孵らない願い 096

禁転載

中高校生時代には、友人の中に必ず一人は「保育士になりたい」と希望する子がいた気がする。
子供が好きだから、というのがその理由だったと思うが、雫自身は保育士になりたいと思ったことは一度もない。
別に子供が嫌いなわけではなく、むしろ好きな方だ。親戚の子供が遊びに来た時などは進んで遊んでいる。
ただ、それ以上となるとやはり怖いのだ。
小さな命を預かることが怖い。他人の子についての責を負う自信がない。
幼子とは、多くの可能性を脆弱な体に詰めた生き物だ。何にでもなれるし、どうにでも出来てしまう。
無意識に接している、それだけのことにおいてでさえ彼らは容易く変わるだろう。
だから触れたくない。関わりを持つことに抵抗がある。
親でもない彼女がその一線を越える覚悟を持つことは、非常に敷居の高い決断に思えていたのだ。
だがつい半年前までそう思っていた雫は今、血の繋がらない幼児と共に暮らしている。
寝食を共にし、言葉を教え、そして―――― か弱い命を掌中にして。


雫は濡れた布をよく絞ると、それでまだ目を擦っているリオの顔を拭いた。
服を着替えさせ、朝食を用意するとリオは自分から席につく。
「シズク、おはよう」
「おはよう、リオ。ジュースは林檎とデウゴ、どっち?」
「デウゴがいい!」
勢いのある返事に雫は笑いを堪えながら台所へと向った。デウゴの皮を剥き、生ジュースを作る。
教育に重点を置いているせいも勿論あるのだが、日に日に話が通じるようになっていくリオと暮らしていると毎日が発見の思いだ。
元の世界にいた頃、家庭教師のアルバイトをしている友人が「教えることはすごく勉強になる」と言っていたが、この世界に来てから雫は身をもってその意味を実感することとなった。エリクに教えるにしてもリオに教えるにしても、教えるという行為は雫の中に蓄積されていた知識を、改めて理解し整理させる効果を伴っていたのである。
「いただきます、は?」
「いたーきます!」
雫は微笑むと自分も「いただきます」と答えて朝食に手をつけ始めた。
もっとも緊張から逃れられない生活の為か、彼女は最近それ程量が食べられない。
軽い食事を取ると、雫は最後にリオにだけお手製のプリンを出してやった。
それは卵と牛乳だけで作った素朴な味のものだが、子供受けは非常によいのだ。
途端にぱっと笑顔になるリオを雫は微笑ましく見つめる。
―――― 例えば将来誰かと結婚して子供を産んだとしたら。
こんな風に子供と過ごす日常が当たり前のものとなるのだろうか。
具体的な光景がまったく浮かばない想像に意識を巡らせていた雫は、ふと目の前に何かが押し出されたことに気づいて視線を動かした。
見るとリオが半分中身が残ったプリンのカップを差し出している。雫は目を丸くして中身を見やった。
「あれ、美味しくなかった?」
「おいしいよ」
「じゃ、何か入ってた?」
「はんぶん。シズクに」
リオは早口でそう言うと片笑窪を作る。
美味しかったから、半分個にしようと言うのだ。思いもかけない言葉を理解すると同時に雫の胸は熱くなる。
抱きしめたくなる気分とは、こういうことを言うのだろうか。雫は両手を伸ばすとそっとリオの髪を梳いた。
「ありがとう、リオ。でも全部食べていいよ。私はお腹いっぱいだから」
「いいの?」
「うん。召し上がれ」
カップを抱え込んだリオは、戸惑いながらもやはり嬉しそうだった。
匙ごとプリンを頬張る彼女を雫は苦悩を押し隠した目で眺める。
残り期限はあと一週間。未修得単語は百二十前後が残っていた。



この生活を始めてから、母親と姉に改めて感謝するようになった。
幼い雫の面倒を見てくれたのは主にこの二人であったのだから。
よく忍耐強く付き合ってくれたものだと思う。
―――― これ程までに不安定な、幼児というものに。



