日蔭の蕾 105

禁転載

キスク国内でもロスタ地方と言えば、争いの絶えぬ問題の多い地域で有名である。
その原因は約六十年前、当時の隣国であったカソラがファルサスに攻め落とされた際に、キスクがカソラの難民を受け入れたことに端を発している。
当時のキスク国王は、カソラの領地を手中にする大義名分が得られないかと思い、国境を越えて逃げてきた人々を厚遇しロスタ地方へと住まわせた。
だが、結局カソラは一年も経たぬうちにファルサス自身の手によって復興援助の手を入れられてしまい、キスクは介入する切っ掛けを失ったのだ。
当初の目論見が外れたキスクは、ロスタ地方に入植した難民を持て余し帰国を勧めたが、戦火の中を隣国までたどり着いた彼らはそれを拒否した。
話が違う、と怒ったのは元々ロスタ地方に住んでいた領民である。
彼らはおおっぴらにではないが、国から「近い将来カソラを属領とし、そこでの特権を優先的にロスタ領に与える」と約束されていたのだ。
しかし特権どころか元の土地さえも他国から来た民に分け与えなければならないとあって、彼らの怒りはまず国へと向かった。
だが直訴を受けた王は、結局ファルサスからの更なる干渉が起こる可能性を嫌って難民を追放することも出来ず、 ただロスタ地方の国境近くに旧カソラ民の為の街を作り、彼らを半ば隔離することで手を引いてしまったのだ。
国境間近に住まわせれば、いずれ本来の土地へと帰ってくれるだろうという期待もあったのかもしれない。
けれど彼らは六十年経った今も帰国することはなく、復興しファルサスの属領となることを選んだ祖国と与えられた街を拠点に密接な交易を行っている。
そしてその彼らを本来のロスタ領民がよく思っていないこともまた、年月に磨耗しない事実であったのだ。

「ティゴールは後継者に恵まれなかったな」
ニケは情報屋から買い取った複数の情報と、自身の調査をつき合わせて笑う。
ここ二十数年間巧みな手腕でもって対立する領民を抑えていた領主ティゴールが、突如城に召喚されてから一週間が経った。
彼が不在の間、領主代理となっているのは二十一歳になったばかりの息子ベダンだが、この息子はしかし、父親の能力の一割も受け継がなかったらしく、これだけの短い期間で既に問題が複数あがり始めている。
ベダンには火種抱える領地を任されたという自覚がないのだろう。煩い父親がいなくなったことに喜び、領民の苦情も聞かずただ羽を伸ばすだけだった。
同年齢の男の、自分の足元さえ見えぬ無能ぶりにニケは嘲笑を顕にする。
「だが無能でなければ困る。火種から上がる火こそが姫のお望みなのだから」
ニケは情報を取捨選択すると、更なる対立を煽る為にそれらを操作し始める。
ロスタ地方での領民の対立が、ファルサス属領に住む旧カソラ人とキスク人の争いにまで発展するのは、そう遠くない未来のこととなりつつあった。

雫がその男に呼び止められたのは、少し眠るというセイレネの部屋から辞した、その帰りのことだった。
遠くから「そこの娘!」と大声で叫ばれた雫は、目を丸くして男を見やる。
彼女の父親と同じくらいの年であろう、茶色の髪に白髪が混じり始めた男は見るからに貴族と分かる豪奢な服装をしていた。
だがその服装とは似合わぬ慌てた素振りで雫の前まで走ってくると、おもむろに彼女の両肩を掴む。
「お前が殿下の側近だというのは本当のことか?」
「側近かは分かりませんが、オルティア様にお仕えしております」
「ならば姫にお目通り願いたい! ティゴールと言えば分かる。早急に話を通してくれ!」
分かる、と言われても勝手に客人を連れて行くような権限は雫にはない。
オルティアはどうやら兄王よりも政務に長けた人間らしく、国政のほとんどは彼女の手が入っているらしいのだが、彼女自身は私室から滅多に出てこない。
日に何度か文官が書類と共に姫の元を訪れ、報告をしながら重要事に目を通してもらうだけであり、それらは全て雫の関与しないところで行われていた。
「私が言っても無理だと思いますが」
「それでもお前は姫に直接口添えが出来るのだろう? 文官たちは取り次ぐと言って取り次いでくれぬのだ。
 頼む! 我が領民の命がかかっている! 下手をすれば戦が起きてしまうのだ。
 ティゴールがお会いしたがっていると、姫に伝えてくれないか?」
がっしりと掴まれた肩と、訴えかけられる内容の重さに雫は言葉を失くす。
一体何だというのか。困惑しながらも結局彼女は「申し伝えるだけでいいなら」と前置いて、男の頼みを引き受けたのだった。

