日蔭の蕾 100

禁転載

キスクは現在大陸に四つある大国の中でも、もっとも歴史が浅い国家である。
起源を遡れば約二百五十年程前、大陸中央南部を舞台に数国が錯綜する戦があった。
その中で生まれた三つの国は、長い間お互いを睨んで断続的に戦争を繰り返していたが、百年前唐突に併合して一つの国となる。
そして国名をキスクと改めるとまもなく、北の隣国であるガンドナに攻め込みその領土を削り取ったのだ。
誕生してすぐに好戦的と恐れられた国家。だが勢いに乗るこの国の出鼻を挫いたのは西に位置するファルサスである。

六十年前、ファルサス王ディスラル率いる軍は突如その矛先を隣国であるカソラに向けた。
カソラはファルサスとキスクに挟まれた海際の小国であり、他国は知らぬことであったが、キスクが圧力をかけて併呑を要求していた国でもあった。
だがその小国をディスラルは突然の出兵の後、僅か二週間で攻め落としてしまう。
ディスラル自身はその後まもなく狂気の為廃され、続く王ロディウスは廃王の所業を謝罪すると旧カソラの土地を返還し復興を援助したが、この一連の出来事でファルサスの手が入ったカソラにキスクが手を出すことは出来なくなった。
それまでもキスクは隣にある歴史の長い大国をよくは思っていなかったのだが、この一件を境にファルサスに対し、更なる一方的な敵意を向けるようになったのだ。

周囲の国から文化や技術を取り入れて今に至るキスクの敵意に、ファルサス・キスク両国と国境を接するガンドナなどは「子供の逆恨み」という評価を与えているのだが、当のキスクはそれを意に介していない。
むしろ現在では、「他国のことなど気にもしていない。既に我が国は大国なのだから」という傲岸さを堂々と周辺に示している。―――― 表向きには。






「ファルサスとかどうでもいいじゃん……」
表向きのキスクの姿勢、だがそれがファルサスを敵視していることの裏返しでもあることを知った雫は、正直な感想を洩らす。
思い切り問題発言で、誰かが聞いていたなら咎められたことは確実であったろうが、幸い彼女がお茶を飲んでいる小さな休憩室には誰もいなかった。
雫は図書館から借り出してきた本を開き、分かる部分を自分のノートに書き写していく。
ここに来てから「基本的な文法をエリクに習っておいてよかった」としみじみ思うのだが、それでも完全なる文章読解には遠く及ばない。
まるで中学一年生の知識で大学の英論文を読んでいるようだ。けれど雫はそこでめげずに、キスクの歴史書に目を通していた。
念のため時計を確認するがまだまだ休憩時間である。
今の雫は妊婦であるセイレネの側仕えの他に、城に提出する幼児向けのカード教材の見本を作ったり、自分の勉強で何かと忙しい。
その為お茶を飲みながら本を捲るのんびりとした時間は、彼女にとって非常に貴重な休息の時なのだ。
もっともウィレットなどに見つかれば「歴史書を読んでいるのに休まるんですか……?」と呆れられてしまうことは確実なのだが。

