孵らない願い 097

禁転載

「シズク、だいじょうぶ?」
幼い女の子の声。
その声を聞いて、思考に集中していた雫は慌てて顔を上げた。笑顔でリオを振り返る。
「大丈夫だよ。ありがとう」
「いたくない?」
「ううん。平気」
何故、「痛くない?」と聞くのか。
それは先日リオがつけた傷のせいかもしれない、と雫は最初思ったが、元々浅かった傷は既に僅かな痕を残すのみである。
ならば雫の具合が悪そうに見えたからリオはそう気遣ったのだろう。
疲れ果てた顔を子供に見せてしまったことに彼女は苦笑しか零れなかった。隣の椅子によじ登るリオを手を出して支えてやる。

―――― 確かに、参ってはいるのだ。
問題のテストは三日後。何とか駆け足で全ての単語は教えてはみたものの、その内の五十以上はまだ安定して正答を出せない。
元々教えるにしても出来るだけテストに出しにくいであろう動詞や形容詞を選んで後回しにしてみたのだが、このように「山を張る」行為に果たして意味があるのか、彼女はそれさえも不安だった。
何しろ相手は姫とニケである。わざわざ弱いところを突こうとしてくる可能性は十二分にあるだろう。半分くらいは雫の失敗を期待しているのではないかと勘ぐってしまうくらいだ。
事情を知っている人間で雫たちの味方をしてくれるのはファニートしかいない。
女官のユーラやウィレットも親しくはあるし、リオを可愛がってくれてはいるのだが、彼女たちは何故城の敷地内にある小屋に二人が住んでいるのか、そこまでは知らなかった。

「べんきょうする?」
「しようか。カードやろう」
雫はテーブルの上に常備されている箱を開けると、中からカードを取り出した。
正答率の低い二十枚と、ほぼ正解を当てられる二十枚を混ぜて切る。
あの日からリオは、嫌がるそぶりを見せつつも自分から勉強に取り組むようになっていた。
雫に怪我をさせたことを後悔しているのか、それともぶたれそうになったことが怖かったのか、彼女はそれまで以上に聞き分けのよい子になったのだ。
だが、リオがいい子であればある程、雫はここ数日喜ぶよりも気鬱が湧き上がってくることを否定できない。
若干三歳の彼女がここまで努力しても、間近に迫ったテストに合格できなければリオはそこから先の未来を断たれてしまうのだ。
ぎりぎりまで足掻く―――― それは雫がいつも自身に課している姿勢ではあるが、リオにもそれを強制していいとはとても思えない。
このままで彼女に未来を保障出来るのか、雫は薄らいでいく自信に苦悩する時間が増えてきていた。
「シズク、どうしたの?」
あどけない視線が心配そうに見上げてくる。
また不安が表に出ていたのだろうか。雫は苦笑した。
そうでなくとも、子供は大人が思っているよりずっと聡いのだ。いつも傍にいる大人が翳れば、すぐにそれに気づいてくる。
愛らしい瞳に雫は破顔すると、「大丈夫だよ」と返した。健康的な生活で艶の出てきた髪を撫でる。
あと十数年も経てば、リオは可愛らしい少女へと成長するだろう。
人を気遣える心と笑顔を以って、友人たちや恋人に恵まれながら大人になっていくに違いない。
だがそれも、三日後を上手く越えられれば、の話である。
失敗すればリオはこの小さな体のまま全てを断たれ、冷たい躯へと変わらなければならないのだ。
「あと三日か……」
「しけんする? がんばる」
真っ直ぐな言葉が、今は胸に痛く突き刺さる。
掠れた声で「頑張ろうね」と返した雫は、泣き出したい気分に駆られて両目をきつく閉じたのだった。