派手な音を立ててグラスが倒れる。
雫はその音に顔を顰めたが、リオ本人の方が「やってしまった」という目になったので、感情的な言葉は何も言わなかった。
黙ってグラスを戻し零れた水を拭く。無言の行動にリオを責める態度が滲んでいないかどうか、今の雫には自信がなかった。
彼女は片付けを済ますと、縮こまる子供を見下ろす。
「物に当たらないで。大丈夫だからもう一度やろう」
午前中の勉強を終わらせた後、雫は昼食後にどうしても間違う単語ばかりを集めてリオに復習させようとしたのだ。
だが彼女は何度も同じ単語をやらされた為か、今日は最初から嫌がって椅子にも座ってくれなかった。
呼んでも一向に近寄ってこないリオを、雫はついに捕まえて椅子に座らせようとした。けれどそこで暴れたリオにグラスを倒されてしまったのだ。
「リオ、これは何色?」
椅子に座らせた子供の肩に背後から手を置いて、雫は白い丸を指差す。しかしリオはぎゅっと口を噤んで答えなかった。
苛立ちとも悲しみともつかぬ感情が雫の足首を捕らえる。
「答えて、リオ」
「……やだ」
「リオ」
「やだ!」
椅子から下りようとする子供の両肩を雫は掴んだ。背もたれに押さえつけながら茶色い瞳を覗き込む。
「よく聞いて、リオ。あと一週間、一生懸命勉強するの。終わったら遊んでいいから……」
「やだ! はなして!」
「もう少しだから。お願い」
「いやなの!」
「テストがあるんだよ。やらなきゃ駄目なの!」
―――― 何故分かってくれないのか。この一週間で、全ては決まってしまうのに。
命がかかっているから、とはとても言えない。教えたくはないし、言ってもリオには理解できないだろう。
だがそれは口に出せないだけで、紛れもない事実なのだ。
雫はリオを殺す為に選んだ訳ではない。やれると思ったからこそ選んだのだ。たとえそれが、先の見えない一歩だったとしても。
小さな肩を押さえていた手を離すと、雫は床に膝をついた。下からリオを見上げる。
若干三歳の子供は癇癪寸前の目で雫をねめつけていた。
「お願い、リオ。勉強しよう。今頑張ればきっと間違えなくなるよ」
「いや!」
子供の手。
真っ直ぐ、それは目に向って振り下ろされる。
突然のことに、避けることさえ雫は出来なかった。
歪む視界。痛み。
脳裏が染め上げたように赤くなる。
「―――― リオ!」
まるで自分のものではないような怒声。雫の冷静な部分が今を後悔する。
止めたい力。止まらない時間。
声にならない悲鳴が生まれかける。

だが、雫の怒声にその時、ドアを叩くノックが重なった。
硬直し息を飲む彼女の背後で軋みながら扉が開く。その向こうに立つファニートは二人の様子に気づいて眉を寄せた。
「どうした」
入り込む外の空気。
力のこもった右手が震えだす。
両足が竦む。
カッとなり立ち上がっていた雫は、振り上げたままの己の手に気づくと、五指をきつく握り締めた。
両手で頭を庇い震えるリオを見下ろす。

助けたいから連れて来たのだ。
こんなことをする為では決してない。
新しい痣など作りたくもない。
もしそうなってしまうのなら、ここも実験室と――――

『何も変わらないのに』

「……ごめん、リオ」
リオは震えたまま顔を上げない。雫は戸口に立つファニートを振り返った。
「ごめん。助かったよ」
「血が出ている」
「うん。顔洗ってくる」
男は不可解そうな顔をしたが、それ以上何も問わなかった。部屋を出て行く彼女に代わってリオの傍に歩み寄る。
雫は小屋の裏に回り水道を捻った。冷たい水で何度も顔を洗う。
リオの振り回した手が瞼に当たり、彼女の目の上に浅い傷を作っていたが、今は沁みるとさえ思わなかった。
ただ、あんな小さな子を感情のままに叩こうとした後悔だけが彼女を打ちのめす。