「と、言うわけでティゴールさんて方がお会いしたがっています」
「会わぬ」
即答に雫は「やっぱり」と言いたくなったが、いつものように肩を竦めたくならなかったのはオルティアの表情にひっかかるものを感じたからだろう。
普段姫は都合の悪いことには僅かに苦そうな表情を浮かべて拒否するのだが、今日はそうではなく嘲笑うかのように口の端を上げて答えたのだ。
―――― また何か意地の悪いことをしているのかもしれない。
それは雫の勘でしかなかったが、簡単に引き下がってしまうにはティゴールの目は真剣そのものだった。彼女は眉を寄せて苦言を呈す。
「少しだけでも会われたら如何ですか。領民の命がかかっているらしいですよ」
「会わぬ、と言ったのが聞こえなかったのか?」
「聞こえました。でも戦争になったら困るでしょう?」
言い聞かせるような雫の言葉にオルティアはふっと笑った。そこに確信的な意思が過ぎったのを見て雫は瞠目する。
「もしかして……わざとですか?」
「何がだ?」
「戦になるかもしれないことを、知っていてティゴールさんに会わないんですか?」
何故そう思ったのか、自分でも分からない。だが推論を一足飛びにして雫は確信した。
知っていて、オルティアは会わないのだ。文官たちも「命がかかっている」とまで言われて無視するはずはない。彼の嘆願は姫に届いていたのだ。
届いていたが、聞き入れてはいない。そこにどんな意図があるのか、捉えかねて雫は表情を険しくした。
「何とかならないんですか? 戦争なんていいことないでしょう」
「お前の世界には戦がなかったのか?」
「ありましたよ。私は経験ありませんけど」
「ならば楽しめばいい。人の知らぬ一面が見られる」
「は?」
雫からすると不謹慎としか言いようのない発言を、けれどオルティアは当然のように言ってのける。
そこに消せない反感を抱いてしまったのは性格の相違だけが原因ではないだろう。雫の声は僅かに低くなる。
「人が徒に死ぬことが楽しいですか? 趣味が悪いですね」
「争いは避けられぬものだ。小さな戦で全てが解決することもある」
「ならそうティゴールさんに直接仰ったらどうです。大きな利益の為にあなたの領民を犠牲にすると」
言い終わると同時に、雫は赤い飛沫を感じて目を瞑った。冷たいものが頬を滑り落ちていく。
手で顔を拭うと、甘い酒の香りが鼻腔を侵した。雫は自分に向けて酒盃の中身をぶちまけた主君を見据える。
「お酒が勿体無いです。こういうことをなさる前に言葉で反論なさってください」
「増長するなよ、小娘」
「弁えております。ただ忠言も仕える者の役目でしょう。気に入らないのなら聞き入れなければいい」
雫は自分が不機嫌になっているという自覚があったが、すぐには感情を抑えることが出来なかった。同じく不快を示すオルティアの怒気を正面から受ける。
支配者の考えや苦労など分からない。戦争が不可避であることもあるだろう。
だが虚勢でも偽詐でもなく、真実それを楽しむというのならその人間の精神は劣悪だ。
雫は生理的とも錯覚する気分の悪さに支配され、憤然とオルティアを見下ろす。
「大局の為というのならそう説明したらいいでしょう。黙って国民を犠牲にするなんて不信を招きます。
 同じことを繰り返してはやがて足場たる信頼が崩れ落ちますよ」
その諫言は年長者がする説教のように堅苦しいものであり、それでいて学生がぶつける不満のように理想に寄っていた。
オルティアは口元を皮肉な形に曲げる。棘のある声が紅い唇から這い出した。
「説明しても理解されぬ。お前のように煩く喚きたてるのが落ちだ。
 それに、お前は誤解しているようだがな? 民と王家とは別に信頼関係にあるわけではない。互いに都合がいいから寄生しあっているだけだ。
 民は自らの利益の為に国を裏切る。勿論国もそうだ。皆、持って生まれた役割を窺いながらいかに自分が得をするかを考えている。
 そのような関係の相手に何を言おうとも無意味だ。無言で圧してやった方が余程早い」
「姫」
「雫、お前がどれ程温い国から来たかは知らぬ。だが、妾に向って勝手な幻想を振りかざすな。目障りだ」
オルティアは早口でそれだけ言うと長椅子から立ち上がり、奥の寝室へと消える。
自重を以って閉ざされた扉は、普段よりも遠くで沈黙した。雫は紅色ばかりの調度品の中、そこだけ薄灰に塗られたドアを見つめる。
断絶は何も贖わない。不理解は埋められ得るものではない。
それでも最後に見たオルティアの後姿は、毅然とした誇り高さの中に一抹の悄然があった気がして、彼女は後味の悪さを噛み締めたのだ。



