隠された手々 089

禁転載

かつて人々はみな同じ言葉を使い、同じように話していたという。
今は遠い昔の話。神話の中の物語だ。
言葉とは、神の御業か人の技か。
思考の道具か伝達の手段か。
重ねられていく記述と歴史。
人知れず隠された答は凡て――――



その時の雫の心情を簡単に表すなら「何だそれ」であった。
生まれつき知っている単語があるなどありえないだろう。とりあえず二千六百あるという生得単語のリストを見たい。
本当は見聞きして覚えているだけなのを生得的だと誤解しているのではないか。
だがそう思ってはみても、雫から見て普通の子供が「病気の子供」と考えられていることを思い出すと、そこで思考が詰まってしまう。
何故そんな事態になっているのか。雫は苦虫を噛み潰してもここまで苦い表情にならないだろう、というほど眉を顰めてエリクを見やった。
そのエリクもいつもより険しい顔で考え込んでいる。しばらくして、彼は小さく溜息をついた。
「実は君と出会って……というか、君から言語の話を聞いて以来、疑ってることがある」
「私が人間かどうかですか?」
「違う。何でラルス王みたいな発想になってるんだ。毒されてるよ、君」
「ぐえ」
どうやら一ヶ月の間に暴君とのやり取りに慣れてしまっていたらしい。雫はエリクの指摘に慌てて軌道修正した。
足が痺れそうになったので正座を崩すと聞き返す。
「何を疑ってるんですか? 単語が本当に生得的かどうかですか?」
「それは疑ってなかったって。こっちの世界では散々実験もされてるし、今、かなりびっくりしてる。
 ……そうじゃなくてね。言語の生得性は何処に由来するんだろうって思ってたんだ」
おそらく、エリク自身の考えは口にする話よりずっと先を進んでいるのだろう。
言葉だけが少し遅れて雫の手元に届く。彼女はそれを拾い上げて自分の思考に透かし見るのだ。
雫は綺麗に整った男の顔立ちよりも、その言葉に注意のほとんどを払って耳を傾ける。
「生得単語についての記録は、遡れば千四百年程前に『神から賜りしもの』として記されているのが最初だ。
 といってもこれ以前の記録は言語に関してだけではなく全てにおいて消失してしまっている。せいぜい口伝が残るだけだね」
「ああ。神話とかもそうだって言ってましたね」
「うん。生得単語は長らく神が人に与えたものだと信じられていた。
 そしてそれはその中に人工物の名詞も多く含まれているからという理由が大きい。
 たとえば『時計』『船』『錠前』。これらは人が作ったものだが生得単語として生まれつき人の中に在る」
雫は大きな違和感を内心差し挟みながらも話を追う。
確かに生得言語が人の生理的な部分だけに由来すると仮定した場合、そこに人工物の名詞が含まれていることはおかしなことだろう。
この世界に原始人という存在があったのかどうかは分からないが、人は古代から技術発展を経てここまで来たことはおそらく間違いないであろうし、 その出発点から全ての人工物と共に在ったわけではないはずなのだ。

『時計』が作られる以前もその言葉は人の中に在ったのか、それとも『時計』が生み出されたからこそ単語が人の中に植えつけられたのか。
言葉が先か意味が先か。上手く噛みあいすぎている状態を説明づけるには、神の思惟がそこに働いていたと考える方が納得できたに違いない。
「つまり道具が発明されたから、神様がそれに合わせて言葉を与えた、っていう考え方ですか」
「うん。神話によってはこれらの発明も神々が与えたものとされているけどね」
「ああ、なるほど。でも今は神様を信じていない人も多いんですよね? その場合どう解釈するんです?」
大体魔法士は皆、無神論者だというのだ。エリク自身もアイテア神の存在を信じていないと言っていた。
ならば彼らは生得言語の不自然さをどう解決しているのだろう。真剣な表情の彼女にエリクは微苦笑する。
「現在では、魔法士をはじめとして多くの学者は、共通言語階層という階層が世界に存在していて、
 そこに人の魂が繋がっていることこそが、言語が生得的である原因ではないかと考えている。
 その階層の実在は証明されていないし、実際どんなものなのかって議論はまだまだ為されてるけど、
 負と同様言葉自体が、魂に含まれる人間の構成要素であり基盤の一つということで落ち着いてるんだ」
何処か矛盾点が見えたら突っ込んでやろうと待ち構えていた雫は、話を聞いてもすぐにはそれが見つけられずに詰まってしまった。
魂などと言われては異世界人である彼女には容易く踏み込めない。大体世界構造自体が二つの世界ではまったく異なるようなのだ。
「じゃあ、その階層に二千六百の単語や文法があるってことですか?」
「本当はもっと数があるのかもしれないけど、分かっているのはそれだけだね。
 ただ僕は君と出会う少し前から……本当にそれが生得単語の原因なのかなって疑ってたんだ」