菓子を摘みながらぼんやりそんなことを思っていると、偶然か扉が開いてウィレットが入ってきた。
彼女は挨拶の後、予想通り雫の読んでいる本を見つけて、嫌いなものを食べてしまった時のような顔になる。
「雫さんはまたそんな本ですかー」
「そんなって。重いよ。厚いよ」
「だからそんな、なんですって」
知り合ったばかりの時は恥ずかしがってまともに口を聞いてくれなかった彼女だが、最近は友人に話すように雫に話しかけてくる。
どうやら十五歳のウィレットにとって童顔の雫は年が近く親しみの持てる相手らしい。
ただそれでも文官待遇を受ける雫の方が目上なので、彼女はいつも最低限の丁寧語を使ってくるのだ。
「それよりウィレット、これ何て読むか教えてよ」
「またですか? 雫さんって頭のいい方なのに何で単語が読めないんですか」
「別に頭よくないよ。だから読めないの。教えてくれたら覚える」
彼女の素性を知らぬ他の人間に読みを尋ねたなら、雫の持つ知識のアンバランスさを不審がられただろうが、ウィレットはそんなことは気にせず教えてくれる。
今も「傾斜って読むんですよう」とすぐに返ってきた答に、雫は「ありがと」と礼を述べた。ノートの隅に単語メモとして書き込む。
「そんなことより、もうすぐ花雨の日ですよ。雫さんはどなたに花を贈っちゃうんですか?」
「へ? 何故私が花を贈るの。世界平和の為?」
「ちがいますって。花雨の日知らないんですか?」
「さっぱり」
淡白な雫の答に少女は妙な闘志を燃やしたようだった。俄然はりきって「花雨の日」とやらについて教えてくれる。
年に一度あるこの日は、どうやらキスク独自のものらしく、意中の異性に花を贈って好意を示すというものらしい。
その起源はキスク建国時に遡るそうで、この国の母体となった三国がいざ併合となった時、一国の女王に対し残り二国の王子が雨のように花を降らせて求婚した、という逸話から来ているのだという。
「後で拾い集めるの大変そうだね……それ」
「そういう話じゃないですよう!」
ウィレットの突っ込みに我に返った雫は、何だか自分の感想がいかにもエリクの言いそうなことに思えて頭を抱えた。
あそこまで淡白にはなりたくないと思っていたのだが、いつの間にか似てきてしまったのだろうか。
「つまり、バレンタインデー?」
「何ですかー、それ」
「こっちの話。なるほどなるほど」
元の世界でのバレンタインデーは雫にとってはどちらかというと日頃お世話になっている人間にチョコレートと粗品を贈る日なのだが、「花雨の日」もそういう理解の仕方でいいのだろうか。世話になっている男性というとファニートだが、何だか花がまったく似合わない気がする。貰った方も多分困るだろう。
雫は期待の目て見てくるウィレットに「多分、贈らない」と付け加えた。途端に少女はがっかりした表情になる。
「これを逃したら次は来年ですよう!? いいんですか!」
「まったく構わないのです。どうでもいいです」
「そんなぁ……ファニートさまとかニケさまとか格好いいじゃないですか!」
「そう?」
畳み掛けてくる攻勢に、雫は歴史書の解読を諦めて本を閉じた。頬杖をついてお茶を啜る。
ウィレットが挙げた二人の男は外見的には一般男性の範疇に入る、と思われる。
が、実際のところ雫は男性の容姿の良し悪しが最近よく分からないのだ。
エリクやラルスを見慣れてしまったせいかもしれないし、「内面が滲み出てて外見がよく分からない」というエリクに感化されてしまったのかもしれない。
ともかくファニートは親切で頼りになると思っているし、ニケは本当にむかつく、と思っているのだが、格好いいかと聞かれるとさっぱり分からなかった。
「あのお二方は城内でも人気あるんですよう。姫様の臣下の方々ですから、みんな近づけませんけど」
「あー、怖がられてそうだもんね。姫」
「だから同じ姫様直属の雫さんに、ぜひ」
「……人身御供?」
何だか地雷原に放り込まれるダミー人形を連想して雫はげっそりしてしまった。
どういう理由だ……と思ったが、少女にとっては恋愛イベントこそが日々の一大事なのだろう。四歳年上の雫をきらきらした目で見ている。
「えーと……あの二人、好みじゃないし」
「ええ!? ならどういう男性が好みなんですか」
「急に聞かれても困るけど。―――― そうだなぁ、尊敬出来る人がいいかな。頭よくて、人を自然に気遣える人とか」
そう口に出しながらも、何だか曖昧な好みだ、と雫は半眼になってしまった。定義を言葉にしても実体が伴ってこない。
どう考えてみても具体的な人物像が想像できなくて彼女は唸った。一方ウィレットは怪訝な顔になってしまう。
「何だか、むずかしいんですね。雫さんの好みって」
「多分ないんだと思うよ。よく分かんない」
「じゃ、とりあえず当日のお花はわたしが用意しときます。全力で」
「おおっと変化球! 何の罠?」
「念のため念のため」
ウィレットはポケットから取り出した紙に雫のペンで何かを書き込む。花の予約票か何かなのだろう。
面倒なので雫は止めずにそれを見ていた。当日誰かにあげてもいいし、自分で飾ってもいいだろうと思ったのだ。
雫は時計を確認すると広げたノートをまとめ始める。あとお茶を一杯飲んだら、また仕事の時間だ。
その気配を察して自分からお茶を淹れてくれるウィレットに礼を言うと、雫はついでのように尋ねた。
「その、一人の女王に求婚した二人の王子って、結局どっちが選ばれたの?」
「雫さん知らないんですかー? 女王様は両方とご結婚されたんですよう。三人で夫婦になっちゃったんです」
「………………ドロドロ」
一夫一妻を常識とする雫は率直な感想を零す。
それを聞いた少女はまた呆れた顔になったが、一瞬で笑顔になると「甘くしちゃおっと」と蜂蜜の壷を手に取ったのだった。



