日蔭の蕾 104

禁転載

キスクの城内は建物自体が迷路の壁のように建ち並び、庭と混じって入り組んでいる。
何故このような作りなのか、雫は道を覚えながら悩んだが、どうやら三国の併合による建国時に、元々あった城に対して他の二国からの大掛かりな増築がされた為らしい。ユーラからそれを聞いた彼女は「新しく建てればいいのに」と割り切った感想を口にしたが、返ってきたのは「女王陛下がこの城を離れたくないと仰ったんですよ」という苦笑混じりの補足だった。どうやら二人の王子と結婚した女王は、なかなかうるさい拘りを持っていたようだ。

数冊の本を抱えて雫は建物の角を曲がる。建物内の回廊を使うより、いくつかある中庭を横切った方が図書室へは近いのだ。
だが二つ目の角を曲がった時、不意に背後で風を切る音と物の割れる音がして彼女は振り返った。
見るとそこには粉々になった花瓶らしきものが散らばっている。上階から落ちてきたのだろう。花も水もない陶器だけの破片を雫は屈んで拾い上げた。
「危ないじゃん」
直撃したら死んでしまっていたかもしれない。彼女は自分の運のよさに感謝しながらも上を見上げた。
三階の開いている窓には人影は見えない。しかし、そこにはまだ誰かがいる気配がした。雫は眉を顰める。
―――― これは離れた方がいいかもしれない。
だがそう思った時、窓の内側から人の手が伸びてきて……そこにはまた、小さな花瓶が握られていた。雫は瞬間で戦慄する。
押し殺した笑い声。それを合図として花瓶を掴む手が離された。雫は重い本を手放し後ろに飛び退く。落下していく凶器が鼻先を掠めた気がした。
「あ、あぶな!」
非難混じりの叫びに、けれど謝罪の声はない。わざとやっているのだから当然だろう。
心当たりがある雫は窓の真下から逃れながら、破片に混ざって落としてしまった本をどう拾おうかと思案した。

こうした姿の見えない相手からの嫌がらせを受けるのは別に初めてのことではない。
それは雫がオルティア直属として仕官してから断続的に起きているものなのだ。
ファニート曰く「成果の出ぬまま実験を中断させられた魔法士たちが、貴女を逆恨みしている」ということらしい。
それを聞いた雫は思わず「ちっちゃいな!」と叫んでしまったが、もしその感想を聞かれていたなら嫌がらせは激化していたであろう。
試験後のリオを雫に会わせないよう主張したのも、彼ら雫に反感を持つ魔法士たちと聞いた時には、怒りよりも呆れが勝ったくらいだ。
さすがにここまで直接的な攻撃を仕掛けてこられたのは初めてだが、部屋に怪しげなものを届けられたり、おかしな風評を広められたりは今までも散々あった。
ニケなどは「俺もしょっちゅうだぞ。やり返すけどな」と平気な顔をしているのだから、姫付きの人間には当たり前のことなのだろう。
……と、思いたい。まさかオルティア直属という理由以外でニケと一くくりにされているのなら激しく心外なのだから。

