孵らない願い 091

禁転載

ここまで来たら、もう安心?
わからない。
けど、遠くなった。ありがとう、優しいゆりかご。



窓から見える景色はファルサスのものと大差ない。雫は硝子から顔を離すと、つけてしまった指紋に気づき眉を顰める。
何か拭くものはないかと部屋を見回したがそんなものはない。思わずこめかみを掻いた時、ドアを開けて男が戻ってきた。
「仕度は出来たか? 姫は時間にうるさくないが、もう出た方がいい」
「うん。時間は守ろう」
「あの方の部屋には時計がないんだ」
どれだけ自由に生きてるんだ、と雫は一瞬呆れたが、その自由さが面白いと少しだけ思う。
ラルスもそうであったが、王族という人種はやはり何処かずれているのだろう。
彼女は出発を促す男に従って踵を返す。
部屋から出て行く前にもう一度窓を振り返ったが、よく磨かれた硝子の上にはもう指紋の痕は見えなかった。






「さて、貴女の意見を聞こうか。時間はない。私と一緒に来るか来ないか……早く決めるといい」
その言葉を聞いた時、雫が意識を払ったのは矢が狙うエリクまでの距離と、そして男の持つ弓それ自体だった。
メアは薬を取りに行くと行って出て行ったのだ。その隙を男が狙ってきたのなら、彼女が戻るまで時間を稼げれば活路は拓ける。
逆に言えば男はそれまでに雫の口から同意を引き出したいのであろう。張り詰めた弦は本気を容易に感じさせるものだった。
彼女は寝台についた手に力を込める。ゆっくりと立ち上がりながら男を睨んだ。
「一緒に行くかどうかって、行き先も知らなければ決められないよ」
「ああ、そうだな。行き先はキスク。この国の東にある大国だ」
しばらく前にエリクから聞いた国名。確かその名は、「物騒な王族の姫がいるから近寄りたくない国」として説明されたのだ。
雫は嫌な予感に思わず拳を握る。だが彼女はそれ以上表には何も出さなかった。男に一歩踏み出しながら問い返す。
「そこに行って何をするの? 私を調べるの? もう充分ここで色々やられたんだけど」
「知っている。ファルサス王が貴女を執拗に責めぬいていたこともな」
「その表現はとっても訂正して欲しいよ!」
つい素になって彼女は叫んでしまったが、男は眉を僅かに上げただけで弓を構える手までは動かなかった。
雫は彼の背に負われたままの残り二本の矢と腰に佩かれた長剣を確認する。男に向かってもう一歩近づいた。
「キスクに来て欲しいっていうなら理由と待遇を教えて。それで決めるから」
「やって欲しいことは姫の遊び相手だ。待遇は……貴女次第だが不自由しないことを保証しよう」
「姫の遊び相手? 小さい子なの?」
「今年十九歳になられる」
同い年の相手。だが「遊び相手」という表現に訝しさを感じて雫は怪訝な顔を見せた。
エリクの言っていた物騒な姫とは何歳なのだろう。同一人物か否か、彼女には判断がつかない。
雫はだが、少し考えた振りをすると、あっさりとした態度で頷いた。
「分かった。行く」
「ならば仕度を。仲間の魔法士が城都に来ている」
「荷物少ないから平気」
彼女は男の横をすり抜け自分のバッグに手を伸ばす。はみ出た私物を押し込み、代わりに男に気づかれないよう中から小さなナイフを引き出した。
バッグを肩に背負いながら振り返る。ちょうど男は弓を下ろしかけていたところだった。
―――― 上手く行くだろうか。
そんな不安を、だが雫は一蹴した。駄目なら駄目でその時はその時だ。
彼女は男に向かって勢いよく踏みこむ。右手に隠し持っていたナイフを弧を描くように凪いだ。弓の、弦を狙って。

