孵らない願い 092

禁転載

部屋の中はむせ返る程の香の匂いに満ちていた。
雫は淡く色づいているような気さえする空気に刹那息を止めたが、平常心を言い聞かせて歩を進める。
姫は部屋の中央に置かれた長椅子に寝そべり、しどけない姿を見せていた。顔を半ば扇で隠し、物珍しげに雫を見つめる。
しかし雫は彼女を直接見返すことはせず、軽く目を伏せたまま姫の前に膝をついた。そうしろとファニートに教えられたのだ。
足元の床を見たまま名乗りを上げる。
「初めまして。雫と申します」
「お前があの男の気に入っていた娘か」
雫は黙したまま姫の視線を受けた。
面識がないエリクのことを「あの男」とは普通呼ばないのだから、姫が言うのはまず間違いなくラルスのことだろう。
一体どういう誤解がはびこっているのか。
雫は自分に関しての風評を地引網でも使って全てさらいたい欲求に駆られたが、過ぎてしまったことを言っても詮無い。
第一、今はどれだけ自分の価値を高く見せられるかが重要なのだ。

姫は濡れて見える琥珀色の瞳を揺らした。雫に向って「顔を上げよ」と命じる。
キスク王妹オルティアは雫と同い年、だが見かけは年齢の読み取れぬ妖艶さを帯びていた。
角度によって色を変える珠のように、彼女は童女にも成熟した女にも見える。妖女というのが一番しっくりくるだろうか。
淡い色の薄絹を何枚も重ねて纏い、紅布の帯を緩く巻いている。むき出しになった象牙色の二の腕は同性の雫から見ても忌まわしい魅力を放っていた。
レウティシアが絶世の美女と言われ、毅然とした水晶に似たイメージを抱かせる女なら、オルティアは黒曜石のように鋭く得体の知れない引力を持っている。 造作の妙こそレウティシアに譲るが不思議と目が離せない。それを禍々しいと思うか蠱惑的と思うかは人それぞれだろう。
オルティアは雫を見て目を細める。扇の裏から弦を弾くような声が零れた。
「男も連れて来いと命じたのだが。ファニートめ、仕方のない奴だ」
雫は射竦められたかのように内心硬直する。
だがここで、「やっぱりエリクも連れてくるように」と言わせてはいけないのだ。彼への興味をなくさせ、雫に関心を持たせなければならない。
彼女は深く息を吸うと、ここに来るまで何度も反芻していた言葉を口にした。
「彼は、ファルサス王妹によって機密の記憶を消されております。もはや姫のご期待に応えられる知識はございません」
「期待に応えられるかどうかは妾が判断する」
鞭のようにしなる言葉は雫を打ち据えた。
彼女は反射的に肝を冷やしたが、オルティアは釘を刺す以上の意味をそこに込めていなかったようだ。扇を畳みながら「あの女は無粋なことばかりする」と続ける。
あの女とはレウティシアのことだろう。ファルサスとキスクはあまり関係がよくないとは時折耳に入る話であったが、どうやら実情を伴う噂らしい。
雫は不安を主として様々な感情を瞬間で抱いたが、出来るだけ表情を変えないよう自分を律した。
オルティアの瞳が心を見抜くかのように彼女を見つめる。
「それで? お前は何が出来る? 自らの口で言うてみよ」
―――― この質問を、雫は待っていた。
本当は彼女の名も連れてこられた理由も、姫は既に報告を受けているはずなのだ。
その上で、本人の口から改めて聞こうとしている。
雫の器量を測ろうとしているのだろう。その意図が分かるからこそ彼女は意を決すると、あえて自信に満ちた微笑を作った。背筋を伸ばしオルティアを見上げる。
「姫。わたくしは此度、大陸に広く蔓延しつつある子供たちの病について、対処法を持ってまいりました」
「対処法とは? 防ぐのか? 治すのか?」
「治療を行います。実はわたくしは以前から似た症状の子供たちと接しておりました」
全てが嘘ではない。だが本当でもない答を彼女は返す。
欲しいものは時間と機会だ。それさえ認められれば食らいついてみせる。
だから出来るだけ興味を抱かせねばならない。援助するに足ると、この人間に任せてもいいと、姫に思わせねばならないのだ。

