孵らない願い 099

禁転載

一度は離れたファニートの手が雫を制止しようと肩にかかる。だが彼女はそれを振り払った。
紗幕に向って歩み寄ると薄布を掴んで思い切り手元に引く。天井の金具に吊られていた紗布は高い音を立てて裂かれ、オルティアの姿が曝け出された。
大きな椅子に片膝を立てて座っていた女は、まるで恋人に向けるような艶かしい目で雫を見上げる。
「このようなことをされたのは初めてだ」
「私も初めてです。ですが、その必要があると判断致しました。
 姫、リオへの処分をお取り消しください」
「それを要求する力が、お前にはあるのか?」
「要求を飲んで下さらねば、あなたへの協力を今後一切お断り致します」
雫の両眼には今まで生まれたこともない冷たい威圧が漂っていた。
オルティアを目の前にしてもそれは揺らぐ事がない。むしろ増して行く迫力に姫は見惚れるような笑みを刻む。彼女は象牙色の指で雫を示した。
「だが、お前のやったことは誰にでも出来ることなのであろう?
 例えば今回のやり方を見ていたファニートであれば、お前の教えがなくとも同じことが出来るのではないか?」
「本当にそうお思いですか? 私が手の内を全て見せたとでも?」
オルティアは声を上げて笑う。怒りに研ぎ澄まされた雫とのやり取りも、彼女にとっては娯楽に過ぎないのだろう。
それを雫は察したが、引き下がろうとは思わなかった。彼女は目を細めて美しく歪な女を見据える。
「私は過去にも現在にも二人とない異質。この世界の人間とは違う魂を持つ人間です」
「……何?」
「待て」
ファニートは雫の話を遮ろうと声を上げかけた。だが彼女はそれを黙殺し、オルティアが手振りで臣下を留める。
心配してくれる彼の気持ちは有難かったが、今は保身をしていられる時ではない。雫は感情を抑えた声で自らを語る。
「私はこの世界の人間ではありません。だからこそファルサス王は私を傍に置き、特異性を洗い出そうとしていたのです。
 子供に言葉を教えられると申し出たのは、私の世界ではそれが普通のことだからです。
 私の中にはまったく違う世界で培われた言語習得についての知識がある。
 ―――― ですが、姫よ。リオを処分なさるなら私はそれらを抱えたまま死にますよ?」

これは駆け引きだ。
雫は「代わりのいない」自分を使って、リオの命を買う。
決してつりあいの取れない取引ではないだろう。
「自分がどれ程特異な人間か分かっていないのか」と、エリクは再三教えてくれていたのだから。

オルティアは突然の告白を聞いてさすがに軽く目を瞠った。
だがすぐに元の表情に戻ると、顔を傾けて雫を見上げる。
「大した妄言だ、と言って欲しいのか?」
「真実です。嘘だとお思いなら私を失ってから後悔なさればよい」
「どうやってそれを証明出来る。体の作りが違うのか? 引き裂いて中を見てみようか」
「お好きに。ですが体は何も変わりませんよ。ファルサスで重傷を負った時に一度調べられましたから。
 私が特殊なのはこの魂と知識のみ。ただ、リオについて処分を訂正されなければ、この知識は何一つ差し上げられません」
まるで綱渡りのような交渉だ。
けれど分が悪いからと言って、戦わないという選択肢ははなからない。
オルティアにとっては虫にも等しいのであろう子供の命。だが軽いということはまた、認めるも容易いということだ。
だから雫は残酷さを第一に語られる王妹に、自らの価値を売り込む。
オルティアはいつの間にか笑うことをやめ、考え込むような表情を見せていた。紅い唇が片端だけ吊りあがる。
「精神魔法を使って無理矢理引き出すことも出来るぞ」
「そうお思いなら試されては如何でしょう。先日のファルサスでの事件……姫は何処までご存知ですか?
 例えば私に精神魔法をかけようとした男の精神が、逆に崩壊したことなどはお聞きで?」
何であろうと利用する。食い下がってやる。
それが偶然でも誤解でも、乗ってくればいいのだ。「この人間の協力を買った方がいい」と。
「姫が相応の対応を約束して下さるのなら、私は姫の為にこの知識を使いましょう。
 幼子に言葉を与え病を払い、それまでと変わらぬ知を取り戻させます。
 ただそれをお望みでないのなら交渉は決裂です。私の中にあるものは言葉一つもあなたにはお渡しできない」
臆することなく堂々と言い切る雫に、オルティアは探る視線を向ける。上目遣いのその双眸には、初めて年相応の迷いが一滴見て取れた。
姫はしばらくの時間をかけて考え込むと、ようやく口を開く。
「あの子供を助命すればよいと?」
「他にも実験に参加させられていた子供は全て。今までのことに見合う厚遇をお与えください」
雫がオルティアに懇願するのではない。
この部屋からリオが出される前であれば、或いはそうなっていただろう。だが今は違う。
彼女はもはや、王妹と対等な人間としてその前に立っているのだ。
先程までとは違い冷徹な威を宿す雫にオルティアは両目を細める。からかいのない鋭い声がとんだ。
「本当に言うだけのことが出来るのであろうな?」
「確かに。お約束致しましょう」
「分かった。その条件でお前を買ってやる」
オルティアはファニートに目配せする。男は無言で頭を下げると、ニケが出て行った扉から退出していった。
残された雫は温かさとは無縁の視線でオルティアを見つめていたが、すぐに傲然とも言える態度で一礼すると踵を返す。
髪を結い上げたうなじに針の如き声が突き立った。
「お前の世界は、どのようなところなのだ?」
「―――― 別にこことまったく変わりませんよ。生得言語以外は」
雫は振り返らないままオルティアの部屋を出て行く。
そしてこの日から雫は、女官でありながら文官待遇を受けて、正式にキスクの宮廷へと迎え入れられることになったのだ。