「な……っ」
相手は彼女の武器に気づいて手首を掴み上げようとする。けれど雫はその手を左手で防いだ。ナイフが弦に食い込む。
成功した、と思ったのは一瞬だった。彼女は男の手に弾き飛ばされ寝台の端に背を打ちつける。
衝撃で落としてしまったナイフを、相手は雫よりも早く拾い上げた。冷ややかな目で彼女を見下ろす。
「こういうことをしては、お互いの信用を損ねると思わないか?」
「信用して欲しい態度じゃないよ。最初っから」
男は自嘲ぎみに笑うと弦の切れた弓を元通り背に戻す。雫はそれを見て安堵した。
ナイフは奪われてしまったが、ともかく彼女の目論見は成功したのだ。
これでエリクを人質として脅迫することは出来ない。そして男の目的が雫自身にあるのなら命を奪われることまではないだろう。
あとはメアの帰りを待つだけだ。快哉を叫びたいくらいの気分で彼女は男を見上げる。
「私は行かない。お姫様の相手はあなたがすればいい」
「姫の相手はいつだって誰かがしている。貴女が来なければ禁呪の魔法士か……不具の子供がそれを担うだけだ」
「……子供?」
男は武器を持たない手を座り込んだままの雫に差し伸べる。その大きな手に薄気味の悪さを感じて彼女は後ずさりたくなった。
けれどすぐ後ろは寝台であり、今以上に下がることはできない。雫は扉を見やったがメアの戻る気配はまだなかった。
「姫の機嫌を上手く取れねば子供は殺される。あと三ヶ月で城には赤子が生まれるが……病が出たと判断されればその子は闇に葬られるだろう。
 しかし貴女ならばどうだ? 例の病が病ではないと言うのなら、姫の期待に応えて子を育てられるのではないか?」
「子を……って、私が……赤ちゃんを?」
想像もつかない提案に雫は呆然となった。親戚の子供を見たことはあるが、赤ん坊の世話などしたことはない。
だが、「無理だ」と思いつつ、彼女は咄嗟に拒否を口にすることもまた出来なかった。昼に会った女の子の姿が甦る。
病気ではない子供が病気とされる世界。それが故に殺される子供がいるというのは本当なのだろうか。

ちゃんと、教えればいいのだ。たったそれだけだ。
それだけで、彼らは言葉を覚える。
変わりなく、成長していけるのに。

男は丁重な仕草で膝をついた。動かない雫に向ってただ己の手を示す。
「先程のことが不満なら謝罪しよう。だがどうかもう一度考えて欲しい。
 貴女は幼子の代わりに―――― 姫の前に立つ気はないか?」
雫は異物を見るように男の手に目を落とした。そしてふと半年間の記憶を振り返る。
はたして自分は何の為にこの世界に来てしまったのか。
彼女はあまりにも少ない手がかりの中、その意味を改めてじっと考えたのだった。






子供を引き合いに出され迷った雫は、エリクに相談したいと要求したが、その願いは却下された。
男が言うには、姫は雫よりもどちらかというとファルサスの禁呪の管理者であったエリクに興味を持っており、二人共を連れてくるよう命じたというのだ。
だが二人の様子を窺っていた男は雫の秘密を聞き、彼女だけを連れてくることを選んだ。
男のこの判断にどんな理由があるのか、彼女は知らない。
だがそれを聞いた雫は―――― エリクに話すことを諦めたのだ。
彼がこの話を聞けば、反対するか自分もついて行くと言うかのどちらかであろう。そしてそのどちらも彼女は選べなかった。
急き立てられ腕を引かれながら、雫は部屋を出る。
走り書きの挨拶は「ごめんなさい」と書くか「ありがとう」と書くか迷ったが、彼女は後者を選んだ。
彼はあれを見てどう思うだろうか。怒るだろうか心配するだろうか。
もし叶うのなら、彼女はもう平気なのだと、そう思って欲しい。自分で選んで自分で立ち去ったのだから、もう大丈夫なのだと。
メアも雫と共に厄介な姫の国に来るよりは、エリクについて行った方がずっと安心だろう。
彼らは彼らで自分たちの時間を取り戻す。それでいいのだ。
雫は泣きたくなるような喪失感を抱えながらも同時に、自分でも不思議なほど割り切った気持ちでファルサスを後にする。
だが色々と理由をつけてこの別れに納得しようとする自分は、結局のところ彼らを自分の事情に巻き込む罪悪感から逃れたかっただけではないのかと、 そんな自己嫌悪をまた彼女は抱いていたのだ。