男の指が駒をつつく。白い石を彫り上げて作られた駒は軽く動いたが、倒れてしまうことはなかった。彼はその駒を手の中に取る。
反応を探るように向かいに座る対戦者を見やった。
「戦がしたいのかい? オルティア」
「そうは申しておりませぬ」
「でも目がそう言ってる。私は別に構わないが。ファルサスを何とかしたいとは思っているからね」
茫洋とした兄の言葉に、女は自嘲ぎみな笑みを刻む。
彼女の言うことは大抵聞いてくれる兄だが、さすがに戦争となると腰が重い。
だがそれは戦いが嫌だというより、ファルサスの軍事力の強大さをよく把握している為だろう。
キスク現王ベエルハースは秀でて賢くもないが、愚鈍という程物が分かっていないわけでもないのだ。
彼は大陸において一国だけ突出したファルサスに対し危機感を持っており、また過去の遺恨のことも忌々しく思ってはいるのだが、正面切って宣戦はしたがらない。
むしろオルティアが擁する「切り札」の存在を聞いて、「暗殺に頼った方がいいのでは?」と返してくるくらいだ。
その兄をどう動かしてやろうかと駒を弄びながら思案するオルティアに、王はまったく違うことを切り出す。
「そう言えばお前が管轄している娘……何と言ったかな、あの実験を終わらせた娘」
「雫、でございますか?」
「そう。どのような娘だ? 一度見てみたい」
「差し上げられませぬよ。あれは妾の買ったものです」
ベエルハースは決して好色ではないのだが、興味自体がふらふらと彷徨い落ち着かない。
十全に人を使えぬ兄に異質な手駒を渡すことを嫌ってオルティアは釘を刺した。同時に盤上の駒を進める。
「欲しいとは言っていない。見てみたいだけだ。その娘、お前に喧嘩を売ったそうじゃないか」
「取引です。妾が臣と争うわけがありませぬ」
あの時雫は真正面からオルティアに相対してきた。
確かに今までいなかったのだ。そのような人間は一人も。正確には数年前であれば僅かにいたが、皆処刑された。
雫が未だに生きているのは例外中の例外であり、それはオルティアが「異世界出身」という彼女の申告を訝しみながらも否定しきれない為だろう。
苦い顔になった妹の駒を、ベエルハースは自分の手駒で弾きながら微笑する。
「だが、私が目をかければその娘への風当たりも弱まるよ。件の娘は実験の件で魔法士たちからうとまれているようだからね」
「あれはそれくらいでは負けませぬ。妾の臣でございますから」
自分に負けなかった人間が、宮廷魔法士如きに負けるはずがない。オルティアが自尊も込めて返すと王は肩を竦める。
それきり二人は盤上に意識を戻し、雫についての話は萎んで消えてしまった。
だが兄が彼女への興味を放棄したわけではないことを、後にオルティアは知ることになる。
けれどそれは、知ってももはやどうしようもない腹立たしさと共に、彼女にもたらされることとなったのだ。