鉄鎖の鳥籠 108

禁転載

ニケが出て行ってしまうと雫は部屋を簡単に片付けた。時計を見ると時刻はまだ夜明け前である。
一度セイレネの様子も見に行ったのだが、「まだ施術中だから」と言われ産室に入れてもらえなかったのだ。
もう少ししたらまた行ってみようと雫は考えながら、こんな時間に食堂は開いていないのでお茶を淹れてパンを齧る。
子供が生まれる、ということは自分ごとではなくとも妙にそわそわして落ち着かないものだ。
その子の教育係が自分であると決定しているなら尚更だろう。
雫は簡素な朝食を済ますと本を開いたが、一向に内容が頭の中に入ってこないので身支度を整え産室へと向った。

城の奥にひっそりとあるその部屋。
つい二時間程前に訪れた時は近くの廊下からして既に空気がざわめいていたが、今はその廊下もしんと静まり返っている。
出産は終わったのだろうか。嫌な予感に苛まれて雫の足取りは自然と重くなった。だが、その時背後から男の声がかかる。
「もう起きたのか」
「ファニート。―――― セイレネさんは? 生まれたの?」
「ああ。来るといい。こちらだ」
長身の男の後ろについて雫は小走りに方向を転換する。案内されたのは今まで使われていなかった王族の為の部屋の一つだった。
白と淡い青を基調に整えられた広い部屋を彼女は見回す。
大きな窓と凝った彫刻の施された石柱、繊細な人形が並べられた白木の飾り棚など目を引く調度品が点在するそこは、子供部屋という感じはあまりしない。
ただ明らかに今までセイレネがいた部屋よりも豪奢で、中産階層で育った雫には感嘆の溜息を禁じえないものだった。
「あいかわらず凄いよね。慣れてきたけど驚く」
「何がだ?」
「ずっと王宮にいる人には分からないと思う」
テレビなどで高級ホテルのスイートルームを見た時は、姉妹で「一度泊まってみたくない?」と話をしたものだが、実際に王宮の部屋に立ち入ると「落ち着かなくて眠れないだろうな」というのが正直な感想だった。雫は庶民的な感覚が分からないらしいファニートを置き去りに、寝室への扉を指差す。
「あっち?」
「ああ。今は眠られている」
「分かった」
ファニートの姿を見ると、扉の前に立っていた衛兵が一礼し横にどいた。
普段は部屋の中にまで兵士が立ち入ることはないが、今は特別なのだろう。
雫は会釈して彼らの間をすり抜けると、音をさせないようドアを押し開ける。

まず目に入ったのは天井の金具から吊るされた白い紗布だった。寝台を守るように覆い隠すそれを、彼女はファニートの許可を得て慎重にかきわける。
何故こんなにも緊張しているのか、自問しながら中を覗き込んだ雫は、広い寝台の中央に眠る赤ん坊を見つけて息を止めた。
思っていたよりもずっと小さい。精巧に出来た人形かと思ってしまうほどだ。
だが、その真白い肌は非常に柔らかく蕩けそうであり、長い睫毛は夢でも見ているのか時折ぴくぴくと動く。
外国人の赤ん坊は皆こうなのか、整った美しい顔立ちを雫は感動を以ってまじまじと見つめた。
「男の子? 女の子?」
「男児だ」
「うわぁ。美少年になりそうだね」
起こしては不味いと思い、雫はそこで天蓋の外に出る。
緊張を解いた彼女は、部屋には赤子の他に彼ら二人しかいないらしいことに気づいて首を傾いだ。
「セイレネさんは?」
「彼女は城を出て東部の離宮に移った。そこでしばらく静養する」
「もう? 産んでから何時間も経ってないじゃん」
「転移陣を使った。私も付き添ったが大丈夫そうだ。貴女によろしく言っておいてくれと頼まれた」
「そっか……」
たった一ヶ月仕事で一緒にいただけだが、こうも突然別れが来るとは思ってもみなかったのだ。
雫は最後の挨拶が出来なかったことに申し訳なさと落胆を抱く。
だがそこで彼女は一つ、セイレネに頼まれていたことを思い出した。
「ね、セイレネさんの私物で私一つ預かる予定になってるものがあるんだけど、聞いてる?」
「いや? 宝石か何かか?」
「違う、本。まだあるかな」
「あると思う。午前中には掃除が入るらしいから女官に頼むといい」
「ありがと」
女官に頼むとしても題名がなく分かりにくい本だ。帰りにそのまま部屋に寄って取っていった方が早いだろう。
そう思った雫は寝室を出ようとして、ふとドアを開ける前に振り返った。寝台の傍に立つファニートを見やる。
「実はさ……セイレネさんのお腹の子の父親ってファニートかなってちょっと思ってた」
「まったく違う。私の子なら姫が気に掛けるはずがないだろう」
「かもね。で、結局父親って誰だったの?」
それは、答が返ってくることを期待していたわけではない、冗談の範疇にある質問だった。
軽く聞いてみただけの問い。だがファニートはいつもの平坦な声で答える。
「さぁ。ファルサス国王かもしれぬな」
「…………へ?」
よく知っている男。そして、冗談にしては笑えない火種そのものの可能性に雫は絶句する。
けれどいくらファニートの目を見返しても、今の答の真偽は分からず……結局彼女は不安に似た蟠りを宿したまま、その部屋を後にしたのだった。



