鉄鎖の鳥籠 107

禁転載

必要なのは複数の可能性である。
もしオルティアが本気でファルサスを乗っ取りたいと思っているのなら、 罠は周到な計画と共に広げなければならない。
だが、おそらく彼女の望むものはただの混乱だろうとニケは踏んでいた。
大陸最強の国家と言われるファルサスを、制御しきれぬ混沌の淵に陥れてやりたい。
せいぜいその程度のことなのだ。彼女が楽しめるような未来とは。
結果キスクまでもが巻き込まれ戦乱が吹き荒れても、オルティアは気にしないに違いない。
だから、綿密な計画は必要ないのだ。ただ複数の火種があればよい。
ニケはそれを実現する為にロスタ地方の対立を影から煽りつつ、ファルサスにも赴いた。
城から疎略に扱われた貴族や不満を持つ領主たちに彼は接触し、甘い餌をちらつかせながら巧みに叛乱の種を蒔いていったのだ。

転移を重ね各地を暗躍する彼が「彼女」を見かけたのは偶然ではなかっただろう。
彼女はロスタ地方で初めての暴動が起きた、その日の晩に現れたのだから。
ティゴールがいなくなったロスタでは留める者を失って領民の不満が蓄積していった。
そしてそれは影から油を注がれ続け、ある晩ついに旧カソラ人の街における大規模な略奪という形で爆発したのだ。
ファルサスからの商人も多く訪れていた街を、踊らされた暴徒は手に手に武器をとって襲い、街は一瞬で戦場と化した。
襲われたカソラ人も事前に不穏を感じ取っていたのだろう。応戦する者と逃げる者とで国境間近の街は渾然となる。
悲鳴や怒号が入り混じって血が流れる中に、だが駆けつけてくる警備兵はほとんどいない。彼らはカソラを嫌う領民たちに買収され、沈黙を決め込んだのだ。

燃やされる店々は、街外れの見張り塔からは鮮やかに咲き乱れる花のようにも見える。
事態の推移をその場から傍観していたニケはだが、今にも焼け落ちそうな店の一つがまたたく間に消火されたことに気づいて表情を変えた。
目を凝らすと店の前には一人の女が立っている。下ろされた長い黒髪が別の火に照らされ赤く光っていた。
彫刻のように整った小さな横顔に、ニケはそれが誰であるか分かって息を止める。
「あれは……ファルサス王妹か!」
本来このような場所にいるはずのない女。大陸屈指の魔法士。
彼女が国境付近とは言え、他国であるこの街にいるということは何らかの情報を掴んでいたのだろう。
ニケは緊張に唇を舐めた。辺りの暴徒を無力化しながら消火を続ける女を見つめる。
―――― この段階で対立を収められては不味い。
最終的にはカソラを踏み台にファルサスとの開戦まで至るよう姫は考えているのだから。
だが、逆に考えれば今は好機でもある。
ここはキスク国内であり、ファルサス王妹がここにいることの方がおかしいのだ。ましてや今は暴動の真っ最中。何があってもおかしくないだろう。
元々ファルサス直系の兄妹はどちらもが目障りな存在なのだ。あの二人が容易く暗殺できていたのなら、このような手段を取るまでもなかった。

ニケは短い間に計算を済ますと構成を組み始める。
彼女の魔法防壁を考慮の上、それを貫通できるだけの威力を一撃に込めた。道に立つ女に向って狙いを定める。
この距離では気づかれない。そして、外しもしないだろう。彼女は消火に集中しているのか防壁が薄い。
ニケは自分の力を知り尽くしていた。その力が、こういった使い道において一番効力を発揮することも。
「ここで退場だ……ファルサスの姫君よ」
凝縮し、小さな球と成した力をニケは指を弾いて打ち出す。
銀の球は緩やかに弧を描きながら、迷わず彼女の頭部へと向った。狂いのない軌跡に彼は成功を確信する。
闇の中を飛び彼女のこめかみを貫くはずの球。
だがそれは、黒髪に触れる直前で不意に弾け飛んだ。驚愕するニケに向って、彼女は顔の角度を変える。
美しい女の視線はかなりの距離があるにもかかわらず、彼をはっきり捉えているかのように容赦のないものだった。畏れがニケの背筋を走る。
―――― 嵌められた。
防壁が薄くなっていたのはわざとだったのだ。
殺せるかもしれないと思わせるだけの隙を作って、彼女は待ち構えていた。ここ最近幾度となく自分たちを襲った暗殺者の手を。
今までの暗殺は全てニケ自身の手によるものではなかった。仲介者を置いて雇った職業的暗殺者たちを使っていた。
しかしここに来て彼は、絶好の機会を前に目が眩んでしまったのだ。ニケの攻撃を打ち落とした彼女は口の中で何かを呟く。
「まじかよ……!」
正面から戦って勝てる相手ではない。ニケは転移の構成を素早く組む。
だがその時には既に……彼女によって作られた反撃の「矢」は、彼の魔力の波動をしっかりと記憶してしまっていたのだ。