静かな声音に雫は軽く緊張を覚える。
人の思考の限界とは何処にあるのだろう。
染み付いた常識を打破しようとしたその先に待っているものは、真の太陽なのか更なる牢獄なのか。
彼女は何故か沸き起こってくる動悸に胸を押さえた。表面だけはいつも通り、「何で疑ってるんですか?」と聞き返す。
エリクは、もし黒板があったのならそこに向ったであろう態度で指を一本立てた。
「本当に生得単語が人の魂に由来しているのなら、何でその単語を得られない病が流行ったりするんだろう。
 こんなことは今まで一度もなかった。生まれながらに魂を損なわれた人間が続出するなんてことは、記録を見る限りまったくなかったんだよ」
「ああ……」
雫は先程の女の子を「魂を損なわれた子」と言うことは出来ない。むしろ彼女こそが普通の子供だと思っている。
だがこの世界においてはそれは見過ごせない異常なのだろう。溜息を飲み込む雫に、けれどエリクは手を振って見せた。
「だから僕は一つの仮説を立ててみた。生得言語とは魂ではなく、何らかの遺伝によって人の中に継がれているものじゃないかと。
 こう考えると流行り病は魂の異常ではなく遺伝異常だ。原因は不明のままだけど前者よりはよっぽど起こりうることじゃないかと思ったんだ」
「あ、それで私にも遺伝かって聞いたんですか?」
「うん。特に君の世界では音声言語が分かれているって聞いてからますますこの可能性を疑った。
 まさかあの時はそっちに生得単語がないとは思わなかったしね。
 君は遺伝じゃないって言ったけど、そこは世界構造自体の違いもあるし、そっちはそっちで何か別の要素が影響してるんだろうと思ったんだ」
真偽の程を雫は知らないが、巻き舌が出来るかどうかは遺伝だと何処かで読んだことがある。
それが言葉の発音に関係したりもするのだから、遺伝と言語はまったく無関係というわけではないのかもしれない。
が、エリクが考える程までには関係していないだろう。ましてや遺伝で単語が受け継がれるはずもない。
突拍子もなく思える仮説を雫が反芻する間にも、彼の話は続いた。
「たとえば東の大陸の話だけど―――― あそこで開拓前にどういう言語が使われていたのかは、戦乱のせいで記録が残ってない。
 でもこっち出身の移民が大量に入植してからは皆同じ言語を話してるし、人種を問わずにやっぱり生得言語もあるんだ。
 ただ向こうの大陸にはこっちの大陸より訛りが強い地域が多くて……それは遺伝の影響じゃないかなと考えてみた」
「あー、混血によって言語の浸透が進んだから、不完全な場所も残ってるってことですか?」
「そう。ただ全てを遺伝で片付けようとしても説明できないことが多々残るんだ。
 東の大陸の例でいうなら、移民たちがこちらの大陸を出発してからしばらくして、こっちでも今までなかった訛りが僅かに出始めた。
 でも別に混血があったわけじゃないし、それについて研究はされたが今でも原因は定まっていない」
「うーん、謎ですね。じゃあやっぱり遺伝ではないんですか?」
「と思う。仮に遺伝が関係しているとしてもそれだけじゃないな。第一、君がいるんだし」
「私?」
雫は自分の顔を指差して首を傾げる。
服に隠された背を理由の分からぬ冷や汗が伝っていった。

