日蔭の蕾 102

禁転載

「何だ、あんたか」
好意がまったく感じられない声が降ってきたことに、植え込みの中で魔法書を読んでいた男は顔を顰めた。顔を上げぬままぶっきらぼうな声を返す。
「何の用だ、童顔女」
「死体かと思って見に来た」
「生憎生きてる。残念だったな」
ニケが追い払うように手を振ると、その手は何か別の物に当たった。
違和感のある感触に顔を上げると同僚の女は大きな花束で彼の手を受けている。どういうつもりか分からぬ持ち物に、彼はしばし沈黙した。
魔法書のページに指をかけながらつい尋ねてしまう。
「それは何だ」
「気に入らない人間を成敗する成敗棒」
「……お前の頭の中身はどうなっている? 常識が入っているのか?」
「こんなところで何やってんの?」
微妙に話の矛先をずらされ回されたことにニケは青筋を立てそうになったが、ここで口喧嘩をしても周囲を通りがかった人間に怪しまれるだけだ。
「本を読んでる」と正直に答えると雫は「見れば分かるって」と呆れた顔になった。彼女は花束を抱えたまま彼の隣にしゃがみこむ。
「何? 借金取りから逃げてるとか? 隠れてるんでしょ」
「借金などあるか! 街に出ようと思ったら日が悪いことに気づいただけだ!」
「あ、花雨の日?」
他国人である彼女の口からその言葉が出たことにニケは驚いたが、どうせ周りの女官が騒ぎ立ててでもしていたのだろうと納得した。
成敗棒はともかく花束もどう見てもそれ用のものだ。あげるものか貰ったものかは分からないが、大きさから言って思い入れの強さが窺える。
「今日は街も騒々しいからな。髪を切りに行こうと思ったがやめた」
「あー、そうなんだ。大変だね、休み少ないのに」
そういう彼女もほとんど休みはないはずなのだが、実に平然としている。
もっともこの国に来てから、更には共に暮らしていた子供と引き離されてから、彼女はほとんど弱さを見せようとはしない。
ファルサスで魔法士の男と共にいるところを一度見た時は、もっと可愛げのある笑顔だったのに、とつい思い出しそうになってニケは舌打ちした。
何のつもりか雫は隣に座りこんでしげしげと彼を見ている。その視線に自分でもよく分からぬ居心地の悪さを感じて彼は魔法書を閉じた。場所を移動しようと立ち上がりかける。が、しかし、その時妙に明るい女の声がかけられた。
「じゃ、私が切ってあげようか」
「……は?」
腰を浮かしかけたままニケは雫を見下ろす。大きな黒い瞳は稚気に富んで、薄気味悪いくらいに彼の意識を惹いたのだ。

花束をその場に置いて城の中に駆け戻った雫は、ユーラを見つけると髪きり鋏を借りることに成功した。
「自分で切るんですか?」と怪訝そうな彼女に「違う違う」と笑って手を振る。
「いやー、一度人の髪切ってみたかったんですよね。トリマーみたいに」
「何ですか、それ」
一抹の怪しさを感じ取ったらしきユーラを後に雫は庭へと戻った。
逃げ出しているかもな、とも思ったがニケは先程と同じ場所に座っている。男は彼女の持つ鋏を見てあからさまに嫌な顔になった。
「お前、本気か」
「勿論。向こうむいてよ」
「やったことあるんだろうな?」
「あるある。私、上手いよ?」
最初から失敗すると思ってやる人間はいない。そんなことを心中で嘯きながら雫は男の灰色の髪に軽く櫛を通した。
もっとも、失敗してもこの男ならさして胸も痛まない、という計算があったのもまた事実なのだが。
今までペットの美容室でシャキシャキと犬の毛を整えていくトリマーを見る度に面白そうだなと思っていたのだ。
上手く行けばいいストレス解消になるかもしれない。雫は切れ味のよさそうな鋏を手に取った。
「で、どうすんの? かりあげ君?」
「殺すぞお前。少し短くなればいいだけだ」
「全体的に縮めればいいのね。了解」
それくらいなら初めてでも楽勝だ。ニケの髪は現在後ろが肩につくかつかないかくらいになっているので、ここから始めてさっぱりさせればいいだろう。
雫は鼻歌さえ歌いだしそうな気分で男の髪に鋏を入れ始める。
ざっくりと、そんな音がいきなりしたことにニケは思わず絶句したが、彼女の自信を買って何も言わなかった。最初だけは。

ざく、という音と沈黙が交代になってきた。その沈黙に恐ろしさを感じて彼は自分の周囲を見下ろす。
―――― 少しおかしなくらいの量の髪が落ちているのは気のせいだろうか。気のせいと思いたい。
だが首の後ろが妙に涼しいのは事実で、鏡もないニケはついに口を開いた。
「おい」
「何」
「どうなってるんだ」
「え、何が?」
何が、はないと思うのだが、また鋏が入る感触がしたのでニケは動くのをやめた。頭上から「うーん」という思案の声が聞こえる。
「あんたってさ、レウティシアさん見たことある?」
「ファルサス王妹か? 勿論ある」
「美人だよね」
「お前とはえらい違いだな」
「エリク……私の保護者だった人が言うには、レウティシアさんの顔って左右対称なんだって。実はそういう人って結構珍しいらしいんだよ」
自分の容姿に関する嫌味は見事に流した彼女だが、何を言いたいのかは見えてこない。ニケは眉を軽く上げた。
「それがどうした」
「いや、左右対称って難しいもんなんだなぁと」
「………………殺すぞ?」
「ちょっと待って。左を右に合わせてみるから」
―――― それをやっていっては非常に不味い気がする。
ニケは激しい危機感に襲われたが、雫の声がやたらと真剣であることと後ろで断続的に鋏の音がするせいで身動きが出来ない。
「あ、切りすぎた」「今度は右」など不吉な言葉が次々と降ってきて、彼は両耳を押さえたくなった。
今更ながら何故彼女に髪を切らせてしまったのか、激しく後悔する。
そうして彼が解放されたのは……もう取り返しがつかない状態になってからのことだった。