「これ破片拾うのも私なのかな。腹立つんだけど」
雫は開けられたままの窓を見上げてぼやいたが、犯人がまだ居残っていて聞いているかは分からない。
とりあえず安全に本を拾うことが第一と思われた。
彼女は用心しながら砕け散った花瓶の中央に向って歩き出そうとする。けれどその時、背後から雫を留める声がかかった。
「危ないよ。私が拾おう」
言うと同時に彼女を追い越した男は、地面に屈みこみ散乱した本を集め始める。
予想外な救いの手に雫は呆気に取られたが、我に返ると慌てて傍に駆け寄り残りの本を拾い上げた。男は手に取った本をまとめて彼女に返す。
「はい。これでいいかな」
「あ、ありがとうございます」
正面から見ると、彼は実に身なりのいい人間だった。年は三十代半ば過ぎであろう。穏やかで上品な、おそらく身分のある人間だ。
そんな人間が助けてくれたことに雫は感謝しながらも驚愕と用心を覚える。
エリクの刷り込みのせいか彼女は貴族が苦手なのだ。出来れば関わり合いになりたくない。
男は、本を渡した後も雫がきょろきょろと辺りを見回して去っていかないことに気づくと首を傾げた。
「どうしたのかな。本が足りないとか」
「あ、いえ、箒か何かがないかと思って……」
「ああ。片付けるつもりなのか。だけど、これらを割ったのは君ではないのだろう?」
「そうなんですけど、でも」
「放っておきなさい。その内清掃の人間が来る」
妙に力強く断言されてしまった。雫は居心地の悪さに曖昧な表情になる。
そう言われてもこのままにしておくのは非常に落ち着かないのだがいいのだろうか。
男は彼女の考えを読み取ったのか、開いたままの窓を見上げて苦笑した。
「自分で何でも片付けることはない。掃除の人間はそれが仕事なのだからね。
 ここに不審な破片があると分かれば彼らは上に報告する。その後何処の窓で、誰が何を落としたのか調査が為されるだろう。
 もしこれが城の備品であれば怪しい人間には注意もされる。時にはそういった処理が必要なこともあるのだよ。分かるね?」
誰だか分からぬこの男は、まるで雫が嫌がらせを受けていることを知っているかのようだった。その上で隠すな、と言ってくる。
雫は犯人とは別に、自分もまた注意をされている気がして少し考えると頭を下げた。
「……すみませんでした」
「構わないよ。ほら、近道をするくらい急いでいるならもう行きなさい」
図書室の方角を指差す男に、彼女は何度か頭を下げながらもその場を後にする。
嫌がらせなど、騒ぎ立てれば余計相手を喜ばせるだけだと思っていたのだ。だから今まで無視していた。
けれどそれは城からすると、あまりいい対応ではなかったのかもしれない。
大分エスカレートしてきたことだし、次は上に訴えようと建物内に入りながら彼女は反省した。
だが、結局その必要はなかったのだ。―――― この日この時を境に、何故か嫌がらせはぴたりと止んだ。
それは有難いより不気味だと、雫が思ってしまう程唐突でささいな変化だったのである。



ユーラが仕事に不真面目であると口にする人間は、この城では誰一人いない。
本来の仕事から偶然気づいたことまで、何処でも常に忙しく動き回っているのが彼女なのだ。
だから雫が彼女に出会うのも、大抵彼女が何かの仕事をしている最中に行き当たるのであり、この日のように休憩室で出会うことは珍しかった。
軽く驚く雫に、ユーラは挨拶もそこそこに切り出してくる。
「雫さん、あの鋏ってもしかして……」
「ああ、あの時はありがとうございました。助かりました」
「いえ、それはいいのですけど、あの鋏って……」
「ニケの髪を切りました」
「……やっぱり」
件の腹立たしい魔法士が髪型を変えたという噂は、女官の間ではあっという間に広まったらしい。
彼はオルティアの命で不在が多く、城内にいることの方が珍しいくらいなのだが、女性の話というものは風の速度を持つものなのだろう。
雫は本人の顔を引き攣らせる彼女たちからの評判の数々に、実に溜飲の下がる思いを堪能していた。
「私は似合うと思うんですけどね。陰険が誤魔化されてよくないですか? あれくらい爽やかな方が」
「雫さん……怒られませんでした?」
「本人には勿論。姫には全然でしたが。笑ってましたよ、姫」
一度報告に上がった時、雫はオルティアに『お前がやつの髪を切ったのか?』と聞かれたので『はい』と答えた。
その結果雫は、扇で顔を隠して笑い転げる姫という珍しい光景を目の当たりすることとなったのである。
それにしてもニケの髪型については、他の女性からの評判もおおむねよく聞こえるのだが、ユーラは気に入らなかったのだろうか。難しい顔で雫を見てくる。
ニケ本人はどうでもいいが、普段世話になっているユーラには一応謝った方がいいかもしれない。
使った鋏も彼女のものであるし、雫は「ごめんなさい」と言いかけた。だがその前に、ユーラは重い口を開く。
「雫さん、もっと気をつけて下さい。あの方には何度か酷い目に遭わされたでしょう」
「ひ、酷い目?」
「そうですよ! 魔法士は危ないんですからね! 迂闊に近寄ったり二人きりになったりしちゃ駄目ですよ!」
「多分同僚なんじゃないかなぁと……」
「甘い!」
「ごめんなさい!」
勢いで謝ってしまった。何だかまだよく分かっていないながらも気圧される雫に、ユーラは畳み掛ける。
「ファニートさんもそうです。お仕事なら仕方ありませんが、必要以上に気を許しては駄目ですよ。何があるか分かりませんからね」
「う、ううう?」
「困ったことがあったらいつでも仰ってくださいね。私がその相手をギッタギタに叩きのめして差し上げますから……いいですね?」
「わ、分かりました」
雫が姿勢を正して答えると、ユーラは満足げに微笑んで「では失礼します」と休憩室を出て行った。
いつもの穏やかな彼女とは違う、嵐のような会話に雫は呆然と立ち尽くしたまま動けない。
ややあって金縛りから逃れでた彼女はぽつりと呟く。
「ギッタギタにって……どうやるの、ユーラ……」
ニケもファニートも一応腕利きの人間なのだ。
彼ら相手に女官である彼女が何をするのか。まったく想像つかないが、迫力からして何だか本当にやりそうで怖い気がする。
雫は肉きり包丁を片手に微笑むユーラを思い浮かべると、ぞっと首を竦めてその想像を打ち消したのだった。



