隠された手々 090

禁転載

言葉が通じてよかった、と思う。
それさえも叶わないのなら、どうやって見知らぬ世界で一歩を踏み出すことができただろう。
分からないことだらけの転機の中、言葉が、そしてそれに耳を傾けてくれる人々が彼女を救ったのだ。
とてつもない幸運―――― でも、何故そうなのか、彼女は考えたことがない。
何故。
どうして、おかしいと、おもわなかったの。



「な、何でって……わ、分かりません……」
「うん。僕も最初は『言葉が通じない』っていう概念そのものがなかったから気づかなかったけど。
 君の世界では音声言語が分かれてるって聞いた時、少しおかしいなと思った。
 でも今まで生得言語の種類が偶然一致してるから通じてるんだろうなって考えてたんだよ」
エリクは雫の瞳を上から覗き込んだ。まるでその奥を見据えようとするが如き視線に彼女は息が詰まる。
「ただ言語の生得性もないのなら、やっぱりおかしい。君が言うには言語は土地や時代で変わってくるものなんだろう?
 この世界は君のところとは文化も歴史もまったく違うんだ。なのに君の世界で作られた一言語と同じになってるなんて、さすがにありえないよ」
言葉が同じであるわけではない。
何故なら彼らの発する固有名詞だけは、雫に外国語の発音として聞こえるからだ。
雫はそのことに気づいていた。けれど、何故そうなっているのかを考えたことはない。
「君はこの世界に来てから、生得言語の影響を何らかの形で受けてるんじゃないかな?
 いつから言葉が通じるのか覚えている? 何か心当たりはない?」
頭が痛む。まるで内側から激しく金槌で叩かれているかのように。
雫はこめかみを押さえてよろめいた。その腕をエリクが支える。
彼は倒れそうになった雫の体を抱きとめると元通り草の上に座らせた。黒い前髪の下、額に冷や汗が浮かんでいるのに気づいて表情を変える。
「具合が悪そうだ。中に入ろう。熱射病かもしれない」
「いえ、平気、です。少し……気持ち悪いだけ」
「中に。君は暑さに弱い。気づかなくて悪かった」
エリクは彼女を軽々と抱き上げた。
いつもなら「自分で歩ける」と言うところだが、今は四肢に力が入らない。雫は彼の好意に甘えて目を閉じる。
どうしてこんなに気分が悪いのか。彼女は小学校の頃、朝礼の最中に日射病で倒れてしまった時のことを思い出した。
あの時も不意に世界が傾いて、気づいた時には先生に抱え上げられていたのだ。それから子供時代はずっと、夏に外出する時は気をつけるようにしていた。
散歩をする時必ず被っていた帽子を被らなくなったのはいつからだろう。姉が日傘を差して歩く姿に見惚れた、あの頃からだろうか。
大きなつばで顔を隠した自分がまるで、世界から一人取り残されてしまったような気がして、雫は姉の後を歩きながら一人俯いたのだ。
劣等感というよりは孤独に似た思いを、けれど彼女は家族に訴えたことはない。
―――― 今更そんなことを思い出した。

雫は流れ落ちる汗を手で拭った。靄がかかったような息を肩を揺らして吐き出す。
エリクの顔を見上げないまま彼女は乾いた唇を動かした。
「私、覚えがないです……。砂漠に出て、気づいた時には言葉が通じてましたから」
「そうか。別に気にすることはないよ。結果的には助かってるわけだし」
「はい」
二人は城の影の中に入る。それでもエリクが彼女を下ろさないのは、何処か休めるところに連れて行ってくれるつもりなのだろう。
彼女はぐるぐると回り始めた視界を留めようと、手で力なく額を押さえた。意識が落ちそうになる寸前、疑問が口の端から滑り落ちる。
「エリクは、どうして言葉が通じるんだと、思いますか?」
彼だけが気づいたのだ。
ならば彼だけが辿りつけるだろう。
だから問う。
その声に、男は凪いだ目で答えた。
「僕は、神話の時代以降、この大陸自体に何か言葉を生得的にする要素が備わったんじゃないかと、今考えている。
 それは或いは……人に感染して言葉を伝えるようなものなのかもしれない」
穏やかな声。温かい腕。
雫は彼の言葉に安堵して息を吐く。
そのまま深い眠りに落ちていくまでの数秒間。
彼女はあの砂塵と共に何かが肺の中に忍び込み、そっと体の奥底に降り積もっていくような、そんな刹那の夢を見たのだった。



眠りが全てを押し流す。
傾きかけた世界も壊れかけた記憶も全てが波にさらわれ、後は何事もなく整えられる。
そうやって最低限のことだけを取り出して、皆、ささやかなる日々を送っていくのだ。
人が全てのことを覚えていられないのは、そこに無言の選別が存在しているからだろう。
肉体でさえも日々死に、新しくなっていく。
そうして人の記憶もまた、ほんの僅かな分だけ小さな手の中に残されるのだ。