雫はすっきりしない気分のままセイレネが使っていた部屋へと向った。合鍵を使って中に入り、誰もいない部屋の本棚から紺色の本を取り出す。
三日前までとまったく変わらぬ室内。しかし、微かな違和感が彼女の思考の隅をちらつく気がした。
けれど立て続けに色々なことに直面した雫は、違和感を明確な猜疑と変えることが出来ない。
首を捻りながらも部屋を出て自室へと戻り始める。
―――― ドレスも装飾具も、本も小物も化粧道具も、持ち主がいなくなったにもかかわらず変わりなく残っていた。
そのこと自体が不自然だということを、彼女は全てが終わった後他の人間から指摘されるまで、ついに気づけぬままでいたのである。






城でひっそりと赤子が取り上げられてから一週間後、キスクの城都の片隅にある食堂は、旅人や傭兵など雑多な職種の人間でごった返していた。
その中に普段よりも屈強な体つきの男が多く見られるのは、ロスタ地方で続く暴動と関係あることは明らかである。
窓が小さいせいか薄暗い印象が拭えぬ店内の隅で、鍛えられた体躯を持つ男は、肉の塊をナイフで切り分けながらぼやく。
「やっぱり駄目だな。ろくな仕事がない。ロスタまでいけば何かはあるんだろうが」
「アンタがキスクにするって言ったんじゃない。ファルサスは傭兵を使わないからって……」
「そうなんだが、城は動いていないし貴族は右往左往しているばっかりでな。
 思ってたよりキスクのやりたいことが見えてこない。このままじゃぐだぐだな争いが始まりそうだぞ」
「どうでもいいよ」
リディアは肉の一切れを手で摘みながら事実興味がなさそうに言う。
彼女は上位の宮廷魔法士にも匹敵する腕の持ち主なのだが、魔法士の傭兵は集団戦闘の経験が乏しく扱いづらい為、戦争などでは雇用を避けられる傾向があるのだ。 彼女自身も「気に入らない人間には命令されたくない」とのことで宮仕えを拒んでいるので、わざわざ戦争絡みの仕事は請けたがらない。
今現在キスクには、不穏を察知した貴族が私兵を編成する為に傭兵を募集するという仕事ならいくつかあるのだが、リディアはそれも「待機するばっかりで気に入らない」と言って一顧だにしていなかった。
ターキスが切り分ける肉を当然のように自分の取り皿に移しながら、彼女は果実酒を口にする。
「それより北部にいかない? 北の大国メディアルの西部で最近やたら魔物が出るらしいってさ。
 討伐隊とかいって大量に傭兵を集めてる人間もいるらしいし、単独でも仕事に困らなそう」
「魔物退治かぁ。俺あんま得意じゃないんだが」
「てっとりばやいし私は好き。別にいいよ、一人で行くから」
「お前と離れると移動が面倒なんだよ。俺も行こうかな……」
定まりきらない目的に二人は会話を打ち切ると、しばし食事に集中し出した。
だが生まれた沈黙もしばらくして、一人の男がテーブル脇に立ったことにより中断させられることとなる。
占い師が着るようなローブを目深に被り顔を隠した男は、二人から見ると上流階級に仕える者の品のよさが感じ取れた。押し殺した作り声が絞り出される。
「単独で潜入行動が出来る腕のいい傭兵を探している」
「魔法士か剣士か? 目的は何だ」
「殺しだ。実力があるなら種別は問わない」
「生憎と暗殺は畑違いだ。その筋に行けよ」
ターキスはそっけなく結論づけると軽く手を振る。けれどローブの男は引き下がらなかった。
声音に苦さを滲ませながら食い下がってくる。
「相手方は暗殺者をよく使う。手練を動かせば気づかれる恐れがあるのだ。別筋の人間を使いたい」
「暗殺者ってのはそんな口が軽いもんじゃないけどね」
何だかきな臭い話だ。
暗殺者を使おうというのだから元々きな臭いと言われればそれまでだが、身分のありそうな依頼人といい今のキスクの情勢といい嫌な予感がする。
だが何度断ろうとしても男は渋るだけだったので、仕方なくターキスは傭兵がよく集まる小さな酒場を教えてやった。
一般の人間はほとんど出入りしないその酒場は、彼の知り合いもよく顔を出しており腕の立つ人間は多いが、その大半が気分屋である。
彼らはどれ程報酬を積まれてもやりたくないと思ったら引き受けないだろう。隣にいる女がそうであるように。
酒場の場所を口頭で説明された男は、礼を言うと銀貨を三枚テーブルに残していった。
今の食事代を払って軽く釣りが来る金額に、リディアは男がいなくなると呆れ混じりの声を上げる。
「あーやだやだ、胡散臭い。ああいう人間って自分の素性が分からないとでも思ってるのかな」
「さぁな。自分のことは自分じゃ分からないのかもしれん」
ターキスは適当に結論づけると店員を手招きで呼び寄せて肉の追加注文をする。
彼が最初に頼んだ肉をほとんど横から取ってしまった女はそれを聞いて舌を出すと、自分は新しい酒を頼んだのだった。