部屋の中央に浮かぶ金の矢は、微かに震えながら標的を倒れ伏したニケへと定める。
そうと気づいた雫は咄嗟に男の上に覆いかぶさった。襲ってくるであろう痛みを覚悟して歯を食いしばる。
けれど、その痛みは一向にやってこなかった。代わりに体の下からくぐもった男の声が聞こえる。
「重い……馬鹿女……」
「うるさいよ! って生きてるの!?」
「勝手に……殺すな……それより聞け……矢は、止まっているだろう……?」
言われて雫が頭だけ振り返ると、確かに矢は標的を見失ったかのようにくるくると回っていた。雫は緊張に唾を飲む。
「止まってる。けどどうすればいいの?」
「あれは、俺を追ってくる……。だが……術者から離れて、今、精度が甘い……お前で見えなく……」
「あ、私がくっついてるから分からないのか!」
魔法で出来ているらしき矢は、ニケを追尾し攻撃するようプログラムされているのだろう。だが術者から遠くなったせいか機能が弱まっている。
雫が彼を庇っていることで、目標を半ば見失い、次の行動を決めかねているのだ。
「でもどうすんの。ずっとこのままとか無理なんだけど」
「五秒、食い止める……その間に、お前が、あれを折れ」
「手で?」
触ったらいかにも感電しそうだ。雫は自分の両手を見つめる。
だが、迷っている時間はないだろう。ニケは怪我をしているのだ。彼女は小さく頷いた。
「分かった。行くよ!」
雫は男の体を指で叩いてカウントを取る。そして合図と共に―――― 金色の矢に向って飛びついた。
緊張に震える一瞬。
しかし矢は、恐ろしい速度で彼女の手の中をすり抜けニケの背へと向う。
「ちょ……っ!」
食い止めるんじゃなかったのか! と心中で叫びながら、寝台の上で雫は身を翻した。突き刺さろうとする矢に向って手を伸ばす。
これは、間に合わないかもしれない。
形容し難い悪寒が彼女の心臓を掴む。
それでも彼女は硬直することなく踏み出した。矢の軌跡だけを追って身を乗り出す。視界の隅に赤い血の染みが見えた。

ほんの短い間。あの間にどちらもが覚悟を決めていたのかもしれない。
けれど血の滴る鏃は……ニケの背に食い込む直前で制止したのだ。固定され震える矢に、雫の指がかかる。
感じたのは痺れというよりも焼けつくような激痛だった。彼女は反射的に悲鳴を上げ、手を離しそうになる。
だが雫は意志で肉体を捻じ伏せると矢を握りこんだ。力を込め、二つに折り曲げる。
気が遠くなるような痛みに「もう駄目かもしれない」と思った時、けれど魔法の矢は彼女の手の中で雪のように溶け去った。
痛みの余韻に呆然となった雫は、指に纏わりつく金色の粒子に気づくとそれを慌てて払い落とす。
「うわ、いったいよ…………これでいいの? ニケ」
明確な答はない。苦痛の唸り声だけが彼女の問いに応える。
その時になってようやく彼女は―――― 怪我をしているはずのニケの後頭部を、思い切り踏みつけていることに気づいたのだった。



整った眉が跳ね上がる。向かいにいる女の、その僅かな変化に気づいて男は顔を上げた。視線だけで何があったのかを問う。
女もまた彼の視線に気づくと、小さく舌打ちした。
「壊されたわ。仕留められると思ったのだけれど……。何度も転移してたみたいだから座標が捉えにくいし」
半ば自省の言葉である苦味の詰まった返答に、彼は慰めも叱咤もかけない。ただ無言で頷いて天井を見上げる。
「まぁ誰がやっているのか大体は掴めた、というところかしらね。面白いことも少し分かったわ」
「面白いこと?」
「そう……ヴィヴィアのこととか。これは期待に添えないかもしれないわね」
曖昧に微笑む女の言葉に男は答えない。
ただ苛立たしげな溜息を一つついて、彼は机上の書類を広げ始めたのである。






何度転移しても追ってくる矢。それに死を覚悟したのは割合早い段階でのことだ。
何しろ相手はあのファルサス王族だ。逃げ切れるはずがない。防ごうとする彼の体に傷をつけながらの攻撃は死ぬまで止まることはないだろう。
遠く逃れて威力を弱められたとしても、矢の破壊は一人では到底無理だ。
魔力の追跡に長けた金の矢は、構成を組めばそれに反応して速度を上げる。魔法士を殺す為に特化されているのだ。
だから破壊出来る可能性があるとしたら、魔法士以外の仲間に助けを求めることだけだろう。
しかしそこまで考えて、ニケは自嘲を浮かべる。
―――― 一体誰が助けてくれるというのか。
城に仕える武官や魔法士はオルティアの手足である彼を忌み嫌っている。また同じ彼女に仕えるファニートはニケをよく思っていないのだ。
味方など何処にもいない。孤独に、惨めに殺される。
それはとうに分かっていたことだろう。
オルティアに屈服し、尊厳と意志を彼女に譲り渡したあの時から、彼にはまともに死ぬ権利さえなくなったのだから。