「あっはははははっはははははっははっ!」
鋏を置き、正面に回った雫が一番にしたこと。それは、腹を抱えて爆笑することであった。
ニケは途中から予想できた反応を目の当たりにして震える拳を握る。が、一応自制心が働いたのか、彼はそれを雫に向かって揮うことはしなかった。
笑いすぎて涙を浮かべている女に、今にも射殺しそうな視線を向ける。
「上手いと言っていたよな!?」
「ごめん、嘘だった。初めて」
「もう死ね、お前」
「待って待って……そんなに変じゃないって。若くなっただけ」
雫は片手で腹筋を押さえながら手鏡を差し出した。ひったくるようにそれを奪い取ったニケは、鏡の中の自分を見て言葉を失くす。
少し短くしてくれ、と言っただけなのに彼の灰の髪は元の半分近くの長さまで鋏を入れられていた。それはもう二十歳前の少年と見間違う程に。
髪型だけ見ればすっきり爽やかと言えなくもないが、何よりも彼自身の表情がそれを裏切っている。
額に浮かぶ青筋を確認する彼に、ようやく笑いが止まった雫はにっこりと、今度は意図的な笑顔を見せた。
「ごめんね? 童顔」
「お前……」
「で、本当は何歳?」
「二十一だぞ? 何だこれは。仕返しか?」
「あ、二十一なら別にいいじゃん。若い若い。許容範囲だよ」
「こんな頭で人前に出られるか!」
当初口論を避けようと思っていたことなど綺麗に忘れて、ニケは目の前の女を怒鳴りつける。
だが彼女は「慣れるよ」と言っただけでまったく悪びれない。傲岸な言葉につい「誰のせいだ!」と叫びたくなった。
雫はむしろ堂々とした態度で頷いてくる。
「いやもうこれで痛み分けってことでいいんじゃない? あんたからは散々むかつくこと言われたし」
「割に合うか! お前は言い返してる!」
「あ、じゃあこの花束つけるよ」
拾い上げられた白い花束をニケは唖然としながらつい受け取ってしまう。
けれどまったく他意のない様子で渡してきたということは、おそらく彼女は「花雨の日」の意味を知らないのだろう。
―――― この日に白い花束を異性に贈るということは求愛を意味しているのだということを。
「……お前、これ誰に貰った」
「え? ウィレットに貰ったよ。綺麗でしょ」
「そうか」
何となく安心してしまったのは何故なのか。ニケは突き詰めて考えたくなくて魔法書を拾い上げると花束と一緒に小脇に抱えた。
せめて誰かに見られる前に部屋に帰ろうと踵を返す。だがその時、ぞっとする程穏やかな女の声がかけられた。
「あんたさ、試験の時リオを庇ってくれたでしょ」
「―――― 何のことだ?」
「違うなら別にいいけど。ありがと」
振り返ると雫は背中越しに手を振りながら既に庭の向こうへと歩き出している。
小さな背にはこの時、孤高が負われているように、彼には見えた。

もっと愛らしく笑う女だったのだ。隣にいる男の存在に安心しきって、会話の一つ一つを楽しむかのように。
だが今の彼女にその名残はない。周囲の急激な変化が、そして常に緊張を強いる環境が彼女を変えた。
そしてその原因の一端は彼にあるのだろう。彼がオルティアに彼女のことを「ファルサス王のお気に入り」として教えたのだから。
子供と共に暮らした一月と更にその子を奪われてからの一ヶ月間、ニケは彼女がどれ程足掻いて苦労して悩みぬいたのか、変わらざるを得なかった彼女の実情をよく知っている。
それでも―――― 彼女が来たことで忌まわしい実験は終わり、誰かは救われたのだ。

「俺は謝らないからな……童顔女」
男は短くされた髪に手を差し入れると憮然とした表情になる。
だがすぐに溜息をついて城の自室へと戻っていった。
誰もいなくなった庭を遠く四階の窓から見下ろしていた王は、頬杖をつきながら嘯く。
「可愛らしい娘じゃないか。オルティアの支えとなればよいが」
年の離れた妹の名を出すその言葉には善意しか聞こえない。
ベエルハースはしばらくそのまま窓枠によりかかっていたが、やがて飽いたのか体を起こすと部屋の中に消えた。
高い城壁の向こう、街の方からは軽快な音楽が微かに聞こえてくる。
人の喜びを乗せてそよぐ風は緩やかに花の香を漂わせながら、だがそれが永遠ではないこともまた移り変わっていく空の色と共に知らしめていたのだった。