な」
―――― 何か決定的な食い違いがある。
そのことに気づいた二人は愕然とした。雫はエリクを見たまま強張った手をそっと上げる。
「あの、先に質問していいですか?」
「……いいよ」
「もし言語障害がなかった場合、この子はさっきの絵を見てどういう反応をしたんですか?」
「馬を認識したなら馬と言う。猫と間違えることはない」
「でもそれは、馬は『馬』っていう名前だって、大人の反応を見聞きして覚えたからですよね?」
そうやって子供は周囲から言葉を覚えていくのだ。
だからこそ生まれ育った環境によって母国語が分かたれる。いくら言語が大陸内で共通のこの世界でも、それは変わらないはずだ。
しかし、そう思っていた雫の常識は、返ってきたエリクの言葉によって覆されることとなる。
藍色の瞳の魔法士は雫の問いを聞くと、厳しい表情でかぶりを振った。
「違うって。初めて見たものでも、それを認識すれば自然と対応する名が出てくる。誰に習わなくてもそうなるのが当然だ。
 赤子は泣き方を教わったりしないだろう? それと同じだよ」
雫は瞬間、眩暈を覚えてくらりと傾く。
ずっと気づかなかった二つの世界の差異、それは魔法よりもはるかに身近ではるかに人の基盤に根ざしたところにあるのだと、彼女はようやくこの時知ったのだった。

足元が揺らぐかのような錯覚に、気が遠くなった雫を引き戻したのはエリクの声だった。
彼はすぐ隣にしゃがみこんだ女の子の頭を撫でると、声だけは真剣に雫に問い返す。
「ちょっと整理させて。君の世界だと言語って学習で身につけるものなの?」
「……そうですよ。だから何ヶ国語もあるんです。小さい時に周りで使われてた言葉を聞いて覚えますから」
「僕はそれ、遺伝で分かれてるんだと思ってた」
そう言われてみれば昔、音声言語が分かれている分かれていないの話になった時、「遺伝のせいで外国語が分からないのか」と聞かれたのだ。
その時はエリクの言うことだからと気にもしなかったが、よくよく考えてみればおかしな質問だ。
つまりはこの世界では、本当に音声言語までもが「生まれつき持っているはずの知識」なのだろう。
だから広い大陸内で話し言葉が分かれておらず、時代によっても変化がないのだ。
ちょっとだけ羨ましい、と現実逃避しかけて雫はその考えを振りきった。改めて現実に向かい合う。
「あの、話し言葉って全部が生得知識なんですか? たとえばこれくらいの小さな子でも『寂寥』とか分かりますか?」
「分からないよ。それは基礎単語じゃないから。人間が生まれつき知っている単語は全ての品詞を合わせて約二千六百。
 それ以上の単語は基礎単語の組み合わせによって作られている」
「その組み合わせは学習で身につけるんですね」
「そう。君のところは基礎単語ってないの?」
「基礎単語の意味が違いますよ……。生得単語なんて存在しません」
元の世界での基礎単語とはあくまでよく使われる単語でしかないのだ。習っていなくても知っている単語などない。
雫は痛み出した頭を押さえて気になることを尋ねた。
「生まれつきの知識ってことは対象物を知らない単語はどうなるんです? 猫を見聞きしたことない子供でも猫ってものを元々知ってるんですか?」
「知らないものは知らないままだよ。生得知識なのは言葉そのものであって、その指し示す対象じゃない。
 だから対象物を認識しなければ単語は出てこないんだ。知っていても思い出せないっていうのかな。
 対象やそれに類するもの……例えば絵とかでも、それと認識できれば自然と単語が出てくる」
つまり『猫』という単語は基礎単語であり、その言葉をこの世界の人間が生まれつき備え持っていたとしても、猫がいない場所で育ち、猫を知らないままならその単語は人の中で眠ったままなのだ。雫はひとまず理解すると次の質問を重ねる。
「じゃあ対象物を知らない人間に、その単語を言って説明した場合はどうなるんですか?
