孵らない願い 098

禁転載

抱きしめる体は柔らかく、甘い香がする。雫は目を閉じてリオの肩に顔を乗せた。
まだ眠気が残っているらしい幼い声が囁く。
「しけんおわったら、あそんでいい?」
「いいよ。いっぱい遊んで」
「シズクも、あそぶ?」
「そうだね……。遊ぼう。色んなことして」
小さな声には万感の思いがこもっていた。雫は腕を解くと代わりにリオの手を引く。
向う先は城の奥。そこには恐ろしい姫君が二人を待っているのだ。



オルティアの部屋に足を踏み入れるのは一月ぶりだ。
あの時雫は一人で、姫に挑戦を申し入れた。
そして今、結果を出す為に彼女はリオと二人、オルティアの前に跪いている。
相変わらず香がきつい部屋には、しかし前来た時にはなかった白い紗幕が張られ、姫の姿はその向こうに隠れて見えなかった。
ただ麗しい声だけが雫の頭上に掛けられる。
「娘、息災であったか?」
「はい。姫様のおかげでございます」
一瞬、ニケが一昨日の晩のことを報告していたらどうしようかとも思ったが、オルティアはそれを知らないようだった。
雫は安堵して深く頭を下げる。同席する二人の男もまた主君に向かって頭を垂れていた。
「では成果を見せてもらおう。準備はよいか?」
「いつでも」
彼女は平然とした表情とは別に、緊張に縮こまるリオを力づけるよう小さな手を握る。
繕った態度と相反するようなその仕草に、正面にいるのであろうオルティアは気づいているのかもしれないが、雫は別にそれでも構わないと思っていた。
二人は一旦ニケの指示によって数歩下がる。中央に置かれた椅子にリオは腰掛け、雫は更にその少し後ろに立たされた。
リオの視界内に雫を置かないのは不正を防ぐ為だろう。ニケがリオに歩み寄り、簡単に身体検査をする。
前の夜のことのせいか、リオは男を見て身を震わせたが、彼の指示によって腕を上げたり下ろしたり、 軽く服を確かめられているうちに不思議と緊張も解けたようだった。少し笑顔を浮かべているようにも見えるが、雫の場所からははっきり分からない。
やがてニケは紗幕の前に戻ると、用意されていた大きな箱からカードを取り出した。それを見ただけで雫の心臓は跳ね上がる。

―――― どうか受かって欲しい。
それだけが今、彼女の望むことだった。保身の為ではなく、誰よりもリオの為に。
雫は試験の合格基準がどうなっているのかは知らない。ニケに聞いても教えてもらえなかったのだ。
一問でも間違えれば失敗なのかもしれないし、高確率を取れればいいのかもしれない。後者だったらいいのにと、彼女は願う。
ただここから先、試されるのはリオだけだ。
初めから終わりまでリオが一人で答え、結果を出さなければならない。
それはおよそ幼児が背負う重圧ではないだろう。代わってやることが出来たらどんなにいいか。雫は両手をきつく握る。
だからもし、この試験が失敗で終わったのなら。
その時は自分の命と引き換えにリオの助命を請おうと、雫は既に覚悟を決めていた。

カードには写実的な絵が描かれていた。雫が作っていた子供向けの絵柄のカードとは大分違う。
彼女はそのことにまず不安を覚えたが、心配をよそにリオは示されるカードを見てぽつぽつと答え始めた。
次々に捲られるカードを、彼女は迷ったり考え込んだりしながらも言い当てていく。
まず間違いなく正答が出せる単語からテストが始まったことに、雫は無意識の内に息を浅く吐いていた。
百という数は多い。雫は心の中で問題数をカウントしながら改めてそのことを実感する。それは答えても答えても終わらないようにさえ思えた。
普段なら、一問正解するごとに誉める言葉をかけていたのだ。だが無言のまま捲られるカードに、リオはよくついていく。

やがて試験は三十問を越えた。まだ誤答は出ていない。雫は握ったままの両手の平がじっとりと汗ばんでいることに気づいた。
リオの集中力は何処まで続くのか、何処まで覚えているのか、考えたくない不安ばかりが思い浮かんでくる。
隣のファニートを見上げると、彼は雫の視線に気づいて頷いた。どういう意図のものかは分からないが、表情はいつも通りの無愛想である。
だが彼女はすぐカードを捲る音に顔を戻した。新しい一枚は「時計」。リオはそれを難なく答える。
紗幕の向こうにいるのであろう姫もまた、テストが始まってから一言も発していない。本当にそこにいるのかさえ分からない程だ。
もっともニケは紗幕に半ば背を向けて立っているのだから、姫からはカードが見えていないのかもしれなかった。
ニケは黙々とカードを捲る。問いはようやく五十問にさしかかろうとしていた。

もし、この世界に来てしまったことに何か意味があるのだとしたら。
それは雫自身にとって、或いはこの世界の誰かにとって、プラスに働くようなものだったのだろうか。
雫は今までに出会い、別れてきた人々のことを思い出す。
彼らを助けられたと思ったことは今まで一度もない。むしろ彼女こそが助けられてきたのだ。きっと彼女がいなくても、彼らは彼らの未来を歩んだだろう。
ならばリオは―――― 。
リオは、雫と出会って……果たして救われるのだろうか?