姫の部屋を辞した雫は、中庭を通って自室へと向った。
顔から浴びせられた酒の匂いが思ったよりきつくて、他の人間も通るであろう廊下を歩くことが躊躇われたのだ。
「派手にやられたね」
聞き覚えのある声にそう苦笑されたのは、中庭をつっきりながら酒の染みこんだ髪を解いていた、その時だった。
雫は足を止めると、少し離れた場所でベンチに座る男を見つける。彼は先日雫に本を拾ってくれた男だった。
「これくらいは別に。姫のなさることですし」
「オルティアは気性が荒い。苦労をかけるだろう」
労わるような優しい言葉。だが雫はその内容よりも、男が敬称なしで姫を呼んだことに戦慄した。
この城では人々は彼女の名を呼ぶことさえ忌避する。結果、皆「姫様」と呼ぶのだが、その彼女を呼び捨てに出来る人間といったら一人しか思い浮かばない。
雫は驚愕に半ば強張った体を動かし、男に向き直った。
「ひょっとして国王陛下……でらっしゃいますか」
「そうだ。ベエルハースと言う」
それは紛れもなくこの国の王の名だ。オルティアの十六歳年上の、腹違いの兄。
雫はキスクに仕える末端の一人として慌てて草の上に跪いた。
「申し訳御座いません。今までご無礼を……」
「構わない。私の顔を皆が知っているわけではないからね。それに出来れば君とは並んで話がしてみたかった。―――― オルティアの兄として」
目を丸くした彼女に、穏やかな表情で王は笑いかける。
彼はベンチの隣を示し、「とりあえずここに座るといい」と言うとますます雫を吃驚させたのだった。

本当なら酒の匂いが完全に染みこむ前に風呂に入りたかったのだが、王が話をしたいというなら聞かないわけにはいかない。
雫は言われたとおり彼の隣に座りながら、匂いがきつくないだろうかと気になって髪を一つに縛り直した。
だがベエルハース自身はまったく気にしていないらしく、彼女を相手にのんびりとした声音で話し続ける。
「同い年の娘がオルティアに仕えるようになったと聞いてね。どのような娘なのか気になっていた。
 あの妹に食って掛かれるような人間はもう最近はいないからね」
「……恐縮です」
「どうだい妹は? 理解しがたいだろう。もう愛想をつかしたか?」
肉親の口から「理解しがたいか」と問われたことに雫は刹那、嫌な気分を味わったが、軽く息を吸うとかぶりを振った。
「いえ。私は若輩ですから。姫には姫のご意見がおありでしょう。立場の違いがあることは分かります」
異邦人でありろくな知識も手腕もない雫には分からないことも、オルティアは王族として判断を下さねばならない。
そこに意見の相違が出ることは実際当然のことだろう。
雫の言うことは一種の理想だ。何処の世界でもいつの時代でも、人はそうあればいいというただの理想。
それがこの国この時代には適していないということも、世界さえ違う以上当たり前のことなのだ。
だがそれを分かっていながらも、言わずにはいられなかった。
出すぎた真似であることは承知で苦言を呈してしまったのは、雫がまだ若いせいもあるだろうし、単に性格のせいかもしれない。
そして或いは、オルティアが何処かで雫に反抗を求めているような、そんな気がしたせいかもしれなかった。