かつてその構成技術と知識を評価され、魔法大国にて異例な位置にいた魔法士はそこで話を切ると背後の城を仰ぎ見た。
他に誰もいないことを確認するとエリクは話を再開する。
「君は、自分の世界の言語のことを誰かに説明した? 一応口止めしてあったとは思うんだけど」
「あ、してない、です。王様やレウティシアさんに本を見せたりはしましたけど」
「うん。特に音声言語が分かれてることや生得単語がないことは言わない方がいい。命に関わる」
「え」
急におかしな方へと話が転んだことで雫は目を丸くした。その意味を確かめようと向かい合う男を凝視する。
エリクは視線を受けると、冗談ではないことを窺わせる目で説明を補足した。
「例の流行り病が発生し始めたのは、時期的に君がこの世界に来る少し前のことだ。
 大陸中がやっきになって原因と治療法を探してる中に、『私のところではそれが普通ですよ』なんて人間が現れたらどうなる?」
物騒な結果しか連想できない問い。雫はそれを聞いて一気に自分の置かれた状況を把握した。
「……げ……ひょっとして、私が原因って思われたり、しますか?」
「するだろうね。少なくともまったく言語について常識が違う世界の人間だ。徹底的に調べられると思う」
「うわあ」
雫の脳裏にラルスの嫌な笑顔が浮かんだ。あの男がこのことを知ったら調べるなどまどろっこしいことはしないだろう。
「殺してみれば分かるだろう」などと言いながら率先して彼女を仕留めに来るに違いない。
血の気が引きつつある彼女の考えが分かったのか、エリクは苦い顔を見せた。
「まぁ、これに関しては前々から気になって調べていた問題だし、もうちょっと調べてみるよ。
 君は関係ないと上手く証明できればいいんだろうけど……まったく自信はない」
「いえ、ありがとうございます」
出来ないことを安請け合いするエリクなど想像できない。雫は心から厚意に頭を下げた。
だがそれでも妙な不安が収まらないのは何故なのだろう。
落ち着かなさに辺りを見回す彼女を元気づけるよう、立ち上がったエリクは手を差し出した。
「あんまり怖がらなくてもいい、とは思う。君の存在が病への対抗手段になるかもしれないから」
「え? 私が? 何でですか。幼稚園でも開くんですか?」
言葉の教え方を知らない世界で、子供たちに言葉を教えればいいのだろうか。エプロンをして幼児を相手にする自分を雫は思い浮かべる。
しかしエリクは苦笑するとその考えを訂正した。
「違う。君は、どうやってか生得単語の恩恵を受けているだろう? その理由が分かれば子供たちへも対処ができる」

―――― 怖い、と思う。
気づきたくないのだと、気づいてはいけないと。
でもどうして? 彼女は問う。
気づけば、気づかれれば、きっと

「生得単語の? そんなのないですよ。私、どちらかと言えば言葉が遅い子でしたし」
言いながら雫は自分の言葉が表面を滑っていくような空々しさを覚えていた。
本当は知っていること、既に自分の中にあることを思い出せない。思い出したくない気がして背筋が凍る。
エリクは心配を瞳に浮かべた。彼女を立たせてやりながら額を軽く叩く。
「君は気づいてない? 不安にさせるかなって思ったから、おかしいと思っても指摘しなかったんだけど。
 僕は君と出会って旅をするうちに、生得単語が魂に依拠するという考えを捨てざるを得なくなった」
目の前にいるはずの彼が、何故かひどく遠い。
孤独の中に似た焦燥に、雫の体は小刻みに震えだす。
「君の世界では言葉が分かれているんだろう? その上生得単語が存在しないのなら、そうでないと話が合わないんだ。言葉は魂に由来するわけではない」
何が普通か分からないのだ。
自分が異常なのか、この世界が異常なのか分からない。
雫は彼の何処かに触れていたい衝動に駆られる。
手を握って欲しい。怖くて仕方ないのだ。

どうか気づかないで。
言わないで。
異質にしないで。
忘れて。
見ないで。
教えないで、欲しい。

「君は負に影響を受けなかったんだ。この世界の人間とは魂自体が違う。
 では何故―――― 君と僕は、言葉が通じているんだ?」