鉄鎖の鳥籠 110

禁転載

キスクの建国にかかわった女王。彼女は二国の王子を共に娶り、五人の子を産んだとされる。
三国の血が混じりあって生まれた国は、勢いに乗って周囲の国々を圧し大国として確固たる地位を築き上げた。
しかし、その始まりにまったく影がなかったわけではない。
初代女王の三十三歳での事故死の他に、当時は秘せられた事件が複数起きている。
そのいくつかは捻れた感情が産んだ悲劇だと、知る者は最早ほとんどいないのだが。



差し出された短剣にオルティアが驚いたのはほんの数秒だった。
すぐに彼女は柄を掴むと鞘を取り去る。むき出しになった剣を跪く雫の左耳目掛けて―――― 上から真っ直ぐに振り下ろした。
鈍い刃が耳を掠め、肩へと食い込む。
「っああっ!」
目から火が出るような衝撃に、雫は肩を押さえて蹲った。痛みに生理的な涙が溢れる。
「……身に染みろ。愚か者が」
オルティアの声はいつもとは違い抑揚のないものであった。身を捩って縮こまる雫の背に、短剣そのものが放られる。
乾いた音を立てて敷物の上に転がったのは、刃の潰された装飾用の剣だった。鉄の鈍器に打たれたと同じ激痛に雫は唇を噛んで嗚咽を堪える。
あまりの痛みに出来れば気を失いたいくらいだ。
だがそうならないことは分かっていたので、雫は気力を振り絞って体を起こすとオルティアを見つめた。
けれどいつまで経っても姫が自分を見ようとしないと分かるとそのまま深く一礼する。震えて崩れ落ちそうになる足を引き摺るようにして部屋を辞した。
一人残るオルティアは顔を上げない。去っていく雫の背を見ない。
ただ彼女は床の上に落ちた短剣を注視すると、ややあって子供のように己の両膝を抱いたのだった。



「お前の頭の中身は本当にどうなってるんだ? 被虐趣味があるのか?」
「全然。痛いのやだ。グロいのも駄目」
雫は魔法で治癒された肩を服越しにさする。まだ激痛の余韻がある気がしてならないが、痛み自体は残ってなかった。
廊下の角にしゃがみ込んで悶絶していた彼女を気づかず蹴り飛ばしそうになったニケは、それを聞いて呆れというより、意味の分からない生き物を見るような表情になる。
「他の人間のことも考えろ。お前が訳の分からん癇癪を起こしたなら、姫の機嫌が悪くなるだろう」
「あー、ごめん。ひょっとしてこれから報告?」
「察しろ」
「ごめん」
謝ってはみたが後の祭りである。
雫はこの上なく嫌そうな顔をしている男に頭を下げると立ち上がった。
「何ていうか……無力感に凹む」
「姫に正面から食って掛かるな。通じるわけがない。むしろ俺の方が凹む」
「まことに申し訳御座いません」
怒っているというよりはげっそりしている男に重ねて謝ると、雫はその場を立ち去った。一人の廊下を歩きながら項垂れる。
―――― 少しだけ、通じるような気がしたのだ。
オルティアの瞳の中に忘れられた子供の姿が垣間見えた時、彼女は自分の欠落に気づいているのではないかと思った。
口に出さないだけで、気づいて、嫌がっているのではないかと。
だから、真っ直ぐに向き合えば届くのではないか、何かが変わるのではないかと思ったのだ。
その考えが甘かったことは痛みと共に思い知ったが、いずれは何処かで同じことを言っただろう。これくらいで済んだなら僥倖だ。
「持っている者は当たり前すぎて分からない」とは、デイタスの従者であったネイに言われた言葉だが、今ならその意味が少しだけ分かる気がする。
オルティアはおそらく当たり前のものが得られなかった人間で、雫は彼女の姿に自分ではない自分と損なわれた子供の、両方の姿を見たのだから。