 猫を知らない子に猫を説明したりした場合も、『ああ、猫か!』って言葉を思い出すんですか?」
「それは説明の仕方が決めるというより、対象物を確固として認識させられるか否かが重要なんだよね。
 君なんかは絵が上手いから、知らない子供にも大体上手く認識させられると思う。そういう時は子供から単語が出てくるよ。
 でも口頭で知らないものを説明するのは難しいな。聡い子はそれでも単語と対象がすぐに結びついたりするけど。
 上手くいかない場合は単なる音の並びから成る単語を『そういう意味だ』と記憶するに留まる。で、年齢が上がると経験が増えるから分かったりするんだ」
「いやいやいやいや。普通言葉の学習ってそうじゃないですか! この言葉はこういう意味だよ、って教えるんですよ」
「ありえない」
「こっちの台詞です!」
つい叫んでしまった雫は、女の子がびっくりしていることに気づいて笑顔を作った。新しいメモ帳の一枚に若干写実的なタコの絵を描いてやる。
彼女はまずそれをエリクに見せて、何だか分かることを確認した。ついで期待しているらしき女の子に示す。
だが子供は絵が何だか分からなかったらしい、見入ったまま黙り込んでしまったので「タコだよ」と教えてやると、嬉しそうに「タコ!」と笑った。
雫とエリクの二人は微妙な表情を見合わせる。
「タコって生得単語なんですか?」
「本来なら。だからこの子はこの時点で病の発症者だと認定される」
「めっちゃめちゃ普通ですって。健康そのものですよ」
手の中でペンをくるくると回しながら、彼女は常識の食い違いに憮然としてしまった。

一方、エリクは腕組みをして考え込む。
「言葉が学習でしか覚えられないのだとしたら、学習がなされない場合はどうなるんだ?」
「言葉が話せません。唸ったり身振りで感情を示したりするくらいですね。そういう例がいくつかあります。
 あと……実際古代にはそういう実験がされたという逸話が残っているんですよ。
 王様が世界最古の言葉を知りたくて、子供の前でまったく言葉を話さずに育てろって命令したって話が」
「うん。それでどうなったの?」
エリクは興味があるらしく少し身を乗り出させた。この世界では発想もされない実験なのだろう。雫は苦笑して続ける。
「それで、しばらくして子供はある単語を話すようになったんです。それを聞いた王様はその言語を最古の言葉とみなした。
 でも現代ですとこれは、単語が生得的なわけじゃなくて、子供がその言葉を何処かで聞いたか、誰かが教えたんだろうと思われてます。
 もしくはその単語自体が子供独自の創造ではないかと」
「言葉を創造? 基礎から?」
「そういうものなんですよ。だから私の世界では言語が時代や場所で全然違ってくるんです」
雫にとってはそれが当然だ。言語は人間が作ったもので、もともと持っていたものでは決してない。
人は一から新しい言語を作る能力は持ってはいても、生まれつき多くの人間に通じる共通言語を兼ね備えているわけではないのだ。
雫の説明にエリクはますます眉を寄せる。遠慮のない視線が頭の上から足先までを辿った。
「うーん……。君って人間に見えるけど、人間に似た違う種族じゃないの?」
「うわ! 酷いこと言われた! 先に言おうと思ったのに!」
「言おうと思ってるんじゃないか」

二人がそれぞれの常識を突き崩されそうになっていたその時、庭の向こうから小走りで一人の女官が現れた。
彼女はいなくなった女の子を捜していたらしい。駆け寄ってきて子供が色々握っていることに気づくと、しきりに頭を下げて女の子を連れていった。
雫は手を振りながら去っていく子供のその姿に、言いようのない落ち着かなさを覚える。
彼女にとっては普通のことも、この世界では病気とみなされ、特別な目で見られるようなことなのだ。
何だか思い切り立ち上がって「病気じゃないですよ!」と叫びたくなったが、それを堪えて今はエリクに向き直った。彼女は膝を揃えて詰め寄る。
「生得単語の中には名詞以外もあるんですか? 抽象的な言葉とか実在が確認できないものとか」
「あるよ。勿論形容詞や動詞もあるし、接続詞や助動詞もある」
「じゃあそういうので対象が実在しない言葉とか抽象的な言葉ってどうやって思い出すんです?
