鉄鎖の鳥籠 106

禁転載

大学に進学した時、生まれて初めて家族と離れた生活の始まりに「やっていけるのだろうか」という不安が過ぎったことを覚えている。
だがその不安も一月経つ頃には薄らいだ。一人で起きて料理を作り授業を受けて帰ってくるという生活も、そういうものとして馴染んできたのだ。
そして今、キスクに来てからまもなく三ヶ月が経とうとしている時、雫は自分がこの国での暮らしに慣れてきたことを実感している。
目覚ましがなくとも無意識に起きて顔を洗っている時など、ふとそのことに気づき自分の順応能力に苦笑してしまうのだ。

広い部屋は全てが淡い緑色の調度品で統一されている。
初めてこの部屋に足を踏み入れた時、緑を選んだのは目に優しいからだろうか、と雫は考えたがおそらく関係はないだろう。
広い窓の前に椅子を置いて本を読んでいる女に、雫は後ろから「失礼します」声をかけた。持ってきたショールを彼女の大きな腹にかける。
「ありがとう、雫」
「いえ。他に御用はございませんか?」
「ないわ。最近なんだか時間が妙にゆっくり流れている気がするのよ」
セイレネの表情は漠然とした穏やかさが漂っていた。
一月前に顔をあわせた時は、自尊心の高さがことあるごとに現れていた彼女だが、最近は嘘のようにそれらがなりを潜めている。
漂白されたかのように変化のない時間を過ごす彼女はまるで、羊水の中に眠る赤子と一体化してしまったかのようだった。
セイレネは白く美しい指で半球状に膨らんだ腹部を撫でる。焦点の定まりきらぬ目が窓の外に向って泳いだ。
「ねえ。この子が生まれたらあなたにお願いしていいかしら」
「乳母も手配しておりますが、私の出来ることでしたら是非」
「ありがとう。少し……安心したわ」
彼女は深く息を吐き出すと、沈み込むようにして背もたれによりかかる。
もうまもなくの出産を前に何かしらが不安なのだろう。ファニートと交代した方が落ち着いてくれるかもしれない。
雫は黙って一礼すると、時間を確かめる為に時計を振り返った。そこにセイレネの声がかかる。
「雫、私がここを離れたら、あの本を何処かに隠して欲しいの」
「本、ですか?」
「題名のない本。あったでしょう?」
「ああ」
そう言えばそんな本があったことを雫は思い出した。革張りの……確か紺色の本だ。納得の声を上げた彼女にセイレネは淡々と続ける。
「お願いね。あれはとても貴重な本だから……決してファルサスには渡さないで」
「ファルサスに? 何故ですか?」
随分おかしなことを言う。念を押されずとも彼女の私物をファルサスに引き渡すことなどないと思うのだが、何故だろう。
だが、雫がセイレネの真意を確かめようと椅子の向こうを覗き込んだとき、彼女は既に両目を閉じて眠っていた。安らかな寝息が聞こえ始める。
「本か」
呟いてみても答える者はいない。彼女はショールをもう一枚セイレネの肩にかけると、そっと傍を離れた。
ドアに手をかけた時、眠ったままのセイレネが小さな寝言を呟いたような気がする。
だが雫は「陛下……」と聞こえたその声を大して気に留めず、すぐに記憶の隅へと押しやってそのまま部屋を後にしたのだった。



セイレネの出産予定日が近づいてからというものの、雫は空き時間のほとんどを彼女の部屋近くの中庭で過ごすようになっていた。
何かあったらすぐ駆けつけられるように、というのがその理由だが、間に合うことを優先にずっと隣の控え室にいてもセイレネが落ち着かないらしい。
その為雫は「何かあったらこれを鳴らしてください」とナースコールのようなものを片方セイレネに渡すと、もう片方を自分で持ち歩くようにして咄嗟の時に備えている。
簡単な魔法仕掛けで動いているナースコールもどきは、雫が「こういうの欲しい」とニケに無理矢理頼んで作ってもらったものだが、ちょっとした呼び出しなどにも非常に重宝していた。これを応用して携帯電話が作れないだろうか、などとも思ってみたのだが、彼女に魔法法則は分からないし、製作者は「ちょっと城を空ける」と言った日以来戻って来ない。もう二週間以上になるが、何処かでギッタギタにされたのかもしれなかった。
「論文も読めないし……ファニートに頼もうかな」
彼は彼で忙しいのだろうが、たまに空き時間などが一緒になることもある。
その時にでも抜き出した文を訳してもらえれば読解が進むかもしれない。雫は寝る前に要点を抜き出す作業をしようと、頭のメモに書き込んだ。

ベエルハースと話をして以来、城内でティゴールの姿を見かけることはなくなった。
一体どうなったのか気にならないわけではなかったが、それを聞こうとすると姫はすぐに話を遮る。
あれから一度だけベエルハースにもオルティアの様子を聞かれたが、その時は一方的に質問されるだけでティゴールのことは聞けなかった。
ただ雫がそれを知りたがっていると察したらしい王が「大丈夫だよ」と付け加えてくれたのみである。