考えてもどうすればいいのか分からない。
ただ出来ることと言えば、勉強を進め単語を教え続けることだけだ。
何度も反復練習をさせ、絵と音を結びつける。似たもの同士のグループを作り、動物なら動物、果物なら果物と関連づけもした。
そして何よりも雫は、当初から覚えて欲しい単語はふんだんに使ってリオに話しかけるようにしている。
奇しくもオルティアに「言葉を呼び水にして言葉を得させる」と啖呵を切ったように、会話を重ねることは学習の中でも大きな効果を果たしていた。
だがそれでも、まだ完璧には遠く届かない。
あともう一月欲しいとまでは言わないのだ。せめてもう一週間あったなら。雫は荒れた唇を噛み締める。
彼女はここに来てから日記代わりにリオの様子を記していたノートを閉じた。そのまま席を立つと、子供の眠る寝室を見に行く。
時刻は既に真夜中である。
簡素なベッドの上でリオは掛布を蹴って眠り込んでいた。雫は音をさせないよう近寄ってそれを元通り掛け直す。
「シズク……」
小さな寝言で自分の名が呼ばれたことに彼女は微苦笑した。
たった一月、けれど二人で寄り添うように暮らしてきたのだ。初めて会った時よりも情はずっと深いものになっている。
勿論雫はリオを試験の為だけの要員として見たことは一度もない。
だからこそ合格する可能性が百パーセントではないことを悟って、彼女は私情と理想の間で揺らぎ始めていた。
「リオ」
掛布からはみ出た手は本当に小さなものだ。
本来ならば大人によって守られ引かれるはずの手を雫はそっと握り締める。伝わる柔らかな温度に彼女は表情を歪めた。
誰にも、何もかもを曝け出して相談できはしない。ファニートにも言えないのだ。「リオを救いたい」などということは。
雫はリオの寝顔をじっと見下ろす。規則的に聞こえる寝息に耳を傾けながら彼女は、エリクは今頃何をしているのだろうかと、そんな物思いにしばし耽っていた。






月が青い。
雫は煌々と輝く大きな球体を見上げて溜息を飲み込んだ。腕の中の毛布を抱き直す。
夜の庭には人影は見えない。ただ時折見回りの兵士が持つ松明が揺れているだけだ。
雫は息を潜めて暗闇を移動していく。そのまま厨房に通じる裏口へと向って草を踏みしめた。時折彼女は毛布に向って「もう少し」と囁く。
やがて木々の向こうに厨房の裏口が見えた。その戸口に立っていたユーラは、雫の姿に気づくと無言で手招く。
雫は頷いて扉に駆け寄ると、木の扉の向こうに毛布ごと自分の体を滑り込ませた。
室内にユーラとウィレットの二人しかいないことを確認すると、彼女はそっと毛布を石床へと下ろす。
毛布は一人でにもぞもぞと解けた。中から眠そうな目をしたリオが出てくる。彼女は「しゃべっていいの?」と聞くと大きく欠伸をした。

―――― リオの試験はもう明後日にまで迫っていた。
しかし、彼女の正答率は未だ九割を越えない。
雫はどうしても出てこない単語や間違って覚えている単語、数十個を前にここ二日、食事も喉を通らぬ程悩みぬいた。
だが考えれば考えるだけ思考は袋小路に踏み込んでいく気がする。
『テストを受け、合格すればいい』
それが最上の結果だろう。雫にも当然分かっている。
けれどそれは結果であって方法ではないのだ。合格出来るかどうかは定かではない。
そして雫は……どちらに傾くか分からぬ天秤に、リオの命を乗せることは出来なかった。
自分の命であれば構わない。選択に命を添わせる覚悟は必要とあればいつでも出来る。
しかし、守らなければならない子供が自分と同じ土俵に立つことを、疲れ果てた雫はついに耐えられないと感じてしまったのだ。

「朝一番で仕入れの荷馬車が来ますから。その帰りに紛れ込めば城を出られます。帰りの馬車はほとんど調べられませんから」
「うん……よろしくお願いします」
雫の手からユーラへと渡されたリオは、不安げな目で雫を振り返る。一体自分が何処に連れて行かれるのか、怖がっているのだろう。
小さな手を雫へ伸ばそうとするリオに彼女は「大人しくしてて、しゃべらないでね」と囁いた。ユーラが毛布で小さな体を包み直す。
ウィレットはしきりに城の中へと通じる扉を振り返っていたが、落ち着かないのか「見張ってます」と言うと廊下に出て行った。
「大丈夫だからね。ユーラの言うことをよく聞いて」
雫はリオの体を隠す毛布を慎重に巻きながら微笑みかける。リオは雫と離れることに気づいたのか、泣き出しそうに顔を歪めた。
だがその声が洩れ出る前に雫は静かにするよう口の前に指を立てて示す。ユーラは小さな頭を撫でてリオを抱き直した。
「よろしいんですね、雫さん」
「はい」
二人がこの計画を立てたのは今日の夕方のことである。
いつも通り厨房に顔を出した雫を、この日のユーラは見咎めて何があったか問い質したのだ。
それは雫の様子があまりにもおかしかったからなのだが、ユーラに尋ねられた彼女は悩んだ挙句、「リオを城から逃がしたい」と答えた。
雫はそれ以上詳しいことを説明しなかったが、他国にまで響くオルティアの評判でユーラも薄々察したのだろう。
「夜にリオを連れて厨房に来てくれれば、外に出す手筈を整える」と即座に返して協力を約束してくれたのだ。
「本当に雫さんは来ないんですか? リオがいなくなったと分かったら……」
「平気です。この子だけお願いします」
リオを逃がしたと知れたら、オルティアは雫を許すまい。
だが二人とも逃げてしまっては、その責はおそらくファニートにまで及ぶだろう。
自分の未熟さのつけは自分で払う―――― それでいいと、雫は既に決心をつけていた。
一度ファルサスで捨てた命だ。ここで捨てるのも悪くはない。
リオまでもが殺されてしまうよりその方がずっといいと、彼女は諦観混じりにだが思っていたのだ。