たった四年前のことだ。彼は師である魔法士と共に、オルティアの横暴な処置について直訴に向っていた。
ある魔法士の処刑命令への反対それ自体は、今から思えば大した問題ではなかった、と思う。
姫の性向をよく知った後からなら「それくらい何だ」と言いたくなるようなものだった。
だが当時の彼にはその処断は看過できない傲慢に思えたのだ。彼は義憤に駆られて姫の前に立ち―――― 目の前で師の両眼を抉られた。
何が恐ろしかったかと聞かれたら、全てとしか言いようがない。
「不快になったから目を差し出せ」と言われて躊躇わず跪いた師も、その師を背後から押さえつけたファニートも、 そして十五歳の少女が自ら初老の魔法士の両眼に指をつきたてたことも、何もかもが異様すぎて恐ろしかった。
暴れることも騒ぐこともなく淡々と「それ」を為していく彼らは、自分とは違う世界の生き物ではないかと思えた程だ。
そして、空洞になった眼窩を押さえて蹲る師を目の当たりにした時、彼の恐怖は限界点に達した。
厳しく正しく実直な教師であった男は、「気分はどうだ」と聞くオルティアに血の流れ出る顔を曝け出すと「ありがとうございます」と笑ったのだ。
理解できない。
その思いがニケを恐れで支配し、その場に釘付けた。
入室した時には確かにあった憤りだけでなく、常識や意志までもを彼はその数分で粉微塵に砕かれたのである。
そして歪な圧力に飲まれ立ち尽くすニケは「次はお前だ」と言われて―――― 自らの意見を翻し、許しを請うた。
震える両手をついて這いつくばり、床にこすりつけた額の感触を今でもはっきりと覚えている。彼の名を呼ぶ師の声と降り注ぐオルティアの嘲笑も。
それは十七歳の彼が経験した、拭いようのない敗北の記憶だ。あの日から人生が百八十度転換した。
以来四年間、彼は仲間であった魔法士たちに「犬」と侮蔑されながらも、オルティアに反することなく仕えている。
従順さの下に畏怖と嫌悪を抱え、両眼を失い城を去った師と本来通り処刑された魔法士に、沈黙を以って背を向けながら。

死を覚悟しながらも、思い浮かんだのは一人の女だ。
彼とは違う、「負けなかった」女。
彼女ならばあの日あの時、己を曲げないでいられたのだろうか。
もっと早く出会いたかったと、少しだけ思ってしまったのが癪だった。






「あ、生きてる」
間が抜けて聞こえる声は、彼のすぐ傍からかけられた。ニケは眩しさに腕で目を覆う。
だが、彼女はそれを許さず男の手をどけると、あろうことか指で瞼を押し上げた。魔法の明かりを近づけながら彼の右目を覗き込む。
「おーい、生きてるよね?」
「眩しいわ! 何のつもりだ!」
「瞳孔が開いてないか見てみた」
「他の確かめ方をしろ!」
反射的に怒鳴りつけたニケは、体から痛みが消えている事に気づいて起き上がった。見ると服は血みどろのままだが傷は既に塞がっている。
魔法着に染みこんだ血が乾いているところからして、それなりに時間が経過しているのだろう。部屋は暗かったが彼女は平気な顔をして起きていた。
「魔法士の人捕まえて治療だけしてもらったよ。本当はあんたの部屋に運ぼうかと思ったけど、私眠くないし」
「……お前の部屋か」
「あんたがここに来たんだよ。シーツの血、落とすの大変だったんだからね」
洗濯籠を足元に置いた雫は、「起きたならそれ脱いで。染み抜きするから」と彼の服を指差す。
そう言われても魔法着というのは上下が繋がっているものなのだ。それを知らないのか、彼を男と思っていないのか、世話焼きな女にニケは舌打ちした。
「ここで脱ぐくらいなら自分の部屋に帰る」
「別にいいけど。血はお湯で洗うと落ちにくくなるから、冷水で洗いなよ」
「捨てるからいい」
立ち上がると眩暈が襲ってくる。出血しすぎてしまったのだろう。
だが彼は心配げな顔になる雫を追い払うように手を振るとドアに手をかけた。暗い廊下に足を踏み出す。
「平気なの?」
「当然だ。お前も寝とけ」
「眠くないんだけど」
帰ろうと歩き出した隣に、女の手が魔法の燭台を差し出した。「持ってけば」という声が後に続く。
本当なら彼は自分の魔法で明かりが作れる。こういったものは元々魔法の使えない女官の為のものなのだ。だが――――
「……後で返す」
「はいはい。気をつけてね」
「悪かったな」
雫は意外な言葉に目を丸くしたが、ニケはそれ以上かまわなかった。今度こそ自室に向って歩き出す。

自分はいつ死んでも仕方ない人間だと思う。それだけのことをしてきた。今もしている。
だが、そう思いながらも諦めなくてよかったと感じているのは何故なのか。
考えても明確な答は出ないだろう。出てもきっと重荷にしかならない。
ただそれは、或いは今手の中にあるこの明かりが温かいから……そんなささいな理由が全てなのかもしれなかった。