孵らない願い 093

禁転載

控えの間を出て廊下にまでたどり着いた雫は、遅れてその場にしゃがみこみたい疲労感に襲われた。膝に手をつき、深く息を吐く。
突然足を止めた彼女に、付き添っていたファニートは訝しげに顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「き、緊張した……」
まったく柄にもないことをしてしまった。
物騒な評判が後を絶たない王妹の前でハッタリ混じりの啖呵を切るなど、自分でもどうかしていると思う。
何を暴走しているのかと我ながら呆れるし、後先顧みないにも程があるとは思うのだが―――― 今はこれをやるしかないとも思ったのだ。
雫は上げていた前髪を手で崩すと体を起こす。
綺麗に結い上げた後ろ髪も解きたいのだが、女官がやってくれた為、数も分からぬ程あちこちにピンが刺さっていた。
雫は二本抜いた時点で諦めて手を下ろす。
「あー……あんな感じでよかったのかなぁ。見透かされてた気もするけど」
「問題ない。姫は自信家を好むからな」
「そ、そうなんだ?」
「大口叩いた後に失敗した奴を処刑するのがお好きなのさ」
物騒な発言は背後から唐突にかけられた。と同時に雫は後ろから頭を叩かれる。
決して軽くはない衝撃に後頭部を押さえた彼女が振り返ると、そこには皮肉な目をしたニケが立っていた。
姫の前にいた時とはやはり別人のような乱暴さに彼女はむっと眉を顰める。
「何すんの。痛いよ」
「こんなところで突っ立ってるな。さっさと来い。選ばせてやる」
「選ぶって何を」
オルティアがニケに命じていたのは部屋と子供の手配だ。なら部屋でも選びに行くのだろうか。
どんな部屋でも正直どうでもいい、そう思いかけた雫はしかし、ニケの返答を聞いて唖然とする。
「子供に決まっているだろう、馬鹿が。お前が心中する子供だ。実験室に案内してやるから好きに選べ」
「……は?」
一瞬のうちに聞き捨てならないことを複数言われた。
言われたのだが自分に関することはとりあえず脇に置き、雫は一番引っかかったことについて眉を上げる。
「実験室って何よ」
「言葉を与えると言った割には実験室の意味も分からないのか? まず自分の頭の不自由さを何とかしたらどうだ」
「はぁ?」
―――― これは殴りたい。
何故どの国に行っても殴りたくなるような人間がいるのか。
雫は額に青筋を浮かべつつ笑顔を作った。わざとらしい外面で聞き返す。
「実験室の意味は分かります。何故そこに子供がいるのかを尋ねたいんですが。文脈を読み取れない魔法士さん」
「何だと?」
「待て、二人とも」
一触即発となりかけた雫とニケの間に割って入ったファニートは、同僚の肩を押さえ、雫に向かって軽く手を振った。
両者の間に充分な距離を取ると彼は雫に向き直る。
「病気の研究の為に三ヶ月程前から子供たちが極秘で城に集められている。
 貧民街のみなし子や犯罪者の子が主だが、彼らは今、原因究明や治療の為の実験台となっているのだ」
「何それ……実験台って……」
「いいから来い。童顔女」
ニケは言い捨てると、雫が反撃に出る前にさっさと廊下を歩き出した。その後を彼女は慌てて追う。
大陸中何処でも言葉が通じるのだ。同じ大国なら何処もさして変わりはないだろうと思っていた。
だが……それぞれの国にはそれぞれの闇があるのかもしれない。
雫は胸の悪くなる思いを予感しながら足早に長い廊下を歩いていく。
そして彼女は「実験室」にて、その暗部の一端に触れることとなったのだ。



まず聞こえてきたのは金属的な泣き声だった。それも一つではない。いくつかの泣き声が重なっている。
雫は子供の泣き声に気づいてすぐ隣を歩くファニートを見上げたが、彼は黙ってかぶりを振るだけだった。
少し先を行くニケは突き当たりの扉の前で足を止める。彼がドアに手を触れさせると、両開きの扉が重い音を立てて奥へと開いた。
途端に大きなものとなる声の激しさに、彼女の足は一瞬止まりかけたが、それよりも早くニケが振り返って奥を指す。
「ほら、さっさと来い。いちいちとろい女だな」
男の嫌味にも腹は立ったが、尋常ではない泣き声に今は答える気になれない。
黙って中に入った雫は広い部屋の様子を視界に入れ―――― そして言葉を失くした。