ふと己を顧みると、この国に来てから慣れたと言えば慣れたのだが、その分鳥籠の中にいるような隔絶感があり、欲しい情報がちっとも手に入らない気がする。
ただ目の前に示されたドアを開けるだけの繰り返し。この先が何処に繋がっているのか、気を抜くと不安に思ってしまいそうだった。
雫は開いていた本を閉じると、口に手を当て大きく欠伸をする。まだ充分に高い日は、しかし城の建物に遮られ直接庭までは降り注いでこない。
彼女は両手を上げて伸びをすると同時に、長いスカートの下の足を組みなおした。―――― その時、ポケットの中の魔法具が鐘に似た音を鳴らし始める。
「あ」
これが鳴るということはセイレネが目を覚ましたということだ。雫は本を小脇に抱えると彼女の部屋に向って走り出す。
一般の女官が入れない場所であることをいいことに、彼女はスカートをたくし上げて全力疾走した。すぐに目的の部屋の前にたどり着く。
「失礼します」
いつもの挨拶。いつもの扉を抜けて雫は部屋の奥へと向った。だがそこでいつもとは違う光景を目の当たりにして彼女は瞠目する。
部屋の主人であるセイレネは、腹を両手で庇いながら床に蹲っていた。苦悶の声が床に敷かれた毛皮に零れだす。
美しい顔は激しく歪み、救いを求める目が雫を捉えた。その双眸に雫は、ついに来たのだ、と確信する。
「少し待っててください。人呼んできますから!」
彼女はセイレネに駆け寄って近くにあった毛布を肩にかけると、再び部屋を飛び出した。
これから生まれるであろう子がオルティアの望む遊戯の最終的な引き金になると知らぬまま、こうして雫は次のドア目掛けて走り出したのである。



陣痛は断続的に二日続いた。
波が来る度にセイレネは身を捩って苦しみ、それは出産を目の当たりにしたことのない雫に異様な迫力を以って映ったが、彼女は逃げ出すことなく寝食を忘れてセイレネに付き添った。痛がる彼女の腰をさすり、励ます言葉をかけながら共にその時を待つ。
だがそれも三日目の朝、やって来た女性の魔法士が「そろそろ限界だ」と言ったことで終わりを告げた。
魔法士はセイレネの体力が限界であることを指摘すると、魔法による施術で赤子を取り出すと主張したのだ。
事前にこの世界の出産技術について学んでいた雫は、赤子に魔力がなければ危険な可能性があると言われるその方法に反対しかけたが、 セイレネが衰弱しきっていることは最早否定できぬ事実だった。不安を抱きつつも魔法士たちに任せて産室を離れた雫に、控えの間にいたファニートは温かいお茶を差し出す。
「心配することはない。赤子は大丈夫だ」
「……うん」
「この隙に貴女も少し休んだ方がいい」
「あー……ファニートは?」
「私は残る」
男の返答はきっぱりと力強いものだった。彼は産室には入れないが、陣痛が始まってからほとんど休みなしに隣の部屋に控え続けているのだ。
出産が無事終わるか余程気にかけているのだろう。雫は揺ぎ無い彼の声音に安堵して微笑む。
「じゃあ少しだけ寝ていい? 何かあったら起こして」
「分かった」
雫は欠伸を噛み殺しながらその場を離れると、城の奥にある自室へと戻った。
元の世界で六畳くらいのその部屋は、余分な物がない為一見質素な印象を受けるが、備え付けの調度品自体は粗末なわけではなくむしろ質のよいものばかりである。
彼女は隣接する小さな浴室で汗を流すと、生乾きの髪を厚布でくるんでベッドの中に入った。
蓄積していた疲労のせいか、眠りに落ちるのは一瞬である。
深い眠りの中で、彼女はいくつもの夢を見た。
家族の夢、友人の夢、家にいる夢、大学にいる夢、そして―――― 彼と旅をしていた時の夢。
もはや過ぎ去った時の夢は、一つ一つがショーケースにいれられた記憶であるかのように、切り出され輝く。
その中の雫は、今自分がいる世界が夢であることを知っていて……それだけが少し悲しかった。



疲労しきった雫を眠りの中から叩き出したのは、体の上に圧し掛かってきた何かの重みだった。
正確には「圧し掛かってきた」というよりは「落下してきた」と言っていい衝撃に、彼女は息を詰まらせる。
「ぐ……っ。何なんだよ!」
部屋の中はいつの間にか暗くなっている。少し仮眠を取るつもりだったのだが、夕方過ぎまで眠ってしまっていたのだろう。
だがそれを反省する意識もこの時の雫にはなかった。彼女は自分の寝台の上を見て唖然とする。
「何。何してんの。嫌がらせ?」
掛布の上にうつ伏せになっている男。久しぶりに会う魔法士の突然の登場に、寝起きの雫は思い切り顔を顰めた。
まるで夢の続きかと思うくらい非常識だ。本当はまだ夢なのかもしれない。彼女は枕元にあった上着を羽織ながらぼやけた頭を軽く振る。
「ちょっと、ニケ。何でいきなり部屋の中にいるの。ノックは常識だよ」
彼女は欠伸を噛み殺しながら手を伸ばして、髪の短くなった男の後頭部を叩いた。だが何の反応も返ってこない。
思わず眉を顰めかけて、しかし雫はその時ようやく異変に気づく。
―――― 白い掛布が、男の体の下から徐々に赤く染まっていく。
意識すれば分かる血臭に雫は一瞬で覚醒した。ニケの体の下から自分の足を引き抜くと慌てて男に飛びつく。
「何これ! ニケ! 馬鹿!」
返事はない。彼女はきつく目を閉じた男の頭を抱える。まだ感じ取れる体温に人を呼ぼうと口を開きかけた。
だがその時、頭上で虫の羽音のような異音が聞こえて雫は天井を見上げる。
薄暗い部屋の中、宙に浮かぶそれは―――― 鋭い先端から血を滴らせた、金色の小さな矢だったのである。