孵らない願い 094

禁転載

城の隅にある小屋は、もとは庭師の為の物置だったのだという。
そこに手を入れて人が住めるようにしたという離れは、小さな場所ではあったが子供と二人暮らすには充分過ぎるものに、雫には思えた。
少し埃っぽい室内を見回す彼女に、男が紙を差し出す。
「これが必要単語だ」
「多い! っていうか分からないのが混ざってる!」
ファニートが差し出したリストには細かい字で単語がぎっしりと書き込まれていた。
その中には見覚えがある単語も勿論多いが、そうではないものも三割程は見て取れる。
雫が異世界人であることを知っている男は「分からないのはどれだ?」と聞いてきた。読み方を教えてくれるつもりなのだろう。
だが彼女は首を横に振ると、一旦そのメモをポケットへと仕舞いこんだ。
「ちょっと待ってて。明日までにメモしちゃうから。そしたら教えて」
「明日でいいのか?」
期限は一月しかない。そしてそれには彼女と子供、二人分の命がかかっているのだ。急がなくていいのかと彼が聞くのも無理ないだろう。
雫は苦笑すると、足元にいる女の子を見下ろす。淡い茶の瞳には恐怖と期待のどちらともつかぬ感情が揺らいでいた。
「明日でいいよ。今日はちょっと掃除したいし。分かる単語からやっててもいいわけだから」
「そうか。必要なものがあったら言うといい。厨房にも話は通ってる」
「分かった。ありがとう」
ファニートはまったく感情を見せぬまま小屋を出て行く。
そう言えば、「彼」もファニート程ではないがあまり表情が変わらなかったな、と雫はほんの数日前のことを懐かしく思い出した。
けれど今は今。これからのことを考えるべきだろう。雫はしゃがみこむと、女の子と目線を合わせる。
「これからよろしくね。名前言えるかな?」
ゆっくり話しかけると、子供は何を言われているのか分からない、といった表情になった。
言葉が分からないのか、それとも今までの仕打ちにより上手くコミュニケーションが出来ないのか。
雫は少し考えたが、相手が不安に思うよりも早く笑いかけた。自分の顔を指差す。
「雫。シズク、だよ。シズク」
「……シズ、ク?」
「そう。シズク。あなたは?」
今度は子供の顔を手で示した。再びの間。だが雫は目を逸らさず、笑顔も崩さない。
―――― 信頼が欲しいのなら、まず自分から誠意を見せなければならないだろう。それは相手が誰であっても同じことだ。
ここから新しく二人の関係を築いていく。だからお互いの名前を確認してその第一歩を踏み出すのだ。
子供はしばらく困惑を顕にしていたが、雫を指差し「シズク?」と尋ねて頷き返されると、自分を指して小さく「リオ」と答えた。
咳一つすれば消えてしまいそうな返事に、けれど雫は穏やかな微笑を向ける。
「じゃあリオ、これから一緒に頑張ろう」
両手を差し伸べるとリオは不安そうな目を見せた。だが、それでも彼女はおずおずと歩み寄り、雫の腕の中に収まる。

小さな温かい体。
この温度が彼女に人の命を思わせる。走らなければという気にさせる。
綺麗事で結構だ。綺麗事を望む人の心は綺麗なばかりではないと、皆が知っている。
だがそれでも手を伸ばしたいと思うなら、それもまた人の性なのだろう。
時には幻想も人の心を支えるには必要なものなのだから。

「頑張ろう」
返事のない呼びかけを雫は繰り返す。痩せた体を抱く腕を意識する。
そしてこの日を一日目として、彼女の新たな生活は始まったのである。



最初の日は小屋を掃除して簡単な食事を作り、リオに食べさせるうちにあっという間に終わってしまった。
疲れているのか早々と寝入ってしまった彼女に掛布を掛けた後、雫はあらためて「テスト範囲」に向き合う。
一つ一つの単語と、自作の辞書ノートをつきあわせながら彼女は単語の横に英語で意味を書き加えていった。
予想はしていたが、思っていたより数が多い。
ほとんどは名詞と動詞であるが、その数はざっと数えてゆうに六百以上はあるようだった。
だが、その全部を覚えなければいけないわけではない。リオが生得単語を思い出せなくなったのは約五ヶ月前。
それ以前は彼女も従来通り言葉を身につけていたのだ。テスト対象外であるそれらの単語は、軽くチェックが入れられている。
両者を差し引きすると、覚えさせなければならない単語はほぼ四百語弱と見て取れた。
雫はあまりにも多いその数にさすがに瞬間気の遠くなる思いを味わう。
「まだ三歳だもんね……いけるかな」
しかし無理とは言っていられない。今考えなければならないのは可能かどうかではなく、どうやるかの問題なのだ。
彼女はすぐに気を切り替えると、分かる単語の中から動物を示す単語を抜き出す作業に取り掛かった。
手持ちのルーズリーフを使って一枚一枚イラストつきの単語カードを作っていく。
文字は教えなくてもいい。必要なのは対象と名称の関連だけだ。
ただ、本来生得的であったものを教育によって覚えさせるということは、どれだけ汎用性を持たせられるかという問題も関わってくるだろう。
絵の猫を見て「猫」と言えても、実物を見て分からないようでは駄目なのだ。
それは難しい点ではあるが、実際にリオと向き合いながら対策していくしかない。
カードを作りながら雫は同時に、分からない単語の抜き出しも行う。
読めない単語の数々。これがただ自作の辞書に載っていないだけならともかく、雫が存在自体知らないようなものだったら厄介この上ない。
詳しいことをファニートに確認しなければならないし、それでなくともこのテストにおいて彼の協力は不可欠だろう。
雫は五十枚のカードを作り、単語の抜き出しを終えるとリオと並んで眠りにつく。
疲れて夢も見ないだろうと思ったが、うとうとと浅い眠りについた彼女はその晩、妹がまだ小さかった頃の夢を見たのだった。