他に何も聞こえなくなる程の大きな泣き声は、部屋の中央に描かれた魔法陣から響いている。
そこには粗末な服を着た二、三歳の子供たちが五人、陣の中心に集められていた。
彼らの小さな足には例外なく枷がつけられており、石床から伸びる鎖がその枷を繋ぎとめ、逃げられないように拘束している。
子供たちはある者は大声で泣きながら両手をばたばたと暴れさせており、ある者は虚ろな目でひたすら枷のつけられた足を掻き毟っていた。
それだけではなく部屋のあちこちではやはり同じくらいの年の子供たちが、他の魔法陣や魔法具に縛り付けられ泣き声を上げており 、中には体を押さえられ採血をされている子供や、言うことを聞かなかったのか平手を上げた魔法士の前で頭を抱え蹲っている子もいた。

雫が呆然と自失してしまったのは、それが彼女の抱く常識からあまりにもかけ離れた光景だったからだ。
魔法陣に縛られた子供が彼女たちに気づいて伸ばす手の方向を変えた時、そして陣を調整していた男がその手を打った時、雫はようやく我に返った。
考えるよりも早く言葉が口をつく。
「何してんの!?」
怒りと驚きが入り混じった悲鳴。
けれどそれは、部屋中に鳴り渡る泣き声にかき消され、ほとんどの魔法士には気づかれなかった。
ただ一人、比較的近くにいた男だけが振り返って眉を顰める。
「何だ? 部外者か?」
「違う。姫の客人だ。実験体を一人もらいにきた」
ニケがぶっきらぼうに答えると、男は明らかに不快な表情になった。手元の書類に目を落としながらぼやく。
「またか……。子供らも際限なくいるわけではないんだがな」
「文句があるなら姫に直接言うといい」
切り返された男は瞬間で顔を紅くした。侮蔑の目でニケを睨むと小さく文句を吐き捨てて踵を返す。
雫にはそれが「犬め……」と言ったように聞こえたが、部屋中がうるさいので自信はなかった。ニケの顔も見上げたが男は眉一つ動かしていない。
彼は雫の視線に気づくと顎で魔法陣を示す。
「どれでも好きな子供を選べ。早くしろ」
「早くしろって……何これ。一体何なの?」
「見たままだ。病についての実験をしている。体内に魔力を通して反応を記録したり、構成を精神に埋め込んで魂に変化を及ぼそうとしたりな」
「実験って、泣いてるよ!?」
「そうだな。気も散るし精神魔法をかけて黙らせられればいいんだが。余計な魔法がかかっていると正しい測定が出来ない」
意図的にはぐらかしているのか違うのか。
雫は自分の頭に瞬時で血が上るのを自覚した。平静なニケの胸倉を掴み上げようと手を伸ばす。
だがその手が男の服にかかるより早く、背後からファニートが彼女の肩を叩いた。男は平坦ではあるが溜息混じりの声で雫を宥める。
「はじめはここまで酷くなかった。が、一向に成果も出ずにいると貴族たちがうるさくてな。ファルサスより早く結果を出せとせっついてくる。
 魔法士たちも不興を買えば命に関わる。実験は苛烈にならざるを得ず、事態は悪くなる一方だ」
「だからって……」
それ以上の言葉は続かない。雫は自分に向って必死に手を伸ばす子供を見つめた。
―――― 人権など、貴族の欲の前には無意味だ。
いつか彼女にそう言ったのはエリクであったが、この部屋の有様もその一つの例なのかもしれない。
親のいない貧しい子や罪人の子には守られる権利が与えられない。ひたすらに泣き叫んで、疲れて壊れていくだけだ。
何度も殴られたのだろう、痣だらけの体を抱えて部屋の隅に蹲る子と、その前でひたすら書類に何かを書き込む女を、雫は眺める。
悲痛な泣き声を誰もが顧みない。大人も子供も自分のことで手一杯のまま、部屋の中は僅かの光明も見えず停滞していた。