彼に声をかけられた時、心の中で「ギッタギタ……」と述懐してしまったのは、そんな会話のせいである。
雫は差し出された書類の束を見下ろしながら、渡してきた男に「これ何?」と尋ねた。魔法着を着た男は途端に嫌な顔になる。
「見て分からんのか。お前、子供の実験の時にアイテア信徒の主張を知りたがっていただろう。その男が提出した論文だ」
「あー! こんなのあったんだ」
「姫への第一嘆願に混ざっていたらしい。俺もざっと見ただけだが。書類を整理していたら出てきただけだ」
すっかり忘れてしまっていたが、そう言えばちらっと聞いた「昔は生得単語が固定されていなかった」という仮説が気になってはいたのだ。雫は素直に礼を言った。
「ありがとう。―――― けど、これ難しそうなんですけど」
「はぁ? 分からないのか?」
「ほ、ほとんど……。あんた分かる?」
正確には「分からない」のではなく「読めない」のだが、雫の出自を知らない男に余計なことは言えない。
見ればかなり量のある論文であるし、ファニートに読んでもらうのも申し訳ないのだ。ニケがざっと読んだというのなら要点を教えてくれないだろうか。
雫がどう頼もうか悩みながら男を見上げると、彼は苦々しげな目で彼女を睨んでいた。
「本当にお前は頭の中身がお粗末だな。帰って来たら説明してやるから、それまで分かるところにだけ目を通しておけ」
「え、どっか出かけるの?」
「少し城を空ける」
彼がそう言っていなくなるのはむしろいつものことだ。雫はそれ以上は聞かずに頷く。
どうせろくでもないことなのだろうが、それはニケに言っても始まらないし、主人である姫を問い詰めたとしても雫には教えてはくれないだろう。
彼女は「ギッタギタにされないようにね」と不吉な挨拶で同僚を見送った。


その晩雫は、魔法の光の下で貰った論文と辞書を照らし合わせた。
だが膨大な量の論述から分かる単語を抜き出してもその内容が理解できるわけではなく、雫は頭から読むことを途中で諦めると、中から太字で書かれた幾つかの単語を拾い出してみた。
「神……アイテア。ルーディア、神妃、言葉、本、記録、移民、天賦、神秘、大陸、訛り、理解……」
まるでパズルのような言葉は一向に結びつかない。
雫はその後真夜中まで辞書を片手に悩んでいたが、結局は諦めて床に入った。

夢の中で彼女は、久しぶりに三冊の本の前に立つ。
手に取った紺色の本に記されていたのは、キスクという国の成立に関わる一人の女の話。
嘘と頑なさに彩られた女王の生涯は、複雑な構造を持つようになった城よりももっと絡み合った複数人の情念に束縛され―――― 雫にはとても孤独なものに思えたのだった。