日蔭の蕾 103

禁転載

その部屋は、敵が占拠していた建物の最奥にあった。
とても小さな、窓もなく明かりもない真っ暗な部屋。開けて一番に漂ってきたのは黴臭さだった。
彼女は、光が差し込んだことが分かっただろうに初め何も言わなかった。泣き声もしなかったので部屋を間違えたのかと思ったくらいだ。
だが、明るさに目が慣れてきたのであろう。彼女の姿を見つけて跪いた彼に、幼い少女は乾いた声をかける。
「わたしを殺しにきたの?」
予想外すぎる言葉。思わず詰まった彼が気を取り直し否定を口にするより早く、だが彼女は嗤い出す。
暗く限られた部屋に哄笑は軽く響いた。彼女は小さな手で口元を押さえ笑い続ける。
その傾いた音の中に浸されながら彼は、自分は本当には間に合わなかったのではないかと、硬い絶望を抱いて凍りついたのだ。
―――― 今はもう、遠い昔の話である。



女の足取りは非常にゆっくりしたものである。目の前の段差にファニートは何も言わず手を差し伸べた。彼女は微笑みながらその手を取る。
人目に触れない小さな中庭には色とりどりの花が咲き誇っている。その中を散歩するセイレネは、風になびく髪を手で梳きながら深呼吸した。
「ありがとう。気が晴れるわ」
「これくらいならばいつでもお申し付けください」
彼が答えると女は美貌に穏やかな笑みを浮かべる。
そうしているとまるで夫婦のように見えるな、と離れた場所から二人の様子を眺めていた雫は感想を抱いた。
ファニートの仏頂面も気のせいかいつもよりは柔らかいものに思える。ごく自然にセイレネを気遣う様は壊れ物を扱うかのように丁寧だった。

オルティアの側近として挙げられるのはニケとファニートの二人であるが、姫はどちらかというとニケの方を重用している。
ニケは腕の立つ魔法士らしく転移も出来る為、他国の様子を探るにも使いやすいのであろう。
一方ファニートは彼女とは古くからの付き合いらしいが、剣士であり性格もいささか融通がきかない。
雫はまだほとんどそういった場面には出くわしていないのだが、姫がとんでもないことを言い出した時にまず止めるのはファニートで、ニケの方は即答で受諾するのだという。特にファニートはセイレネとその腹の子に関しては非常に気を配っており、退屈で待ちきれないらしき姫を再三諌めていた。
「ひょっとしてファニートってセイレネさんが好きなのかな」
雫がぽつりと呟いたのは、風向きが変わると同時に彼が無言で立ち位置を入れ替え、セイレネに直接風が当たらないように遮ったのを見たからなのだが、それはあながち間違っていないようにも思えた。
何故ならファルサスに雫を迎えに来た時、彼は「もうすぐ生まれる赤ん坊を助けてやって欲しい」と切り出してきたのだ。
当初エリクも連れてくるよう命じた姫の希望を曲げてまで雫を連れて来たのは、ファニートがそこに譲れない何かを抱いていた為なのかもしれない。
―――― 例えば、セイレネの子供を助けたいとか、そういった願いを。
だがこれはあくまで妄想の域を出ない推測だ。考えても答が出るわけではない。
雫はかぶりを振ると、まもなく部屋に戻るであろうセイレネの為に、お湯を取りにその場を離れた。
建物へと入る前に何気なく二人を振り返ると、彼らは並んで花の中を散策している。
その姿に雫は、お似合いと言えばお似合いだろうな、という他人事でしかない感想を抱いたのだった。



「生得単語がなくて、どうやって言葉を教えられるのだ」
「繰り返し実物と単語を照らし合わせるんですよ。それに人には身振り手振りがありますから。これも一つの言語です」
異世界人であると明らかにした雫だが、オルティアは半信半疑というか七割は疑っているらしい。
だがそれでも三割を否定しきれないのは、雫が持っていた本の一冊を見せてやったことが大きく影響しているだろう。
印刷物にも関わらず大陸のどの文字でもない本に、姫はさすがに表情を変えた。
口では「こんなもの作ろうと思えば作れる」と強気を示して本を突き返してきたが、それで彼女の常識が揺らいだことは確かだったのだ。
おまけに雫がやり方を伝えて同様に子供の教育を試みた何人かが、それなりに成果を上げながらも雫自身がやるにはどうしても及ばないでいる、ということもオルティアが迷う一因となっている。
雫は別にノウハウの出し惜しみをしているつもりはないのだが、言葉の通じない子供に言葉を教えるということ自体に大人たちが戸惑っているせいであろう、彼女が直接教えるとすぐに飲み込んでくれるようなものも、他の大人がやると数時間かかることもあるのだ。
「身振りで伝えられることなど限度があるではないか。間違って覚えたらどうなるのだ」
「根気強く訂正するだけです。いずれ分かってくれますよ」
「迂遠に思える」
「そんなの言葉に限った話じゃないじゃないですか。回りくどくても前進はしているんですから大丈夫ですよ」