雫が眠っていたのはほんの二時間程だったらしい。起きた時彼女は自分の部屋にいて、隣ではメアが濡れた白い布を絞っていた。
汗を拭く為の布を礼を言って受け取りながら、雫はまだ日の高い外を見やる。
「あ、仕事……」
「半休ということになっております。まだ体の中に熱がこもっているようですから、休んでらしてください」
「うう。ごめんなさい」
熱射病で倒れるなど子供みたいなことをしてしまった。雫は濡れた布を顔に押し当てる。
ひんやりとした感触が気持ちいい。鈍重になっている頭から気だるさが抜け出るようだ。
彼女は一息つくとほとんど荷物のない部屋を見回す。何しろ一度荷造りをしたままで、また明後日には北の国に向って出立する予定なのだ。
そのことを改めてメアに告げると、使い魔の彼女は「エリク様から伺いました」と返してきた。
何だか慌しさに「いつもすまないねぇ」などと言いたくなったが、真剣に受け取られることは確実だったので、雫は「ごめんね」とだけ口にする。
彼女は水を一杯飲み干すと寝台から起き上がろうとした。だがメアがすかさずそれを留める。
「駄目です、マスター。疲労も溜まっているようですから」
「大丈夫大丈夫。もう平気だよ」
「駄目です。前に一度それで寝込まれたではないですか。今、魔法薬をもらってきます。ここでお待ちください」
そんなに体が弱い自覚はないのだが、前例を指摘されたこともあって雫は苦笑と共に頷いた。
緑の髪の少女はお辞儀して部屋を出て行く。魔法大国の城の為か、中位魔族の彼女も際立って珍しい存在ではないようだ。
単独でお使いに出しても誰も何も言わない。

一人になった雫は枕元から水差しを取るともう一杯水を飲もうとする。だが、グラスに口をつけるより早く、不意に部屋の扉が叩かれた。
「はい?」
メアが戻ってくるにしては早い。
エリクかハーヴだろうか、と雫は返事をする。
しかし、ドアを開けて入ってきたのは、彼女が今まで会ったこともない男だった。
兵士の姿をした逞しい体躯の男は、無言のまま仮面に似た無愛想さで彼女を眺める。その視線に不躾なものを感じて雫は内心眉を寄せた。
「あの、何の用事ですか?」
「貴女を迎えに来た」
「は?」
人間違いではないだろうか。そう言いかけた雫の口をだが男は大きな手で押さえる。その事態に彼女は唖然とし、遅れて慄然とした。
つい一瞬前まで彼は扉の前に立っていたのだ。にもかかわらず二メートル程の距離をほんの二歩で詰めると男は彼女の前に立った。
これは普通の用事ではない。本能が激しく警鐘を鳴らす。
だが咄嗟に何か身を守るものを探しかけた彼女の顎を、男は口を塞いだままの手で固定した。
「悪いようにはしない。昼間貴女は話していただろう? 子供の流行り病は貴女にとって普通のことなのだと」
―――― あれを聞かれていたのか。
雫は体に残る熱が全て引くかのような錯覚に身を震わせた。
誰もいないと思っていたのだ。事実庭には誰の姿も見えなかった。だが、この男は何処かでそれを聞いていたのだろう。
雫の中、鳴り続ける警鐘に重なって「命に関わる」と言ったエリクの言葉が蘇る。

男は硬質な目で彼女を見下ろした。雫に向って声だけは優しげに告げる。
「このままこの国にいては貴女は危うくなる。王は貴女を捕らえ、殺してしまうかもしれない。
 だからそうなる前に迎えに来たのだ」
そんな迎えは要らないと、もうこの国は出るのだからと、雫は激しく首を横に振ろうとした。
だがそれだけの仕草でさえ男の手に阻まれ為すことが出来ない。
大きな両眼に恐怖と否定を浮かべる少女を見下ろし、男は哂った。
唐突に彼女の軽い体を使われていない寝台に突き飛ばすと、背に負っていた小さな弓を手に取る。
「貴女はこの国を出て、私の国に来る。これは決定事項で貴女の意志でもある。そうであろう?」
「わ、私の意志って……」
そんなはずはない。これは脅迫ではないのか。雫は弓に矢を番える男を見ながら扉への距離を測った。
しかし抑揚のない男の声が、逃げようとする彼女の耳を叩く。
「貴女は来る気になる」
男は弓を構え狙いを定めた。
雫に向かってではなく―――― 窓の外、庭に佇む人影に向って。
「ちょ……っ!」
それが誰なのか遠目にも分かる。彼女がもっともよく知る後姿なのだ。間違うはずがない。
雫は両手で口を押さえた。彼の名を叫びそうになって、男の一睨みで沈黙する。
彼はちらりと扉を一瞥した。雫が一人である時を見計らってきたのだろう。紫がかった青い瞳には状況を見渡す冷静さが窺える。
反論を許さぬ声だけが、彼女を正面から打ち据えた。
「さて、貴女の意見を聞こうか。時間はない。私と一緒に来るか来ないか……早く決めるといい」
鋭い矢じりが向く先、兵士と何やら話をしているエリクの背を、雫は絶望的な思いを以って見つめる。
どうしてこんなことになっているのか、そして、人と人が別れる時とは何と突然で呆気ないものなのかと、震える唇を強く噛み締めながら。



魔法薬とお茶のポットを盆に乗せて、メアは扉を叩いた。
だが中からは何の返事もない。不思議に思いつつ使い魔は扉を開ける。
「マスター? いらっしゃいますか?」
部屋の中には誰の姿もなかった。それだけではなく主人の少ない荷物もない。メアは盆を置くとあちこちを見回す。
小さなテーブルには水差しとグラス、そして白いメモ帳が一枚だけ置かれていた。彼女はそれを取り上げる。
メモ帳にはこの世界の文字で一言だけ書かれていた。
―――― 『ありがとう』と。

「マスター?」
窓の外の日は暮れていく。
静寂が夜と共に忍び込んでくる。
メアは刻々と暗くなる部屋を見渡す。
だがそのままいつまで待とうとも、雫がドアを開けて帰って来ることは、ついにはなかったのだった。



Act.2 - End -