「これは大事だから。失くさないでね」
雫はリオの手に小さな封書を握らせる。そこにはレウティシア宛ての嘆願書が入っており、拙い文章で雫の世界では言葉は生得能力ではないこととその教育の可能性、 他にもキスクで行われている子供たちへの実験の現状などが記してあった。
キスクの城を出れば、ユーラの手配によってリオはファルサスへ向う乗合馬車に乗せられる。
城都に到着し、レウティシアの手に封書が渡れば リオの未来は拓けるだろう。後はレウティシアが何とかしてくれるはずだ。
雫は心の中で多くの人たちに詫びながらリオの手を握る。小さな指が手の中でもどかしげに動いた。
「元気でね、リオ」
「シズクは?」
「私は行かない。だから―――― 」
その時、廊下から女の小さい悲鳴が聞こえた。
雫とユーラは顔を見合わせる。
次の瞬間二人は無言のまま動いた。ユーラはリオを調理台の影に隠そうとし、雫は悲鳴の聞こえた扉に向って走る。
だが、雫がドアを開けるより先に、戸は向こうから開いた。空気と、ウィレットの呻き声が厨房内に入り込んでくる。
そこには、黒の魔法着を着た一人の魔法士が立っていた。男は片手で少女の腕をきつく捻り上げながら、鋭い視線で雫を睨む。
常夜灯が照らし出す彼の顔は凶相と言える程に険しい。雫はその目を見返して、思わず驚きの声を洩らした。
「ニケ……どうして」
「面白いことをしようとしているな、童顔女。子供を何処へ連れて行くつもりだ?」
「何処へって……」
雫は背後を振り向かぬまま一歩後ずさる。
ユーラとリオは隠れているだろう。ならば何とか誤魔化さなければ。
そう思った雫は圧されかけた足で踏みとどまると、男に向き直った。
「何のこと? ウィレットを放してよ」
「とぼけるな馬鹿が。小屋には誰もいなかったぞ」
ニケは空いている方の手を上げる。詠唱がその動作に続くと雫は顔色を変えた。上げられた男の手に飛びつく。
「やめてよ!」
「放せ、女。今死にたいのか?」
「死なせたくないの! やめてよ!」
雫は魔法を打たせないよう夢中で男の手にしがみついた。
だが次の瞬間、舌打ちと共に衝撃が彼女の顔を打ち据える。
何が起きたのか、分かったが咄嗟に理解できなかった。
雫は息を飲むと、手を離しニケを見上げる。
ウィレットを放し、その手で雫の頬を打った男は、冷え切らない苛立ちの視線を彼女に注いでいた。
「死なせたくない? それでお前はそいつだけを助けて他の子供を見捨てるのか。まったくくだらない」
「見捨てるって……私は……」
「情がわいた人間だけ助かればいいのか? 目の前の人間だけ何とかなればいいのか。
 大した綺麗事だ。お前も結局姫と同じなのだろう。気まぐれで人の生死を左右して楽しんでいる」
「違う! 私は!」 
―――― 助けたかった。
ただそれだけなのだ。
彼女が知る他の子供たちのように、愛されて守られていて欲しい。幸せを当然と思って欲しい。笑って泣いて、温かい生を送っていて欲しいのだ。
子供たちには、大人になるまでの長い猶予が与えられている。
それなのに何故、生まれてからたった数年でその道を断たれなければならないのか。
この世界でも言葉を教えることは確かに出来る。リオはそうして雫から砂が水を吸うように知識を得ていったのだ。
だから、あんな実験は全て無意味だ。そのことを示して、彼女は他の子供たちをも救うことが出来るだろう。
―――― リオ個人への愛着に、目が眩んでしまわなければ。