もしオルティアがエリク程に鋭い人間であったなら、「生得言語がない」というそれだけで雫が何故大陸言語を話せているのかを疑問視しただろう。
だが実際彼女は雫の申告を額面通りに受け取っただけだった。
元の世界のことも、この大陸とさして変わりがないと言った嘘を信じているようなので、意外とオルティアはあまりにも常識を逸脱した事態に対し、そこから更におかしな点を疑ってみるという思考が苦手なのかもしれない。もっとも異世界の様相についてはともかく、「言葉が通じない」という概念自体がないこの世界の人間に、雫のおかしさを見抜けという方がハードルの高い要求なのかもしれないのだが。

大陸全土で音声言語が変わらないという事実は、雫が思うに生得言語がその主原因に違いないのだが、千年以上に渡りそれが当たり前のこととなっている人々にとっては「生得言語がないならば、同じ人間でも違う言語を使うようになるのではないか」という推論は容易に到達し得ないものらしい。
雫は一度ファニートに、エリクとの話を何処まで聞いていたのか、彼自身はどう思っているのか尋ねてみたいと思っていたが、気軽に口にしていい話題ではないため実行に移さないままでいた。

外部者の呪具かもしれない紅い本に関しては、ファニートは手を尽くして情報を探してくれているものの、本は持ち主の女ごと行方知れずなのだという。
ファルサスの調査隊も捕捉できていないそうだと聞いて、雫は思わず天を仰いだ。

オルティアの会話相手を務めながら半分は物思いに耽っていた雫は、姫の沈黙に気づいて視線を動かす。
王妹はそれ以上質問を思いつかないのか、雫の顔を射竦めるように睨んでいた。だが雫は内心舌を出しただけである。
「お前がこの世界に来たことが病の発生の原因ではないのか?」
「私が来る少し前から発生していたみたいですけどね。第一私にそういう変な力はありませんよ。お調べになったでしょう」
城に仕えだしてからすぐ、雫は一通りの身体検査をされている。
それは本来仕官試験の一端としてあるものらしいが、彼女は己の申告のせいもあって通常よりも徹底的に行われたのだ。
だが出された結論はファルサスの時と同じく「普通の人間」というものである。
その時報告書を受け取ったオルティアは目の前にいた雫に「血を見せてみよ」と命じたが、その通り雫が手を切り裂いて赤い血が流れたのを見ても、軽く眉を顰めただけで何も言わなかった。
或いは体が普通であれば興味を失うのかもと雫は恐れたのだが、その後も生かされ、臣下として遇されているのだから姫も結論を出しかねているのだろう。
こうして時折思い出したかのように質問をしてくること自体その表れと思える。
「お前を殺したら、発症が押さえられる……ということは?」
「分かりません。多分関係ないとは思いますけど。
 私がこの世界に来た時に出たのはタリスのスイト砂漠ですが、病はずっと西から広がっていったのでしょう?」
「そうらしいな」
これがもしラルスであったら、彼は雫を殺すことを躊躇わなかったかもしれない。
だがオルティアはこれから生まれる子供を十全に育てたいと思っているのだ。
だから彼女にとっては、雫を殺すことは割に合わない賭けだ。
その賭けに踏み切る時が来るとしたら、それは雫がいなくても大丈夫と彼女が確信できた時のことであろう。
―――― そうなる前にはこの城を逃げ出そうと、雫は思っているのだが。
「あの男は、お前をどう使った?」
オルティアが名を出さず「あの男」と言う時、それはラルスを指している。雫は目を閉じて苦笑した。
「殺そうとしましたよ。妹姫に怒られていましたが」
閉ざした視界に女の鼻で笑う音が聞こえる。
それがいかなる感情のもたらしたものか雫は分からない。
ただ雫にとって二人は、王族として理解できない歪みを持っているという点で、ほとんど変わりのない存在に思えていたのだ。