「走っちゃダメよ」
小さな手をぎゅっと握ると澪は頷く。こうして確認しながら行かないと、すぐ彼女は興味を持ったものに引き寄せられてしまうのだ。
雫は横断歩道に辿りつくと何度も左右を確認して、妹の手を引く。
「ほら、行こう。青になった」
―――― あの時、二人だけで一体何処に向っていたのだろう。
そのことは少しも思い出せない。ただ慎重に慎重に二歳の妹と歩いていく光景が思い浮かぶだけだ。
もしかしたら、これは記憶ではなく夢なのかもしれない。作られた記憶。澪と出かけたというだけの夢。
浮かび上がってくる光景はいつも、金木犀の花を二人で見上げたところで終わる。
「きれいね」というどちらかの言葉を合図として――――



翌日朝からやって来たファニートは、リオが遊んでいるカードを見て驚いたようだった。一枚を手に取り注視する。
「器用なものだな」
「絵と単語が結びつけばと思って。こういうの得意なんだ」
「本職は何だったのだ? 職人か?」
「学徒だよ」
男が納得の声を上げたのは、雫の年齢のことも大きく影響しているだろう。この世界では童顔もあいまって彼女はおおむね「少女」に見えるのだ。
いい加減こちらに迷い込んでから半年が経過している。そろそろ十九歳と言っていいのかもしれないが、正確な暦が分からないので断言できない。
もっとも「十八歳」と言っても胡散臭げな目で見られるのだから、十九歳と言ったらどうなるのか、考えると頭が痛かった。
「それよりこれ。分からない単語を教えて欲しいんだけど」
「ああ、分かった」
雫は隣に座るリオに細かく話しかけ、描かれた動物の名前を当てると「そうそう」「えらいね」と誉めながら、片方でファニートの説明を聞き、メモを書き取っていく。三歳児の覚える単語とあって、そう難しいものはないのだが、中には雫の知らない生き物も混ざっていた。
「ネタイ」という動物の名に彼女は眉を顰める。
「それって何? 絵に描ける?」
「無理だ。私は絵が得意ではない。妖精と動物の間くらいの生き物なのだが……絵が描かれている本を探してこよう」
「お願い」
確認が終わると雫はリストを見て頷いた。リオには見せない疲れが、瞬間男を見上げる瞳に過ぎる。
「試験ってどんな形式になるのかな。これ全部試されるの?」
「いや。中から百語を選ぶ。絵を示して名を問うか、実物を示すかだが、実際どうなるかは分からない」
「姫が問題を決めるの?」
「ニケだ。前回も奴が担当した」
「前回?」
その言葉は雫の心胆を寒からしめた。
今までこんなテストを受けるのは自分の他にないと思っていたのだ。
ファニートの言うことが何を意味するのか、分かっていながらも尋ねずにはいられない。雫は躊躇いながらもそれを問う。
「前があったの?」
「あった。それぞれ別の主張をした人間が四人」
「……成功した?」
「していたら私は貴女を連れて来なかった。実験室で魔法士が『またか』と言っただろう?」
雫はそれ以上の追究をやめた。
形容し難い気分の悪さを、リオの前で言葉にしたくなかったのだ。
評判に違わずオルティアのやることは容赦がないらしい。現在その俎上に乗っている彼女は前髪をかき上げながら目を閉じる。
「貴女にだから言うが、このような試みは馬鹿げている。結果を出せない者に任せていてはいずれ取り返しのつかないことになるだろう」

男の声は彼の心情とは別に空々しく雫に響いた。
「取り返しのつかないことになるかも」というのは彼が先を見ている人間だからこそ言える台詞なのだ。
ファニートにとって、既に失敗しまった人間はその中には入っていない。そして或いは、今が全てとなる雫でさえも。
―――― そんな皮肉を考えてしまったのは、少し気がささくれているからだろうか。
雫は鋭く息を吐いて気分を切り替えた。心配そうに見てくるリオに微笑み返す。
男は静かな諦観に似た空気を面に漂わせた。
「貴女にならば、出来るのだろう?」
「出来るよ」
可能性がないのなら最初から引き受けない。
彼女が言い捨てると、ファニートは微苦笑した。出されたお茶に彼はようやく口をつける。
「それにしても……ニケか。私、あいつ苦手なんだけど」
「仕方ない。奴は姫のお気に入りだ」
「え。あの二重人格が?」
「だからだ」
ファニートの返事の意味は、雫にはいまいち理解できなかった。
だが男の声音には好意的なものは感じられない。むしろ真逆の微粒子が含まれているような気がした。
彼が立ち去ると、雫はリオとの会話に本腰を入れ始める。
彼女は後にこの時のファニートの様子を、何とも言えない苦さと共に思い出すことになるのだが、今はまだそれを知るよしもなかったのだ。