日蔭の蕾 101

禁転載

セイレネには夫がいない。
身篭っている以上、相手がいたのだろうとは思うが、少なくとも彼女の周りにそれらしい人間はおらず、彼女自身も話題にしない。
何か事情があるのだろう。第一彼女の存在は秘されていて城内でも知る人間はほとんどいないのだ。
雫自身も勿論そのことを承知しておりセイレネについて他の人間に何かを話すことはまずない。
オルティアが密かに匿っている女―― それが彼女であり、彼女がまもなく産むであろう子供は何らかの重要な役割を果たすのだと、雫はそれだけを理解していた。

「そこの紅を取って頂戴」
溜息混じりの女のお願いに、雫は言われたとおりのものを渡した。
この世界の口紅は主に小さな硝子の平皿に入れられている。
テーブルの上に広げられた化粧道具の数々は一つ一つが高価なものであり、 他の若い女官ならそれらを羨望の目で見つめたであろう。
だが、雫はセイレネの動きを見ながら「こっちの世界はああいう手順で化粧をするのか」と言う感想を持ったのみだった。
そういう彼女は眉を引いて口紅を薄く塗っているだけである。長くなった髪をきつく結い上げているせいもあって女官というよりも教師のような固い姿だが、自分がこれくらい地味でいた方がセイレネの気も収まるだろうと雫は思っていた。
「本当に体が重くてままならないわ……早く自由になりたい」
「あと一月もないですから。それまで我慢なさってください」
「産んだ後、体は戻るのかしら……」
「下着で補正しておいて、復調したら軽く運動すれば戻ると、私の従姉妹は申しておりました」
現実的な受け答えにセイレネは雫を見返した後、軽く溜息をついた。「あなたは若くていいわね……」と呟く。
そういうセイレネも二十代前半にしか見えないのだが、一体雫は何歳に思われているのだろう。
女の豊かな金髪をブラシを使って結い上げながら、しかし雫は自分の年齢を口にすることはしなかった。代わりに手際よくピンを刺していく。
人の髪をセットすることなど、たまに姉のデートの時にやってあげていたくらいでそう得意でもなかったのだが、セイレネに付けられてからユーラが一通りやり方を教えてくれた。その為複雑な髪型などは作れないが、単純なまとめ髪なら綺麗に出来るようになったのだ。
人目に触れられない生活をしているセイレネは、臨月である自分の体が煩わしくて仕方ないらしい。
「動きやすい服を選んで欲しい」と言う割りに、動きにくいのは服のせいではないので、いつも溜息ばかりをついていた。
雫は彼女の髪を高く結い上げてしまうと、香りのよい茶葉を選んでお茶を淹れ始める。
漏れ出す湯気に顔をくすぐられていると、気だるげな声が背後から飛んできた。
「どうも気が滅入って仕方ないわ。本でも読んでもらおうかしら」
「ぐ……」
一番の苦手分野を言われて雫は返事に詰まる。
子供向けの絵本ぐらいなら何とか読めるが、普通の本となるとまず無理だ。
どうやって断ろうか、そんなことを考えている間にセイレネは細い指で部屋の隅にある本棚を指した。
「あそこにある本から適当に選んで。どれでも構わないから」
「はぁ」
雫はお茶を蒸らす間手を放して、本棚に歩み寄ってみる。絵本が入っていればいいなと思いつつも、入っていたのはやはり分厚い本ばかりだった。
小難しげな背表紙を次々見ていって―――― 最後に、背に何も書かれていない一冊に目を留める。
「あれ?」
それは古い本のようだった。雫は背表紙の上に指をかけて紺色の本を引き出す。
指先が触れた瞬間、まるで静電気が走ったかのように軽く痺れを感じたが、雫は指が何でもないことを確かめると気にせず本を取り出した。
革張りの厚い本には銀の装飾が施されている。表紙にもやはり題名は書かれていなかったが、裏表紙には何かの紋様が描かれていた。
表紙の感触が妙に手に馴染む。それはまるで親しんだ人肌のようだった。雫は題名のない本を見つめる。
―――― 何処かで、これと同じものを見たことがある。
拭いようのない既視感。記憶の底で何かが蠢いた。雫は表紙に指をかける。
だがその時、セイレネの訝しげな声が彼女の手を留めた。
「どうしたの?」
「……え? あれ? あ、この本題名ないなって……」
「ああ。それはやめて。他のにして頂戴」
セイレネは幾分慌てたかのようにそう言う。雫は「はぁ」と生返事をしながらも紺色の本を棚に戻した。
まるで白昼夢を見ていたかのようにぼんやりする頭を振る。
「雫、お茶はいつまでそのままなの?」
「あ、忘れてました。すみません。まだ間に合うと思います」
雫は慌ててティーポットに戻ると、程よく蒸らされた香茶をカップに注ぐ。
薄紅のお茶をセイレネに出しながら「花雨の日ってご存知ですか?」と試しに聞いてみると、彼女は軽く首を傾げて「何かしら」と答えたのだった。