雫が仕事の為に退出すると、オルティアは代わってニケを呼び出した。命じていたことの報告を受け取る。
彼女は一通りの内容を聞くと、目の前に跪く男に向かって呆れの表情を隠さず言い捨てた。
「やはり無理か」
「申し訳ないことで御座います」
「愚図め。いつまで経ってもお前はよい知らせを持って来ぬ。
 だが……まぁいい。兄上がどうしてもと仰っていただけであるからな。成功したら成功したでつまらぬことには変わりない」
オルティアは薄紅に塗られた爪を弾く。小さい音が妙に耳障りな響きで二人の耳を打った。ニケはより一層頭を下げる。
「ロスタ地方はどうなっている?」
「相も変わらずでございます。小競り合いは絶えず起こっておりますが、今は領主のティゴールが何とか抑えているという状況です」
「ティゴールを城に召喚せよ。ロスタは息子に治めさせる」
即下された命に、ニケは「かしこまりました」とだけ答える。オルティアの狙いはロスタと聞いただけで分かるのだ。
ここでそれを詳しく聞こうとしたり、「どういう理由で召喚するか」などと伺いを立てては叱責を受ける。
彼はさっそく命令を実行する為に姫の私室を辞した。長い廊下を歩きながら乾いた笑いを洩らす。
「これで戦か。均衡を崩すのは一瞬だな」
だがそれさえも彼女にとっては道具の一つでしかないのだろう。玩具とさして変わらぬ、束の間の退屈を癒す一手。
それが分かっていながら彼女の手足となり続ける男は陰惨な笑みを押し殺す。
薄暗い城の廊下にはそこかしこに、自分と似た人生を送った者たちの怨嗟がこびりついているような気がした。



「二度失敗したらやめればいいのに」
あっけらかんとした兄の感想にレウティシアは肩を竦める。
その意見にはまったく同感なのだが、そこまで軽く考えているのもどうかと思う。
そもそも王族には絶えず暗殺の危険がつきまとうものだが、最近は禁呪を伴った霊廟破りから始まって短い間に五度も間近にまでその刃が迫ったのだ。
さすがにもう少し危機感を持って欲しいと思うのだが、言っても無駄だと分かるから言わない。
それこそ二度言ったら分かるくらいになって欲しいと彼女は思っていた。
「兄上は後継者がいらっしゃらないから狙いやすいと思われるのですよ。
 ただでさえ直系はもう私たちしかいないということになっているのですから」
「後継者を作ったとしても子供を守る方が大変じゃないか? すぐ死にそうな生き物だし」
「だからと言って必要であるのは確かです」
正論にラルスは視線を逸らし天井を眺める。
妹のこの手の説教は極端に長いか、すぐ終わるかに二極化されているのだが、今回はどちらなのか判断がつかない。
前者であったら嫌だな、と思いつつも待ってみたが、幸い彼女の苦言はそれ以上続かないようだった。王は視線を戻す。
「で、誰の仕業だと思う?」
「さぁ。巧みに仲介者を使っていますからね。調査は出しておりますが。ただ知識や行動範囲から言って魔法士である可能性が非常に高いです」
「ああ。じゃあガンドナかキスクか」
「何故そう思われるのです? 山勘ですか?」
「ファルサス以外でそれなりの腕の魔法士を擁しているのは主にその二つだからな。メディアルは俺を殺しても利益が少ない」
「勘ですね。つまり」
「そう。あてずっぽ」
ラルスは次の瞬間飛来した木彫りの猫を片手で受け止めた。正確な狙いで兄の顔目掛けて置物を投げつけた王妹は白けた目でそれを見やる。
「二人だけでなら構いませんが、そのようなことを他言なさらないでくださいよ。問題になります」
「分かった分かった。気をつける。
 それにしてももう少し掴みやすい尻尾を出してくれればいいんだがな」
「次は捕らえます」
レウティシアは言い切ると花弁のような唇を酷薄に曲げた。そこに垣間見えた怒りに王は目を細める。
「勝てるのか?」
「勿論。誰であろうとこの手で千々に引き裂いてやりましょう」
大陸屈指の魔法士である妹の、その宣言にラルスは苦笑して頷く。
水面下でゆっくりと蠢く淀みはいつのまにか、その頭を歴史の表面に向かってもたげ始めていた。