「たまたまお前がそいつを選んだだけだ。仮にあの時別の子供を選んでいたらどうなる?
 お前はその子供を逃がして、そいつを見殺しにしていただろう。お前のやろうとしていることはあさはかな感傷だ」
ニケの言葉に反論できないのは、彼の言うことが一つの真実であるからだろう。
雫のやろうとしていることは、きっと視野の狭い自己満足でしかない。
それではリオしか救えず、そしてキスクを逃げ出す彼女の安全も、必ずしも保障されているとは言えないのだ。
雫は打たれた頬を押さえたまま俯いた。背後から子供のすすり泣く声が聞こえ始める。



どうやって足を踏み出せばいいのだろう。
以前はいつも出来ていたそれが、今は思い出せない。
決断出来ない。未来が見えない。何処へ踏み出しても大切なものを失くしそうで、雫は立ち尽くしたまま一人沈黙する。
崩れ落ちてしまいそうな彼女を―――― だがその時支えたのは、小さな子供の手であった。

「シズク」
リオの手が服の裾を引く。
振り返ると彼女は、短い指に力を込めてしっかりと雫の服を掴んでいた。涙で洗われた目が雫を見上げる。
「シズク、なかないで」
「リオ」
幼い時、自分が何を考えていたのか彼女は思い出せない。
覚えているのは家族が大好きだったということ。母親の笑顔や父の手の温かさ。断片的ないくつもの思い出。
思えば貰うばかりでいた幼少期だった。だがその間に両親も、こんな思いを味わったのだろうか。
「がんばろう、シズク」
愛するように愛されている。
助けたいと思う程に助けられる。
お互いがお互いを支えて、そうしてゆっくりと歩き始める。

『どうして今まで自分は一人だと、思ってしまっていたのだろう』



しゃがみこんでリオを抱きしめる雫を、男は感情を閉ざした目で見下ろした。
隣で壁に張り付いて震えるウィレットと、雫の背後から彼を睨んでくるユーラを、ニケは冷めた目で確認する。
「くだらぬ手出しをしたら、お前らも処分だ。弁えておけ」
「申し訳御座いません」
「で、女」
「……何?」
名前を呼ばれずとも自分のことだと分かる。雫は顔を上げて魔法士を見つめた。立場の異なる二つの視線が交差する。
男の双眸はこの時、まるで雪夜のように見えた。
全ての音を吸い込む程に静かで、冷たく、それでいて何処か懐かしい。
いつの間にか相手にも自分にもどちらにも怒りがないことに気づいて、雫は一息を零した。ニケは顔を顰めて彼女の泣き顔を注視する。
「努力を強いておいて裏切るな。お前の命は子供の尻拭いに使われるものだろう」
「…………」
「それも分からんようなら今、ここで殺してやる」
男は彼女の答を待たず詠唱を始めた。手袋を嵌めた右手に炎の球が現れる。
リオは怯えて身を竦めた。だが逃げ出そうとはせず、むしろ雫を庇うように彼女の前に回って抱きつく。
しがみついてくる体は僅かに震えて、だがとても……強かった。
雫は言葉にならぬ思いにゆっくりとまばたきをする。黒い睫毛を涙が一粒伝い、リオの髪の上へと滴っていった。

ここまで頑張ったのだ。その努力を、時間を、信じてやればいい。
命を使うのはその後だ。それは、ずっと支えてくれていた彼女の為に。

雫はリオを胸の中にかかえこむ。
「ごめんね」
返事はない。だが、握り返してくる小さな手を感じて彼女は微笑んだ。そっと幼い体を抱き上げる。
まだ少しも終わりではないだろう。それを決めていいのは自分だけではないのだから。
あとたった一日。けれどその間にも進むことは出来る。得られるものは、残っているはずなのだ。
雫は沈黙する三人に向って深く頭を下げる。
そうして彼女はリオを抱いたまま小屋へと戻ると、その晩は小さな寝台で二人手を繋ぎ、眠りについたのだった。