セイレネの部屋を離れてオルティアの下へ定例報告に向うと、姫は長椅子に寝そべりながらサイドテーブルに石の球を積み上げる遊びをしていた。
ビー球くらいの黒い球を彼女はゆっくりとピラミッド状に積み上げている。
なかなかに忍耐力と繊細さを必要とする遊びに思えるのだが、完成はもう間近に見えた。
雫はそれを少し意外に思いながらも報告を始める。
「セイレネさんはお変わりないですよ。体が思うようにならなくて鬱屈としているみたいですが」
「そうか」
「体の方はちゃんと医者に診てもらってください。私は分からないので」
「もういつ生まれても構わぬのであろう?」
「存じません。素人判断とかやめた方がよろしいのでは?」
棘のある切り返しにオルティアは小さく笑う。雫の態度はいつも不敬の半歩手前を行き来しているのだが、彼女はそれを咎めないのだ。
姫は手の中に黒い球を一粒握る。何かを掴み取るその仕草は美しくはあったが、何故か欠損を思わせた。雫は我知らず眉を顰める。
「ともかく出産時の人の手配と乳母の手配はなさって下さいね。
 私にはその知識がありませんし、セイレネさんは自分で育てたくないみたいなので」
「分かった。やっておこう」
オルティアは細い指を伸ばし、積み上げた頂上に球を置こうとする。
だが寝そべっている彼女からはその位置は微妙に高く、中々場所が定まらなかった。
起き上がればいいのに、と思いながら雫はしばらくそれを眺めていたが、オルティアの指が違う球に触れ、ぐらりと揺れかけたのを見て一歩進み出る。
「失礼します」
彼女は落ちかけた球を押さえて留めると、オルティアの手の中から黒い球を取り上げた。そのまま最後の一つを迷いなく頂上に鎮座させる。
目を丸くする王妹に、雫は子供を諌める意地悪な教師の如き笑顔を向けた。
「不精をすると他人に美味しいところをさらわれますよ」
「……妾の手の者が為したならば、それは妾の為したと同じことだ」
「今ちょっとがっかりなさってませんか? 違うのならばよろしいのですが」
作り物の笑顔を崩さない雫にオルティアは一瞬顔を顰めかけた。が、すぐにつんとした無表情になると視線を逸らす。
「もう下がれ」
「おおせのままに」
雫は慇懃に一礼すると姫の部屋を退出した。音も無く閉まるドアを背に、あることを思い出す。
「あ、姫は誰に花を贈るのか聞き損ねた」
オルティアが誰かに花を贈るなど想像もつかないが、王族である彼女が自国の風習を知らないということはないだろう。
そのため雫は一般的な質問をしながら間接的に「花雨の日」の実情について聞き出してみようと思っていたのだ。
ウィレットの言うことを疑うわけではないが、どうもあの年頃の少女には偏ったフィルターがかかっているようである。
だからもう二、三人に話を聞いてみたかったのだが、優先順位が限りなく低い話題なのですっかり忘れてしまっていた。
「まいっか。ユーラにでも聞こう」
軽く諦めると、雫は欠伸をしながら廊下を去っていく。
数分後、その彼女とすれ違った女官は「チョコレート食べたいなぁ」という呟きを聞いた気がしたのだが、何のことだかさっぱり分からなかったのだ。



ユーラに聞こうと思いながら当日までド忘れしていたのは、やはり優先順位が低かったからに違いない。
雫はウィレットに白い花束を差し出されながら―――― そう納得しようと努力していた。
「え、大きくない? これ」
「だから全力で用意するって言ったじゃないですかー。張り切りましたよ、わたし」
「…………」
腕の中に抱えなければいけない程の花束を受け取って、雫はそれを見下ろす。
こんなに大きくてはもう義理では済まない気がするのだが気のせいだろうか。仮に本命だとしても大きすぎて引かれそうだ。
溜息とか苦言とか愚痴とかそう言った苦そうなものをまとめて飲み込んで、彼女は何とか「ありがとう」と返す。
ウィレットはその様子に気づかなかったらしく、小さな花束を手に「どういたしまして!」と笑うと子犬のように駆けていった。
休憩室に一人取り残された雫はしみじみと自分の花束を眺める。
多くの花弁を持つ白い花は小さな牡丹によく似ていた。それらを中心に作られた花束は非常に美しく華やかではあるのだが、いかんせん状況が悪い。
これはもう自分の部屋に飾るしかないだろう。幸い今日は偶然か嫌がらせか午後から休みであるし、引きこもって過ごせばいい。
彼女は片手で頭をかきながら自室に向って廊下を歩き出した。
「エリクがいればね」
イベントごとに疎そうで、なおかつ恋愛沙汰にも興味がない彼なら「日頃の感謝」と言って渡せば何の疑問もなく受け取ってくれただろう。
もしそうであれば少し手の込んだ食事と菓子も作っただろうな、と考える雫は、ふと窓の外に視線を動かして、そこに奇妙なものを見つけた。
「何あれ」
庭木の陰から服の裾らしきものが少しはみ出ている。
まさか死体があるのだろうか、と雫は一瞬考えかけたが、咄嗟の発想がそれとは我ながらさすがにどうかしている。彼女は慌ててその考えを打ち消した。
実際は誰かがそこにいるか、或いは服を干してあるかのどちらかなのだろう。あんな日蔭に干していて乾くかは疑問だが、外は充分暖かい。
雫は足を止めると腕の中の花束と、空白の予定について思考を巡らせる。やがて彼女は「まぁいいか」と呟くと、その爪先を外へと向けたのだった。