ヴィエドのいる子供部屋に向うと、寝室の扉の前にはファニートがいた。
会いたい時には会えないのに、気まずい時には顔を合わせてしまうのがかえっておかしい。苦笑した雫に気づくと男は怪訝な顔になる。
「どうかしたのか?」
「いや、何でもないよ」
「泣いた痕がある」
「あー……」
言われて見れば顔は洗ってこなかった。泣いたのはどちらかというと痛みの為なのだが、悲しいと言われれば悲しかった気もする。
雫が「姫に文句言って怒られた」と簡潔に説明するとファニートは難しい表情になった。
「言っても聞いてはくださらないが、言いたくなる気持ちは分かる」
「まぁ、はい。私も率直すぎたと思う」
「程々にした方がいい。怪我で済まなくなったら大変だ」
「肝に銘じます。……にしても姫って子供の頃はどんな子だったの?」
今の彼女は子供時代を飛ばしてきてしまったような、未だに子供時代に囚われているかのような、どちらにせよ不均衡な印象を受ける。
なら実際子供であった時はどんなだったのか。霧の中を探るような疑問に古くから姫に仕える男は沈黙した。
だがそれも一瞬のことで、すぐに乾いた答が返ってくる。
「幼い頃から聡明な方であった。少々我が強いところもあったが、王女として自身に誇りを持つのは普通のことだろう」
「想像つくね」
雫は小さなオルティアが女王然として我儘を言っているところを想像し小さく吹き出す。
いかにもな姫だ。だが高慢さも子供ならば愛らしく見えたのであろう。ファニートの目にはいつになく穏やかな色が見えた。
「姫ってさ……トライフィナ女王に似てるよね」
「トライフィナ? 初代女王にか? そのようなことを聞いたのは初めてだ」
「そりゃ全然違うところもあるけど、あの、国が嫌いだけど離れられないところとか」
「国が嫌い?」
「あれ?」
二人はお互いに「意味が分からない」と言った表情で顔を見合わせる。
トライフィナは皆に愛され、自身も慈愛に満ちた穏やかな女王であったと言われているのだ。
他国にまで恐れられるオルティアとはまったく違う。誰に聞いても似たところなどないと言われるだろう。
雫は片手で前髪をかき上げると、そのまま頭を押さえた。
「あれ……トライフィナって……弟に言われて……あれ?」
若くして死した、けれど幸福な生涯を送ったとされる女王の「真相」を、雫はおぼろげに知っている。
だがそれはいつの間にか知識の中に入っていたもので、それが人口に膾炙しているものとまったく異なっているとは今この時まで気づかなかった。
むしろ何処で知ったのか自分が覚えていないことに気づいて彼女は言葉を失くす。
ファニートはそんな表情の変化を、的外れな発言を自覚した為と思ったらしい。口元だけで苦笑すると雫の肩を叩いた。
「そうだな。姫もかつてはお優しい方であった」
「姫が?」
雫は大声をあげてから慌てて口を噤む。フォローのつもりで言ってくれたのであろう言葉に素っ頓狂に返してしまったのだ。
下手をしたら寝室のヴィエドにまで聞こえたかもしれない。雫は息を止めて泣き声が聞こえてこないことを確認するとファニートに謝罪する。
「ごめん。ちょっと吃驚した」
「いや」
「に、しても、優しかったって……」
本当なのか? とつい目で問う雫に男は微笑しているようにも見える表情で軽く手を振ると踵を返した。もう別の仕事の時間なのだろう。
複数の消化不良な疑問を抱えたまま雫は一人になる。
本当のことは誰が知っているのだろう。それともそれは人によってまったく異なる真実なのか。
雫は袋小路に陥りそうな思考を振り切ると、寝室のドアを開けヴィエドの元へと向う。

ヴィエドは広い寝台で目を開けてぼんやりと天井を見ていた。
まだ自分ではろくに動けない赤子に、雫は笑いかけて枕元に座る。備え付けの絵本を取り出すと、ゆっくりと読み上げ始めた。
外見では性別の分からぬ子供は、セイレネに似ているかと聞かれればそんな気もするが、ラルスに似ているかといったら分からない。
雫はじたばたと手を動かす赤子に指を差し出し握らせた。柔らかな感触に安堵を覚える。
生まれてすぐどちらの親も不在となった彼は、これからどのような人生を送っていくのだろう。
数奇な運命を辿るのかもしれない。血を分けた親と相争うような生涯を送るのかも。
だがそれが可能性に過ぎないことを、雫はただ祈る。
彼女は複雑に捻れつつある感情を隠してヴィエドの髪を撫でると、いつものように幸福な終わりを迎える童話を安穏な寝台に降らせていったのだ。



準備は整った。
それは部屋にいる全員が分かっていることだ。中央にて皆の視線を集める男は手に持った書類の束を文官へと返す。
そこにはここ最近不穏な動きをする貴族や領主たちの動向が記されていた。
隣国での暴動とは別に動きだしていたそれらは、彼らの能力を反映してか児戯にも見える稚拙なものである。
面倒くさげに一括での監視処分を指示した王は、居並ぶ臣下を見回すと不敵な笑みを浮かべた。
「さて、いい加減カソラからの嘆願も溜まってきた。
 近頃は国境を越えての追撃も起きていることだし、これ以上騒ぎが大きくなる前に腰を上げようかと思う」
兄の言葉に傍に立つ女は「好んで騒ぎを大きくしようとしてるのでは」と思ったが、粛々とした場にならって口には出さない。青い瞳を伏せ床を見つめる。
「羽虫を放つ人間の出所も分かったことだ。悪戯が過ぎる女にはきつく仕置きをしてやらんとな」
軽く言う主君の言葉に何人かは緊張を浮かべる。このままこじれて大国同士の全面的な戦争になれば、それはここ数百年例のないことなのだ。
勿論そうなっても負けるつもりは微塵もないが、自分たちが歴史の変わり目に立っているのではないかという疑いは拭えない。
臣下たちの表情とは別に緊張の欠片も見えない王は壁にかけられた大陸地図を振り返る。その視線がある一点を捉えた。
「廃王の尻拭いがここまで来るとは遺憾だが、蒸し返したのはあちらだ。一つロスタでももぎ取ってやろう」
実質的な命に、その場にいた人間たちは一斉に頭を下げる。
長年血族内に向けられ続けていた王剣が敵意を滲ませる隣国に切っ先を動かす、その初めの日が徐々に近づきつつあった。