六十問を越えると、問いにカード以外のものが混じるようになった。
ニケは箱から実物を取り出してその名を問うたり、部分や色形を示して尋ねたりする。
リオは特に部分を答える問いには時間をかけて迷ったが、躓きそうになりながらも何とか答を出していた。
雫がずっと心配していた「白」も、むしろ堂々とクリアする。正しい答を聞いた時、雫は座り込みそうな程に安堵して嘆息した。

試験が始まってからどれだけの時間が過ぎたのか。確かめたくともこの部屋には時計がない。
だが、いつもなら十分も経てば飽き出してしまうリオは、それよりずっと長い時間が経過してもきちんと椅子に座ったままだった。
分かる単語などは示されてすぐ食らいつくようにして答える。
そのリオが止まったのは、八十九問目のことだった。
動詞「読む」を問うカード。雫はそれを見た瞬間、不味い、と思う。
何ということのない言葉だが、リオはずっとこれを間違って覚えていたのだ。今まで何度訂正してもそれは直らなかった。雫は息を止めて答を待つ。
―――― 「読む」だよ、リオ。
心の声は前に座る彼女には届かない。雫は人が本を広げた絵を凝視する。
リオはいつも、本を読んで欲しい時は彼女にこう頼んできたのだ。―――― 「歌って」と。
椅子に座る子供はもじもじと体を揺らした。雫の方を振り返りたそうに頭を動かして、だが振り返れないでいる。
助けてやりたいのに出来ない。雫が己の無力さに歯を噛み締めた時、だが男の「あ」という声が耳に滑り込んだ。紙の落ちる音がそれに続く。
雫が音のした方を覗き込むと、床に何十枚も広がっていたのは試験用のカードだった。
手を滑らせたらしく、それらを落としてしまったニケは、紗幕の向こうに頭を下げると急いでカードを拾い集める。
そして彼がそれらを整えて新しく示した一枚は、リオの知っている単語「眠る」であった。
雫は黒い瞳を瞠って、試験を続ける男を見つめる。

百問目は「デウゴ」だった。
ニケがそれを箱から取り出した時、雫はつい笑ってしまいそうになった程である。
リオは難なくそれに答え―――― ついに試験は終わった。
泣き出しそうな胸の熱さと虚脱感に、雫は肺の中の空気を全て吐き出す。一人で頑張ったリオを抱きしめたくなった。
今日まで毎日何時間勉強を重ねてきただろう。遊びを兼ねていることもあったが、それは決して楽しいだけではなかったはずなのだ。
けれどリオは努力の結果、たった一月で約四百語に追いついた。病の影響のない他の子らと比べても、遜色ないところまで並び立ったのだ。
この覚えの早さは二人の苦心もあるだろうが、もしかしたら思い出せないだけで生得単語が彼女の中に刻まれている為なのかもしれない。
雫はそんなことをぼんやり考えながらもリオのもとに駆け寄りたくて仕方なかったが、オルティアの前であることを弁え動かなかった。
カードをしまったニケが紗幕に向って頭を下げてからしばらく、艶やかな女の声が響く。
「見事であった。娘」
雫は黙って頭を下げた。彼女へ言ったのかリオに言ったのか分からなかったから、返事はしない。
だがすぐにこの賞賛は雫にかけられたものだったと、彼女は知ることになる。賞賛は、雫にしかかけられなかったのだ。
「一月でよく応えてみせた。お前は妾の下で働いて貰おう。……魔法士どもがこれを聞いてどのような顔をするのか楽しみだな? ニケ」
「左様で。己の無能を恥らう心が残っていればよいのですが」
「そのようなもの、とうに擦り切れたであろうな。そうでなければ宮廷になどいられまい。
 それよりニケ、この娘をセイレネの側仕えにさせよ」
聞いたことのない名に雫は内心首を傾げたが、隣のファニートが僅かに揺らいだ気配をさせたことで、その名の主に思い当たった。
確かこの城にはもうすぐ赤ん坊が生まれると、彼は言っていたのだ。
オルティアはまったくその兆候のない体つきであったのだから、「セイレネ」が身篭っている女の方なのかもしれない。
姿勢を正す雫を置き去りに、紗幕の向こうの主人はいくつかの指示をニケに出していった。最後にまるで忘れていたかのように声を上げる。
「ああ、その子供はもう不用だ。処分しておけ」
「え?」
反射的に聞き返した雫の他に、答える者はいない。
リオは自分のことを言われたと分からないのか、まだ椅子の上に行儀よく座っていた。雫は彼女の後頭部ごしに白い紗幕を凝視する。
「姫様、試験は合格したのでは……」
「見事であったぞ。そう言っただろう。褒美としてお前には仕事を与える」
「私のことはいいです。リオを」
―――― 『処分しろ』と、あなたは言ったのか。