結局雫は、リオに再び会うことは叶わなかった。
それは彼女の出した条件には入っていないとして、城に突っぱねられたのだ。
だが、親のいないリオが宮仕えをやめる魔法士の一人に引き取られたと聞いて、雫はこの結果を受け入れた。
壮年を過ぎかけたその魔法士は再三の実験に疲れ、以前から辞めたいと申し出ていたのだという。
リオを連れて故郷の村に戻り、共に暮らしていくという魔法士に、雫は餞別として自分が作ったカード類を全て委ねた。
代わりに貰ったのはリオが渡して欲しいと言った落書きのような絵で、彼女はそれを本に挟んで大事に取ってある。

実験室に捕らえられていた他の子供たちも皆、養い親を紹介されたり預かり院に引き取られたりして、それぞれの居場所を得た。
五十人に及ぶ全ての子供の行く末を書いたリストを「お前は知る権利がある」と言って渡してきたのはニケで、全ての手配は彼が行ったらしい。
「全部は読めないんだけど」と思いながらも雫は書類をありがたく受け取り、寝る前などにふと眺めてみたりもする。

リオと別れてからの一月は、あっという間だった。
雫は現在ファニートと共に、セイレネという女につけられている。
貴族らしい美しさを持つ女は、出産まであと一ヶ月という腹を庇いながら生活しており、その生活の細々した部分を雫は女官に代わって助けているのだ。
やがて腹の子が生まれれば、その後こそが雫の本来の仕事となるだろう。その時に向けて彼女は日々勉強も重ねている。
初めてこの国に連れられて来た時から二ヶ月。
いつの間にかキスクでの日々は、ファルサスの城で過ごした時間より長いものとなっていた。






「泣いているのか?」
背後からかけられた声に雫は苦笑する。風で乱れた前髪をかき上げながら振り返った。
「泣いてないよ。何で?」
「そのように見えたのだ」
誰も住んでいない小屋の前に立ち、開いた扉から中を見ていた彼女は、ファニートの気遣いを嬉しく思う。
だが同時に、そんなものは不要だとも感じていた。
甘やかして欲しいわけではないのだ。優しい言葉はもういらない。彼女は子供ではないのだから。
男は持っていたショールを雫の肩に掛ける。薄着のまま夕方の庭に出ていた彼女に持ってきてくれたのだろう。雫は礼を言ってそれを受け取った。
「リオは元気でやっているそうだ」
「そっか。ならよかった」
「淋しいか?」
雫はその問いには答えない。ただ穏やかに微笑して小屋に背を向けた。
男の脇をすり抜けながら「休憩時間が終わるよ」と言うと、彼も隣を歩き出す。
日が落ちていく空は朱い。少し肌寒く感じる風に雫は目を閉じた。ずり落ちそうなショールを掛け直す。
「ね、ファニート」
「何だ?」
「この国に連れてきてくれて、ありがとう」
彼女の声音には真意が読み取れない紗のようなものがかかっていた。男は眉を顰めると呟く。
「……礼を言われるようなことではないと思うが」
「そうかもね」
笑い出す雫の声は軽く、芝の上を何処までも転がっていく。
それはそのまま小屋の中に滑り込むと、誰の気配もないかつての家を少しだけ、以前のように温めたのである。