『本当はこういうのは澪の方が得意なんだけどね』
雫は、自分よりずっとしっかりしていた妹のことを思い出す。
二歳年下の彼女は非常に弁が立ち、相手が誰でも怯まず、いつも堂々と己の主張を言葉に乗せていた。
それを煙たがる人間もいないわけではなかったが、雫はそんな妹のことを尊敬していたし、格好いいとも思っていたのだ。
周囲から常に一目置かれる妹にも弱いところがないわけではない。家族なのだからそれは知っている。
だが澪ならば、ここで弱さは見せないだろう。毅然として自分の意志を通したはずだ。
―――― 時々、自分が長女として、或いは末の妹として生まれていたならどうなっていたのか、考えることがある。
もしそうなっていたなら。それでも自分は今と変わらなかったのだろうか。或いは姉や妹のようになっていたのか。
しかし想像すればする程、答は曖昧になるだけだ。
姉妹と同じ可能性を持っていたようにも思えるし、何番目に生まれても自分だけの道があったようにも思える。
けれど雫は、生まれてからずっと彼女たちと共にいたのだ。おそらく親よりもお互いを知っている。
だから―――― 彼女は逸らしたくなる視線を一度のまばたきで縫いとめた。心の中で呟く。
『澪、お姉ちゃんにちょっと力を貸してね』
甘い香の匂い。
感覚さえ侵されそうな淀み。
オルティアの目が続きを話せと促す。
雫は気を抜けば震えが出そうになる声を低く保った。意識をクリアに、精神を統御し落ち着かせる。
「姫様。あの病は防ぐことは困難なれど、対処が出来ぬものではございません。
 ただ彼らは従来よりも単語を取り出しにくくなっているだけなのです。
 ほんの数年、僅かながら人が手を加えれば子供らは通常通りに言葉を取り戻すでしょう」
「数年とは。随分気の長い話であるな」
「今までの子も成長には時間が必要でございました。それに言葉の習得が少し加わるだけです」
落ち着いた雫の返答にオルティアは目を細める。姫は閉じた扇を手の中で鳴らした。
「どのように手を加えるのだ? 魔法でも使うのか?」
「言葉によって言葉を引き出します」
雫は将来得るであろう確信を現在に手繰り寄せて述べる。
元の世界とは違うかもしれない、上手く教えられないかもしれないなどと、今は思わない。必ず出来ると信じるのだ。
それが雫と子供たち、両方の未来を作る。
「既に言語を習得した人間の言葉が、子供たちの持つ単語への呼び水となります。魔力も魔法も必要ありません。
 ただ言葉を知る先達が手を加えることで、子供らはやがて本来通り支障のない会話をこなせるようになるでしょう」
「ふん……誰であっても出来るものなのか? お前でなくてもか」
「未だ誰もが掴めていない方法を確立できれば、でございますが」
ここから先はハッタリを混ぜた駆け引きになるだろう。
言語の教育とは、将来的には誰でも出来るものと思われなければならない。けれど今、雫が不要だと思われては困る。
要らない人間だと思われれば悪くて処分されかねない。だから雫はあえてもったいぶってオルティアを見返した。
何を考えているのか分からない姫は嘲弄にも見える笑みを浮かべた。華やかではあるが毒のある笑顔。雫は内心冷や汗をかく。
「お前ならばそれが確立出来るというのか?」
「姫がお許しくださいますのなら、わたくしは己の案を元にこの国にて成果をお見せいたしましょう。
 他国は皆、原因の究明にばかり目をやり、治療も魔法で試みるだけでございます。
 ですが魂の何たるかなどと議論を重ねても、まったく徒労にしか過ぎぬでしょう。損なわれた子供がそうでなくなれば済むだけのことです」
「ファルサス王にも、そう弄したのか?」
鋭い切り返しは、あらかじめ予想していたのでなければひやりとしたに違いない。
だが雫はそう言われることも分かっていたし、事実ラルスは何も知らないのだ。
「彼の王には何も。聞き入れられぬと分かっていながら口にする気はございません」
「ならば何故お前はあの男の傍に留め置かれていたのだ?」
「ファルサス王はわたくしが何か得体のしれないものではないかと疑っておりました。何故そう思われたのかは分かりません」
オルティアは喉を鳴らして笑う。笑われたのはラルスか雫か、またはその両方なのかもしれない。