伝わらないのだ。
言葉だけでは、きっと全ては。
だから人は、態度で示す。
愛したいのなら愛していると、お互いが分かるように相手を慈しんで心を示すのだ。

雫は両の手に透明な水を掬い取った。
水の飛沫が服の裾を濡らす。腕を伝う水滴が袖の中に入り込んだ。
けれどそれら一切に拘泥せず、雫は顔を洗い続ける。
水はまるで、彼女の未熟さをたしなめるように止まらない涙をもさらっていったのだった。



顔を洗っているうちか拭いているうちには、傷の血も止まっていた。
雫は簡単に着替えて髪を結び直すと、二人の待つ部屋へと戻る。
彼女がドアを開けた時、リオはファニートの指す絵を覗き込んでぽつぽつと単語を答えていた。一拍置いて四つの目が雫に向く。
「ごめん、二人とも。大丈夫だった?」
「ああ」
いつもの鉄面皮で答えるファニートとは別に、リオは慌てて彼の背中に隠れた。
やはり信用を失ってしまったか、とほろ苦く微笑んだ雫はけれど、次の瞬間耳を疑う。
リオは―――― おどおどと男の後ろに隠れながら「ごめんなさい」と小さく呟いたのだ。
「……リオ」
「ごめんなさい」
茶色の瞳には、捨てられるのではないかと怯える不安がありありと見て取れる。
いじらしくも痛ましくもある彼女の目に、雫は再び熱くなる目頭を押さえた。
まだ期限は残っている。
だから、まだ可能性はいくらでもあるのだ。
雫は笑顔を作るとリオを見つめる。
「私も、ごめんね」
「リオべんきょうする」
「うん」
テーブルに戻ると彼女はリオに並んで座った。小さな頭を、柔らかな髪を雫は慈しんで撫でる。
辛いことがあっても、今はある意味幸福なのだろう。こうして声をかけ、笑顔を向け、隣り合えるのだから。
雫はリオに顔を近づけながら単語の勉強を再開する。
小さな手と幼い声、頬の柔らかさや寄り添う体の温かさを雫が幸せの象徴として想起するのはしかし、最早リオに触れられなくなった、その後のことだったのである。



「少し疲れているのだろう」
勉強を終え、リオに昼寝をさせて戻ってきた雫に、残っていたファニートは平坦な声をかけた。
お茶を入れようとしていた彼女は苦笑する。
「だよね。まだ三歳なのに、英才教育だってここまで詰め込まないよ」
「違う。貴女だ」
「私?」
雫が自分の顔を指差すとファニートは頷いた。男の無骨な視線が雫の上で止まる。
「慣れない環境だ。ただ子供と暮らすだけでも大変なのだろう。疲れているから感情が揺れやすくなる」
「そ、そうなのかな」
「限界だと思ったら半日くらい休むといい。やり方を伝えてくれればその間は私がやる」
ファニートは「お茶はいい」と言うと立ち上がった。様子を見に来ただけなのだろう。そのままドアへと向う。
無愛想な男は見送りに出た雫を振り返った。溜息にはあと少し届かない表情で彼女を見下ろす。
「連れてきて悪かった、とは言わない」
「うん、いいよ。私が選んだんだし」
「だが貴女は……充分努力していると思う」
ファニートは、軽く驚いた雫が何か答えるより先に、長身を翻し小屋から立ち去った。
一人になった雫は言われた言葉を反芻し、思わず苦笑する。
この半年間、今までにも何人かが言ってくれたのだ。「あなたは、頑張っているよ」と。
それらの言葉は優しかった。足掻く自分を認められたようで嬉しく響いた。
だが今は、彼の言葉を同じように嬉しいと思いながらも、それ以上に「結果が欲しい」と思う。
結果さえ得られるのなら、どれ程疲労しても構わない。こんなものはきっと、後になれば笑える苦労話になるだろう。
雫は深く息を吐き出すと、自作の教材を整理しにテーブルに戻る。
少しだけ眠りたいとも思ったが、ただただ今は時間が惜しくて仕方がなかったのだ。