雫は中央の魔法陣に歩み入る。
小さな体で鎖を引き摺り手を伸ばす女の子の前に、彼女は膝をついた。両腕を伸ばし小さな体を抱きしめる。
温かく柔らかい体。だが、血と汗の匂いしかしない命に涙が滲んだ。彼女は子供の肩口に顔を埋める。
同情かもしれない。偽善とも言えるだろう。
だがこの時雫は―――― この国に来ることを選んでよかったと、本心からそう思ったのだ。
子供は驚いたのか怖いのか彼女の腕の中でもがく。その体をそっと包みながら雫は囁いた。
「大丈夫……怖くないよ」
「そいつにするのか?」
頭上から降りかかる冷ややかな声に子供は震えた。雫は沸き起こる怒気に、奥歯を軋むほど噛み締める。
何処まで厚顔であれば気が済むのか。顔を上げると、鍵束を手にニケが二人を見下ろしていた。
傲然としたこの男の何もかもが腹立たしい。彼女は怒鳴り声をあげそうになるのをかろうじて堪えた。
「―――― この子にする。だから、他の実験はやめさせて」
「それは出来ない。この実験は王の命令だ。仮に姫が止めろと言っても止められない」
「こんなことをする必要はないって言っても?」
「誰がそれを証明する」
情味のない宣告。
だがそれは紛れもなくこの世界の事実なのだ。
現時点では誰も証明出来ない。踏み出そうにも確信が持てないであろう。ただ一人、雫を除いて。
彼女は歯軋りして押し黙った。ニケは隣に膝をつくと子供の足枷をはずす。
それを見て、自分もと思ったのだろう。蹲って足首を掻き毟っていた子が目を見開いた。雫に向って手を伸ばそうとする。
けれど小さな手が届く寸前、ニケはそれを無造作に払った。子供は後ろに尻餅をつき、驚きの後に大声で泣きだす。
「何すんの!?」
「一人だ。それ以上連れて行ってどうする。道連れを増やす気か?」
「あんたは……」
―――― 人間じゃない、と、声を荒げかけた雫を男は暗く沈んだ目で見返した。
真っ直ぐに向けられる視線。
それは一瞬ではあったが、彼女と同じくらい強く、また息を飲む程に凍りついている。
時が止まったかのように言葉を切る雫をニケは睨んだ。

誰が、何を思って、こうなっているのだろう。
ファルサスでは少なくともこうではなかった。中庭で出会った子供は健康そうな体と、人に甘え笑える心を持っていたのだ。
誰も止められないのか。反対を述べられないのか。怒りと失望が入り混じった目で雫はニケを見返す。
男は正面からその視線に応えたが、すぐに目を逸らすと大きな手を転んだ子供の足首に伸ばした。唾棄するように言い捨てる。
「腹が立つならやり遂げろ。逃げるな」
男の手の平に淡い光が見えた。光は子供の足首に絡みつき、皮膚に刻まれた傷跡を消していく。
雫は信じられない思いでその光景を見やった。何も言えぬまま、選んだ子供を腕の中に抱きしめる。

―――― 出来ることをするだけだ。
今までも何度も、そう思ってきた。事実その通りに足掻いてきた。
それでも……今ほどに自らの選んだ重みを感じたことはない。
雫の腕の中には、自分で自分を守ることも出来ない命がかかっているのだ。そして誰もこの責を代わることはできない。
彼女は胸に届く体温を感じながら目を伏せる。沢山の吐き出したいことを苦味と共に飲み込むと、僅かにだけ震える声を紡いだ。
「……一月後を、待ってなさいよ」
「ああ。逃げたくなったらいつでも言え。殺してやるから」
それ以上、雫は一言も返す気になれなかった。
沈黙する彼女の手からファニートが子供を抱き上げ、部屋を出るように促す。
やまない泣き声は扉が閉まる音と共に小さくなった。だがそれはいつまでも彼女の頭の中で響いて、消えないままだったのである。