「遅い」
魔法士の男に開口一番そう言われて、雫はむっと顔を顰めた。黒衣を着た男をじろじろと睨み返す。
彼女の部屋に来た兵士の男は名をファニート、そして二人で城を抜け出た後、彼らを転移門でキスクに移動させた魔法士はニケというらしい。
ファニートは無愛想ながらも最初とはうって変わり、それなりの丁重さで雫を遇したが、ニケの方は初対面から彼女を物のように見てくる。
おまけに彼女やエリクの情報を姫に教えたのもニケなのだと聞いた時は、雫は思わず男の足を蹴りたくなった。
「こないだの事件もあんたが何かしたんじゃないの?」と彼女は男に嫌味を言ってみたが鼻で笑われただけである。
キスクの城の一室で謁見の為に着替えた雫を、ニケは品定めするように眺めた。おまけのように「童顔」と付け加えられて彼女は顔を引き攣らせる。
「煩いよ、サモトラケ」
「何? 何を言っている? 馬鹿かお前は」
「知らないことを言われたからって、すぐに相手を見下してちゃ進歩が見込めないよ」
「知る気もないことに自尊心を保つ必要は感じないな」
生産性のない応酬を続けようとする二人を、しかしファニートが遮った。
「礼儀を弁えろニケ。姫の客人だ」
「客人? 玩具の間違いだろう。分を弁え無礼を働くなよ」
「それはこっちの台詞だって」
毒を込めて返した雫はけれど、いざ姫の居るという部屋の前に立った時、驚いて思わず顎がはずれそうになった。
何故ならそれまで散々彼女に対し粗雑な態度を示していたニケが、まるで人が変わったかのように落ち着いて丁寧な物腰へと変貌したのだ。
雫の傍にファニートを残し、一人先に奥の部屋へと歩み行った彼は、声だけ聞いても黒子を思わせる従順さを主君に向って示していた。
言いがかりに聞こえる姫の非難にも彼は諾々と謝罪を述べる。
雫はつい扉の向こうを覗き込んで、本当に同一人物かどうかを確かめたくなったくらいだ。
だがそれよりも気になったのはやはり、姫の性格を窺わせる高圧な発言の数々である。
「お前はまったく愚図だ」「雑用一つできぬのでは飼ってやっている意味がない」「妾に仕えているつもりなら命如きを惜しむな」と重ねられる暴言の数々に、ある程度は覚悟していた雫もさすがに唖然としてしまった。
ファニートを見上げると、彼は小声で「大丈夫だ」と返してくる。
何処が大丈夫なのか真剣に問い質したくなったが、彼女は軽くかぶりを振っただけで覚悟を決め直した。
雫も今更どうこう言うつもりはないのだ。姫の性格が苛烈だというからこそ、彼女は一人でここまで来た。他の誰でもなく自分が姫の前に立つ為に。
ファルサスでは駄目だ。あの国にはラルスがいて、彼は決して雫を許容しない。
だが別の大国からなら、或いは雫は流行り病への懸念を払拭できるかもしれないだろう。
少しずつでも認められればいいのだ。生まれながらの言葉を持たないということは、決して子供にとって致命的なわけではないと。
そうすれば病を恐れることも、子供の将来を嘆くことも人はしなくなる。
―――― もしかしたらこれこそ自分がこの世界に迷い込んだ理由なのかもしれない。
そんな誇大妄想のような発想が脳裏をよぎって、謁見を待つ雫はつい微苦笑した。
ファニートと目が合うと彼は低く囁いてくる。
「発言に気をつけろ。ここから先貴女を守れるのは貴女しかいない」
「分かってる」
彼は、雫が同行する見返りとして、彼女が異世界人であることを自分だけの秘密にすると約束した。
単なる病への対抗者として彼女を紹介し、雫が姫の相手をしている間、自分なりに帰還の方法も調べてやると条件を付け加えてきたのだ。
ファニートはファニートで何かの優先順位があるのだろう。彼はとにかく雫が無事にキスクの城で立ち回ることを望んでいるらしい。
そして雫はその条件を飲んだ。
彼女はファルサス王家の機密である外部者については話さなかったが、代わりに謎の女が持っている紅い本が欲しいとファニートに要求したのだ。

―――― ここから先、自分の道を拓けるのは自分だけ。
雫は緊張に震える足を踏みしめて扉の前に立つ。
大きな善意で彼女を助けてくれた魔法士はもういない。
だから彼の厚意に背くことになった今、せめて弱音は吐かないでいようと思った。
元の世界に戻れるその時まで、足掻いてもがいてやれることをやる。
その先に後悔が待つのだとしても、どうせ人は皆、先の見えぬ道を一人歩き出さなければならないのだから。