 絵でかけないものもあるし、地道に教えるしかないでしょう?」
「うーん、教えることもできるけど、教えなくても分かれば思い出すから普通は教えないよ。
 大体通常なら三歳で生活に不自由ない単語は揃うし、十歳までには生得単語の六割を思い出す。あとは個人差だね」
それを聞いた雫は正座のまま「飲み込めない」という顔になった。不服がそのまま声になる。
「えぇ……そんなんで本当に単語と意味が合うんですか?」
「人々が問題を感じないくらいには合ってる。
 結局、突き詰めてしまえば、単語と結びついているものは実物よりもまず、その対応する概念ではないかという話になるんだ。
 抽象的な単語でも概念を限定する、或いは意味を理解することができれば単語はついてくるし、
 そこに対象が実在するかどうか、または実在を信じるかどうかの問題は関係ない。
 『可愛い』と思えば『可愛い』という単語が出てくる。子供は痛い、と思うと泣くだろう?」
「そ、それとこれとは違いますよ」
「違わない、と思われてる」
エリクの答は端的ではあったが、彼自身何かを深く考え込んでいるようだった。
彼は視線をあてどなく周囲に彷徨わせる。だがそれが景色を見る為ではないことは明らかだ。

ファルサスの強い日差しも今は気にならない。それよりも気になることがありすぎて、雫はともすれば空回りしそうな思考を必死に回転させた。
この世界では言葉は、その指し示す意味と密接にくっついているものらしい。
知れば、分かれば、教わらなくても対応する言葉が出てくる―――― そういうものなのだという。生まれつきそうなのだと。
意味に合わせて言葉が作られたのではない。言葉はあらかじめ人の中にあるというのだ。
訳が分からない、そう思いながらも雫はあることを思い出し、そこに引っかかりを覚えた。それはエリク自身が彼女に教えてくれたことである。
「前に、言ってましたよね。『白』が同じ白を指しているか分からないって。
 でもそれを言うなら、単語と意味にずれがあるかもって可能性自体が生まれつきってことと相反してませんか?
 生まれつき持っていたものならみんな一緒が普通だと思うんですけど」
「いや。あの仮説自体が極論だし、僕が示した可能性とは実際のところ個々人における単語の意味の揺れ幅って話でしかないよ。
 他に感覚自体を疑うって側面もあるけど、言葉が生得的なのはまず大前提だ。
 話が問題なく通じているように見えても、その意味が完全に人の間で一致しているかは証明しがたい。
 同じ単語でも思い出し方は人それぞれなんだ。むしろ単語の意味とは蓋然的であると思っていた方がいいくらいだろう。
 それにね、生まれつきだからと言って、全員に共通するものが備わっていると頭から信用しない方がいい。
 たとえば君にも僕にも生まれつき視力はあるけど同じものが見えているかは分からないだろう?」
「同じものじゃないんですか?」
「多分違う。僕には魔力が見えるから」
「…………ああ」
つまりは、それがあるのだ。
魔法という決定的な差異がまず一つ存在している。
だからこの言葉に関する差異もそういうものなのだと、違和感を押さえ込み納得しようと思えばできるだろう。
―――― 「原因不明の流行り病」が今ここに存在していないのならば。
黙り込んだ雫を、エリクは思考に集中していると如実に窺わせる表情で見つめる。
その藍色の瞳に昏い翳が差していくのを、彼女はどこかぼんやりと眺めていたのだった。