孵らない願い 095

禁転載

林檎の皮をくるくると剥いていく。ナイフが果実を白くするに従って、リボンのように皮が伸びていくのをリオは期待の目で見やった。
雫は大体を剥き終わると林檎を更に食べやすいよう切り分ける。こういったナイフ使いはいつの間にか元の世界にいた時より大分上手くなっていた。
「ほら、林檎」
「りんご」
「そう。いい子ね。林檎どうぞ」
小さな欠片にして摘み上げると、リオは大きく口を開いた。その中に雫はそっと一片を差し入れる。
雫は自分の分に歯を立てると「美味しいね」と笑いかけた。子供は「おいしーね」と返してくる。
「皮は、『赤い』。中は『白い』。……分かる?」
「あかーい?」
「うん。これが赤」
「しろ」
剥いた皮の表面を指差しながらそう言う子供に雫は苦笑した。だが上手く理解されなかったからといって、凹んでも投げ出してもいられない。
彼女はもう何十回目になるか分からない訂正を口にする。
「白。これも白、あれも……白。白い、色」
「しろ?」
「白」
リオと暮らし始めてから二週間近くが過ぎたが、彼女は充分に飲み込みの早い子だった。
もっとも幼児期は爆発的に成長するものだとも聞くのだから、彼女だけが突出しているわけではないのかもしれない。
既に遊びで使う動物のカードはあらかた覚え、日に何度かは散歩に出て実物があるものを確認している。
実験室での日々の為か、リオは怯えることも癇癪を起こすことも日に何度かはあったが、雫はそれを何とか収めていた。
子と共に暮らし、遊びを兼ねた勉強に時間を費やす日々は、やがて待つ試験を考えなければ穏やかとも言えただろう。

「あか」
「白だよ」
飲み込みは確かによいのだ。花の名前など、写実的に描いたカードを作ったせいもあるのだろうが、絵でも実物でも名を当てられた。
ただどうしても、間違って覚えているらしい単語はいくつか存在する。
雫はそれについて丁寧に何度も何度も訂正を入れているのだが、中々直ってくれないのが現状だった。
リオは雫の困った気配に気づいたのか自分も心配そうな顔になる。くすんだ金髪の小さな頭を雫はそっと撫でてやった。
「いいよ。これはゆっくり覚えればいいから。おやつ食べたら外に行こう」
―――― 焦ってはいけない。不安にさせてはいけない。
度々雫はそう自分に言い聞かせているのだが、やはり未修得単語の数と残りの期日を考えるだに、嫌な緊張も高まってくる。
失敗した時に待っているのは追試などではなく、ただの死なのだ。それも自分とリオ二人分の。
あの時の雫に「挑まない」という選択肢はなかった。だがそれでも壁の高さを意識するだに、後悔に苛まれそうな時もある。
そんな切迫感を感じている時などにリオが間違えると「どうして分からないの?」という非難がつい口をついて出そうになり、咄嗟に唇を噛むことになるのだ。

雫は甘く煮た林檎を残りのおやつとしてリオに出すと、彼女が時間をかけて食べ終わるのを待った。汚れた手と口を拭いてやり、服を調える。
「よし。お外行こう」
城の庭は広い。あまり表の方には行かないようファニートに言われていたが、裏庭を回るだけでも充分過ぎる程だった。
ついでに食材を貰いに行こうと厨房に通じる裏口に向う途中で、雫は甕を抱えた女官二人と出会う。
「あら、雫さん。リオも」
笑顔で声をかけてきたのはユーラという雫と同い年の女官で、非常に人懐こい愛想のよい女性だ。
雫が小屋に暮らし始めてから、何かと気にかけて入用のものがないか尋ねに来てくれており、リオも彼女を知り合いと認識している。
「こんにちは! ユーラ、ウィレット」
「こ、こんにちは」
ユーラの影に隠れるようにして頭を下げた少女はウィレット。彼女はまだ十五歳で、今年から行儀見習いも兼ねて城で働きはじめたのだという。
ウィレットは人見知りらしく、出会っても大声で挨拶をしてくることはないが、近くを通った時は真っ赤になって頭を下げてくる。
この国に来て強烈なオルティアの他に、鉄面皮のファニートや意地の悪いニケなどとしか話したことのない雫は、「普通」である二人を好ましく思っていた。
「雫さんお散歩ですか?」
「です。厩舎に行って馬を見ようと思って」
「あら、いいですわね。そう言えば厨房にいいデウゴが入りましたから。少し取り分けて置きますわ。帰りに声を掛けてください」
「ありがとうございます!」
雫が両手を鳴らしてお礼を言うと、隣のリオも「ありがとーざいます」と復唱する。その様子が可愛らしくて雫は彼女の頭を撫でた。
デウゴは雫の知らないこの世界の果物だ。ファルサスなどではよく見た柑橘類だが、この単語もテスト範囲に入っている為、実物がもらえるのはありがたい。
二人にもう一度礼を言うと、雫はリオの手を引いて厩舎へと向う。