愕然とした雫の声に、女の鼻で笑う音が重なる。
愉しみの為に人を害す―――― そう大陸中で恐れられるキスク王妹オルティアは、見えない幕の向こうで喉を鳴らして笑っていた。
無知を嘲笑う声は鈴よりも軽く鳴って空気を伝う。
「どうした、娘? 情でも移ったか? だがその子供はもうお前には不要な存在だろう」
「姫様……彼女は、私の教えによくついてきました。彼女自身の努力がなければ、この結果は出せなかったのです」
「生きる為に努力する。それは人としては当然のことであろう? その努力が正しく報われるとは限らぬのも、また当然のことだ」
雫と年の変わらぬ女の声は、獲物を嬲るような棘に溢れていた。彼女は気の遠くなる思いに襲われ顔を傾ける。
努力が報われるとは限らない。それもまた本当のことだろう。
だが今ここでリオに報いようとしないのは、そう揶揄したオルティア自身なのだ。
努力の必然を言葉に乗せながら同時にその虚しさを示す女は、自分の与える結末が余程楽しいのかくすくすと笑っている。
その笑い声はまるで脳を侵すように雫の耳の中を転がっていった。震え始めた足を、彼女は踏みしめる。
「…………訂正を、お願いします」
「何をだ? 妾は何を訂正すればよい?」
「リオを処分するというご決定を。訂正なさってください」
怒りに満ちた双眸が紗幕を射抜く。留めようと手を出したファニートを振り払って、雫はリオの前に立った。
事態が飲み込めず辺りを見回すだけの子供を庇って幕の向こうを睨む。
「私は姫様の為に働きます。でも、それはリオを助けてくださったらのお話です」
「随分甘いことを言うな? お前は人を使うということが分かっておらぬのか?」
「リオを処分なさるなら、あなたは功に報いない主君ということです。
 そんな方には従えない。訂正なさってください」
視線を吸い込む白い布。その布を、雫は引き裂いて怒鳴りつけてやりたかった。
今まで、どれ程二人で苦労してきたのか。それは、テストに合格し重圧から開放されるこの日の為ではなかったのか。
失敗したとしても、リオだけは助けてもらおうと思っていたのだ。
にもかかわらず成功した今、待っていたのは雫を認めリオを処分するという決定である。
幼子を道具のように扱い始末を命ずるオルティアの指示は、雫にとって到底承服し得るものではなかった。

雫はわななく拳を握りこむ。先ほどまで汗の滲んでいた手の平は、今は血の熱さしか感じさせなかった。
だが吐き気のするような香の立ち込める室内は、彼女だけが一人浮き立っているかのように冷たい。
そのことさえも腹立たしくて雫は前にいるニケを睨んだ。オルティアの声が男の背にかかる。
「ニケ、子供を連れて行け」
「かしこまりました」
「待ってよ!」
リオに向って歩み寄る魔法士を止めようと雫は両手を広げた。だがニケは手を出して彼女を後方へと突き飛ばす。
バランスを崩しよろめいた雫をファニートが受け止めた。その間に男はリオを抱き上げる。
「待って! やめて!」
「ファニート、娘を捕らえておけ」
「ですが姫……」
「ファニート」
反論を認めぬ声に続く溜息と共に、背後から雫の両腕に男の手がかかる。
ニケに向って駆け出しかけていた彼女の足は行き場を失い、半ば浮くようにして床を蹴った。雫は全身で拘束に抗いながら叫ぶ。
「放して! リオを返してよ!」
ニケは小さな体を抱き上げて別の扉から外に出て行く。扉が閉まる直前、男の肩越しに不安げな茶色の瞳が雫を見た。リオは小さく「シズク?」と呼ぶ。
遠ざかるその姿に向って、羽交い絞めにされた雫は絶叫した。
「待って! 連れて行かないで! リオ!」 
名を呼ぶ最後の声は、閉じていく扉に当たって跳ね返る。
食い入るように見えなくなったリオの姿を追う雫に、幕の裏からオルティアの優しい声が投げかけられた。
「可愛がっていた生き物が死ねば人は悲しむ。だがそれもいつかは薄らぎ忘れられるだろう」

穏やかな声音。
しかし、温かいのはただ見せ掛けだけだ。
表層だけの言葉と事実は虚しく響き、そこには何も続かない。
オルティアはそれを知っていて、それさえも愉しんでいるのだろう。雫は血が滲む程に唇を噛む。
まるで血が全て何処かに流れ出てしまったかのようだ。頭も、体も、気づけば深奥まで冷え切っている。
嵐の前の海に似た思惟。静か過ぎてひどく冷静にも錯覚する思考に従って、彼女はゆっくりと振り返った。女の姿を隠す紗布を見据える。
「―――― 許しませんよ。姫」
床を這う宣告。
波の下、沈んでいく怒りに清んだ笑い声が応えた。優美な響きが室内の香を一層濃くする。
けれどかつては気圧されたその声を、この時の雫はもう忌まわしいとは思わなかったのだ。