雫にとって幸運なのは、この病はまだ発生し始めてまもないということだろう。
彼女がやらずともいずれは誰かが、教育によって言語は取り戻せるのだと、そのことを確信し大陸中に示すに違いない。
だがその論拠や教育の方法を発表できるまで、そして発表された内容が広く人々に受け入れられるまでには、 おそらく実験や論証を含め最低でも数年の年月が必要となるはずだ。それと比べれば元の世界の常識と知識がある雫は、予想できる結論に向って他者に先んじたスタートを切れる。
初めから優位にある雫だからこそ、手を伸ばせる子供もいるだろう。それらの子供の手を取ることが、今の雫の目的の一つなのだ。
オルティアは再び扇を広げた。琥珀色の瞳だけが雫を嬲るように凝視する。
「結果を出せるか?」
「必ずや」
澪ならばここできっと笑えるだろう。僅かも欠けない信念を持って、そう振舞ってみせる。
だから雫もまた誇りに満ちた笑顔を浮かべるのだ。過剰なくらいの自信を見せて権力者の関心を買う。
ファニートの言うことが真実で、この城にまもなく赤子が生まれるのだとしたら、オルティアにとってこの申し出は興を引くものであるはずだろう。
最善が病にかからないことであれば、次善はかかってしまった病の痕跡をなくすこと。
それが出来るという雫を保険として留めたいと思う―――― その選択に彼女は賭けていた。

いつの間にか強い香に嗅覚が麻痺してしまったらしい。
少しの息苦しさを感じながら待つ雫にオルティアはふっと笑った。扇を持っていない方の手が、彼女を指差す。
「よかろう。そこまで言うならやらせてやろう」
「ありがとうございます」
「ただし―――― 数年待って失敗を告げられても迷惑だ。その前に結果を見せてもらう」
首筋に水を落とされたかのように、雫は緊張を覚えた。
こうも言われるのではないかと思っていたのだ。無条件で認められるはずがない。何らかのテストを課せられる可能性は十二分にあった。
オルティアは扇を投げ捨てると頬杖をつく。肉食獣に似た目が、隣に控えるニケを見上げた。
「この娘に宮殿内の部屋と捕らえてあった子供を一人与えよ」
「すぐに手配いたします」
姫の命が何を意味するのか、雫は瞬時に理解する。
現キスク王ベエルハースの妹であり、この国の影の支配者とも噂される女は、優しさの対極にある笑顔で雫を見下ろした。
棘というよりは湾曲した刃の美しさがそこには見て取れる。
「そういうことだ。一月やろう。その間に最低でも年相応にまで言葉を戻せ。
 出来ぬ時はお前も子供も……ああ、言わずとも分かるであろうな?」
「……かしこまりました」
実地での試験。
覚悟は出来ていたものの、雫は期待とも恐怖ともつかぬ塊がこみあげてくるのを抑えることはできなかった。
血が滲むほどに拳を握りこんで頭を下げる。
「この身を尽くして、ご期待に応えてみせましょう。姫様」
「精々妾を楽しませてくれ」
雫は深く礼をして立ち上がった。気力を振り絞り退出する彼女の後姿を、全てお見通しと言わんばかりの笑い声が叩く。
艶めいた女の声はまるで、それ自体がいつまでも背にまとわりつき圧し掛かってくるような幻視を、唇を噛む雫にもたらしたのだった。