ファニートは融通がきかないといっても姫が重ねて命じれば渋々承諾するが、雫はその点聞けないものは聞けないと突っぱねる。
オルティア直属の部下で彼女に従わないことがあるのは雫だけなのだ。
姫はそれを楽しんでいるように見えることもあれば、苛立たしく黙らせることもある。
だが彼女が怒って背を向ける時、雫を無視して手遊びを始める時、そこには時折何かの欠落が垣間見えるのだ。
そんな時、まるで幼児が抱えて蹲るような無言の感情を、雫は読み取りたいと思っている自分に気づく。
口に出せばそれ自体「出すぎている」といわれるであろうが、それは喉に引っかかる小骨と同じく、不意に疼いて存在を主張するのだ。

「オルティアは、自分がされてもいいことは相手にしてもいいと思っている。
 裏切られてもいいと思っているから裏切るんだ。度し難いことにね」
―――― 何があったのか教えて欲しい、と請われて、躊躇いながらもティゴールの訴えについて王に伝えた雫は、そんな感想を貰って首を傾げた。
「でも、相手もそう思っているとは限りません。身分差や力量差があるならやり返せるかも定かではありませんし」
「そうだね。何の気構えもなく打ちのめされて、そこから這い上がれる人間は決して多くはない」
ベエルハースは笑って雫を見つめる。穏健さを思わせる瞳は、オルティアとまったく似ていないようにも見えるし、少し似ているようにも思えた。
王は緑の絹服の上で指を組むと、城の真白い壁を見上げる。
「ロスタの件は……一応私からオルティアに確認してみよう。
 もっとも私はそれ程才のある王ではないからね。妹に助けられてばかりだから上手くいかないかもしれない」
「充分です。恐れ入ります」
「その代わり君は、これからもオルティアの傍にいてやってほしい」
「私が?」
呆気に取られて雫が聞き返すとベエルハースは頷いた。遥か年上の彼は、何だか兄というよりももっと別の存在に感じる。
自分はどういう役割を求められているのか。理解できない雫に王は微笑した。
「傍にいて、支えてやって欲しい。そして出来れば時々私に教えて欲しいな。あれが何をして何を考えているのかね。
 普通に聞いても頼りない兄だ。いつもはぐらかされてしまう」
「それくらいでよろしければ……」
「お願いするよ。君はいい子だね」
ベエルハースは長衣を引いて立ち上がった。慌てて立ち上がる雫の目を、王は身を屈めて覗き込む。
「どうか裏切らないでやっておくれ。オルティアには君のような友人が必要だ」
間近で合わされた視線に、瞬間息を飲む程の力がこもったのは気のせいではないだろう。
オルティアが、ラルスやレウティシアが持つような王族の威。
それを予期せぬ時にぶつけられて雫はたじろいだ。一歩下がりながらも頭を下げる彼女に、王は「ありがとう」と言うと踵を返す。

彼の引き摺る衣が、植え込みの向こうに見えなくなってからしばらく、ようやく雫は動いた。
力の抜ける体をベンチの上に戻すと、大きく息を吐く。
「何ていうか……兄妹のどっちかがぶっ飛んでると、どっちかはまともになるのかな」
不敬極まりない発言を聞きとがめる者はいない。雫はいつの間にか乾いてしまった前髪を引くと、顔を顰めた。
小さな中庭を囲う白い石壁は少しずつ捻れて絡み合いながら、広い城の敷地を歪な迷路とする。
その中に閉じ込められた駒である雫は、己の配された位置さえも分からず、ただ壁の届かない空を見上げて嘆息したのだった。