馬は離れた場所から見ても、充分に大きく迫力があった。
興奮するリオが近づいていかないよう充分に注意しながら、雫は近くにあるものの名称を確認していく。
「馬」「草」「車輪」など 一つ一つを指し示し「あれ、なーんだ?」と聞くとリオは気が散るのか煩わしげにかぶりを振ったが、何度も聞くとぽつぽつと答えていった。
正答が二十を越えたところで雫は休憩を入れ、遊びたがるリオの好きにさせてやる。
「あと二週間か……それにしても二千六百って少ないよね」
期間中に覚えさせなければならない四百単語自体は多いと感じたが、それとは別に考えると全部で二千六百という生得単語の数はむしろ少ないのだ。
それは、人の思考や会話で用いられる単語全てには遠く及ばない数だろう。
生得単語の組み合わせによって作られるという合成語の方が、遥かに多いはずだ。
「合成語は教育で覚えるっていうんだから……生得単語も教育出来るって発想にならないのかな」
厩舎の周囲を囲う柵に頬杖をついて雫は嘆息する。
全ての単語が教育によって得られる世界出身の彼女からすると、そう思わないことこそが不自然に感じるのだが、それはこの世界の考え方とは異なものなのだろう。 この世界では生得単語と文法の理解があらかじめ備わっているからこそ、先も得られると思われているのだから。
―――― 仮に元の世界で、急に子供たちが泣けなくなったとしたら。
それを教育によって取り戻そうと思う人間はまず当分は現れないに違いない。
更には「生得的に人は泣くことが出来ない世界」があったとして、その世界の人間に「教育を受ければ泣くことも感情を抑えることも出来るのだから、まず教育すればいい」などと言われても、皆、ぽかんとしてしまうはずだ。それよりは何らかの異常を真っ先に疑い、原因究明しようとする様がありありと想像できる。
有史以来染み付いてきた常識を覆すことは困難だ。コペルニクス的転回は誰もが到達できるものではない。
雫はそのことを理解しながらも、頭の痛い思いに襲われて溜息をついた。少し離れたところで草をむしるリオを見やる。
「壁は高い……。というか、私が教えてもいいのかな」
何でか言葉は通じているようだが、どういう仕組みで通じているのかは分からない。
この状態で異世界人である彼女が言語を教えても支障はでないのだろうか。
同じ文章を翻訳しても、訳者によって大きな違いが出てしまうことはしばしばある。ましてや雫には日本語と大陸言語の差異が感じ取れないのだ。
せめてそれが分かれば慎重に訳語を選べるのだが、果たしてリオに雫の言葉は齟齬なく通じているのか。

風に溶け込む彼女の呟きはいたしかたない悩みではあったが、それはすぐに棘を持って返された。
「気が挫けたのか? 根性のない女だな」という声が背中に突き刺さったのだ。
発言の主が誰であるかなどと考えるまでもない。数少ない会話でも、男の嫌味と声はよく記憶に残っている。
雫はあからさまに舌打ちしながら振り返った。いつの間にか背後に立っている男を睨む。
「何の用? 喧嘩なら他に売って欲しいんだけど」
「随分暇そうに見えるな」
「考えごとしてるの。子供の集中力は長く持たないし、計画的にやらないと」
「もうあと二週間だ」
「分かってるって」
鼻を鳴らしながらのニケの言葉に、雫はぶっきらぼうに言い捨てた。
期限が迫っていることなど誰よりも彼女がよく分かっている。
期間は半分を過ぎた。だが、覚えていない単語はまだ二百以上残っているのだ。
毎晩覚えられた単語と、いつも間違う単語、そして残っている単語を数えて悩んでいるというのに、いちいち分かりきったことを言わないで欲しい。
これでニケがわざわざ彼女を揶揄しに来たのだとしたら趣味がいいにも程があるだろう。
早く帰れと言わんばかりの目で、雫は自分より少し背が高いだけの男を見返した。
「あんたこそ暇そう。仕事すれば? 姫様のところに行くといいよ」
「呼ばれてもいないのに行ったら不興を買うからな」
「ならぎりぎりのところで潜んでなよ。忍みたいに」
「シノビ?」
ニケは眉を顰めたが、聞き返してくるまではしなかった。雫はこれ以上嫌味を言われる前に、「もう帰るよ」とリオを手招きする。
リオは雫の声に振り返ったが、ニケのことを覚えているのか、それとも魔法士が皆が着ている魔法着のせいか硬直して戻って来ようとはしなかった。
一歩でも男が踏み出せば逃げ出してしまいそうな子供の様子に、雫は顔を顰める。
「さっさと帰ってよ。リオが怖がってる」
「俺を怖がっていては試験すら出来ないだろうな」
「……あんたが担当したんだってね、前も。前も試験にならなかったの?」
痛いところを突かれた彼女は矛先を微妙に逸らしてつき返した。
確かにこれでは試験どころではない。リオにはよく言い聞かせねばならないだろう。雫は帰ってからやることに一つ付け加える。
だがそれはリオのせいではないのだ。皮肉をぶつけられたニケは怯える子供の方を向いたまま横目で雫を一瞥した。
「試験以前の話だ。奴らは子供を教育しようなどとは思わなかった」
「じゃあ、何を?」
「魂の欠損を禁呪で埋めようとした奴や精神魔法で成人の知識を移行させようとした奴。
 肉体的な病だと言って魔法薬を投与し続けた奴もいたな。子供は途中で死亡したが。ああ……神の力に頼る奴もいた」
「…………」
聞かなければよかった。
雫は陰惨な内容にまずそう思ったが、それとは別に最後の人間について疑問を持った。不快を押し込めて聞き返す。
「神の力? そんなものないんじゃないの?」
「と、皆が思っているし俺も思っている。けどそいつは熱心なアイテア信徒だった。
 奴が言うには、かつては生得単語は固定されていなかったらしい。
 それが固定されたのは神代以降だからと言って、単語を取り戻すべく祈りに頼ったんだ。―――― 馬鹿馬鹿しい」
「え、ちょっと待って」
―――― 今の話の何かが引っかかる。
その違和感を確かめるべく、雫は慌てて口を挟んだ。ニケは眉を寄せて彼女を睨む。
「何だ?」
「かつては生得単語が固定されてなかったって……本当?」
「知るか。そんな記録は残ってない。ただの妄言だろう」
「だって、その人がそう思ったからには何か根拠があったんじゃないの? 聖典とかないの?」
「おかしなことを聞く奴だな。アイテア神教に聖典なんかない。何処の田舎の人間だ?」
雫は反射的に口をつぐんだ。出身を怪しまれては不味いのだ。彼女は無言のまま頷く。
だが、慎重になると同時に掴みかけていた疑問も霧散してしまった。何がおかしいと思ったのか、それももう思い出せない。
第一その主張をした本人に聞こうにも、失敗した人間は既に処刑されてしまっているのだ。雫は自分の立場を思い出し陰鬱な気分になった。
ニケは彼女を睨んだまましばらく黙っていたが、それ以上雫が口を開かないと分かるとリオに視線を戻した。 草の上にしゃがみこみ子供を手招く。
「ほら、来い」
「リオに何するの」
「何もしない。童顔は黙ってろ」
雫はつい作ってしまった拳を男の後頭部に向かって振るいたくなった。しかし、その前にニケはポケットから何かを取り出す。
「来い。これをやるから」
彼がリオに向って差し出したのは、色取り取りの紙につつまれた菓子のようだった。硬直していた子供の目の色が変わる。
赤や黄色の紙は彼女の好奇心を激しく刺激したらしい。リオはニケと雫の上に視線を往復させる。
ニケは一体何をしたいのか。疑問に思いつつも雫が笑顔を作って頷くと、リオは恐る恐る足を踏み出した。
菓子を差し出したまま動かない男に向かってそろそろと近づき、ついには飴の一つを手に取る。
「全部持っていっていいぞ。そっちの手も出せ」
もう一つを取ろうとしていたリオは困った目で雫を見上げた。彼女が両手で器を作る仕草をしてみせると、同じように小さな手を揃えて上を向ける。
ニケはその中に持っていた菓子を全て注いだ。目を輝かせる子供に微笑する。それを見た雫は、意外さに思わず絶句してしまった。
「あんたって……」
「何だ?」
「……何でもない」
突然立ち上がった男にリオは瞬間びくっと驚いたものの、すぐに菓子へと注意を戻す。
そしてその様子を背に雫を振り返ったニケは、既にいつも通りの、人を小馬鹿にした目をしていた。侮蔑の視線が雫に刺さる。
「子供と遊んでいる暇があったら、もう少し苦労するんだな。童顔がますます幼くなる」
「余計なお世話だよ!」
やっぱりこの男の言動全てが癪に障ることに変わりない。
雫は「帰れ」と言う代わりにリオを抱き上げると、彼を置き去りに自分からさっさとその場を後にしたのだった。