鉄鎖の鳥籠 111

禁転載

薄紅の光が広い部屋の隅を丸く照らしている。
部屋の主人からの返事はなく姿も見えないが、彼女がそこにいるであろうことは気配で分かった。
入り口に控えるファニートは何度目かの呼びかけを口にする。
「姫」
答はない。彼は両目を閉じた。すぐ傍で焚かれている香をかき消す。
「オルティア様」
変わらない声。
だがその呼び名に静寂が波立ったのは気のせいではないだろう。光の中に象牙色の手が差し出される。細い指が動くと光量が僅かに増した。
機嫌が悪いのとはまた違う、どちらかと言えば気鬱を思わせる貌が明かりの中に浮かび上がる。
「なに?」
「ご気分がよろしくないようで」
「そのようなことはない」
「ならばいいのですが」
「雫は?」
間髪置かぬ言葉にファニートは口元を緩めた。
二人の間に何かあったのだろうということは分かる。雫は今までも時折オルティアの機嫌を悪くする諫言を行っていたのだから。
オルティアは、雫が物知らずで視野の狭い発言をしたり、逆に想像の範囲内で鋭い指摘をすると喜ぶが、 人を玩具として見る嗜虐性を批判されると途端に不機嫌になる。それは、今まで皆が思っていてもはっきりとは言えなかったところを雫が突いてくる為であり、 また年若いせいか潔癖なところもある彼女がその点に関しては容赦のない言説をぶつけてくる為でもあるだろう。
ファニートは主君の問いに抑えた声で答える。
「ヴィエドのところにおります。呼ばれますか?」
「要らぬ」
「左様でございますか」
オルティアはそれきりまた黙り込んでしまった。
他にも聞きたいことがあるのに聞くことを拒んでいるような沈黙が流れる。
主君が同い年の臣下に何を見ているのか、ファニートには判らない。
立場も来歴もまったく異なる二人は重なる部分をほとんど持ち合わせていないのだ。衝突も無理のないことだろう。
或いは埋められない相違がよくない結末をもたらす前に、姫の近くから雫を引き離した方がいいのかもしれない。
それはいつからか彼の考えていることではあるが、ヴィエドが生まれたことで進言する機会を逸してしまっていた。

小さな窓の隙間から風が吹き込む。
置物の間をすり抜ける風は香の残滓を押し流し、徐々に部屋の空気を変えていった。ゆっくりと醒めていく夢のように微かに雨の匂いが混じりこむ。
ファニートはそれに気づくと黙って窓に歩み寄り、音をさせぬよう閉めると鍵をかけた。姫に向って振り返る。
「雫はいつもと変わりなくおりました。姫の不興を買ったと申しておりましたが」
何気ない補足に、だがオルティアは少し揺らいだように思えた。光の中にある手が指を握りこむ。
「……あれは口が過ぎるのだ」
「姫のことをトライフィナ女王のようだと」
「トライフィナ?」
訝しげな声音。
けれどそれはすぐに笑い声に取って代わられた。鈴よりも割れかけた鐘に似て黙然とした部屋に響き渡る。
「トライフィナか……なるほどな。言いえて妙だ」
「姫?」
似ているとは言えぬ女王と並べられて気分を害したのだろうか。
彼女なら一笑に付すであろうと思って何気なく口にしたにもかかわらず、その笑い声は多分に自嘲が含まれているようだった。
やがてオルティアは吹き消された明かりのように再び黙り込む。
幾千と流れたであろう代わり映えのしない時。
気づいた時には既に永遠を思わせるほど沈殿していた澱が、けれどその時ゆらりと動いた。乏しい明かりが女の目の下に翳を作る。
「ファニート……妾はこの城にいなくともよいのか?」
光を映さぬ目。暗がりに座り込む彼女の視線が男に寄せられる。
彼女は何を思って、何を問うのか。
それは誰にも判らない。少なくとも彼には分かったことはない。
だから男は静かな目で主人を見つめると――――
「この城こそが貴女のおられる場所です。どうかそのようなことをお気にされませぬよう」と答えたのだった。



朝から降り出していた雨は時間と共に本格的なものとなりつつあった。
ヴィエドの部屋から退出した雫は、回廊にある欄干によりかかり中庭を見下ろす。
最近持ち歩いている手提げ袋から裁縫道具を取り出すと、彼女はそのまま手作業を始めた。赤子用のおもちゃを縫い始める。
視力がはっきりしていない頃はカラフルなものの方が目に付くというから、何か手に握りこめるような玩具でも用意してみようと思ったのだ。
ユーラに「針と糸が欲しい」と言ったところ「魔法具ですか?」と聞かれたが、雫は裁縫用の魔法具の使い方など分からない。
その為彼女はごくごく普通の針と糸で、赤い布をひょうたん型の袋状に縫い合わせていた。一通り出来上がったところで目鼻を刺繍し中に軽く綿をつめる。
「あ、結構可愛い」
中々愛嬌のあるおもちゃに仕上がった。雫は出来栄えに満足すると手すりに置いていた裁縫道具をしまい始める。
だがその時、後ろから伸びてきた手が、赤い人形をひょいと持ち上げた。
「これは何を模しているのかな? ネタイ?」
「陛下」
突然横から声をかけられて雫は袋を中庭に落下させそうになったが、当の相手は彼女の作ったおもちゃをまじまじと眺めている。
雫は姿勢を正すと臣下の礼を取った。
「赤子でも握れるように玩具を……。目がついていた方が可愛いかと思ったのですが」
「面白い」
ベエルハースは穏やかに笑うとそれを返した。
彼は雫と並んで欄干によりかかると、いつものようにオルティアについて聞き始める。
起こったことをありのままには話せないので、そのほとんどは他愛のない話であったが、彼女は受け答えをしながらふとオルティアについて知るいい機会ではないかと思い当たった。話の区切りを窺うと「恐れながら」と王に問う。
「あの、姫様はかつてはどういうお方だったんでしょう」
「ふむ? 面白いことを聞くね」
「差し出がましいことを申し上げ……」
「構わないよ」
ベエルハースとオルティアは母親が違う。ベエルハースを産んだ王妃はその後十二年程で病死し、代わりにオルティアの母親が王妃として迎えられたのだ。
オルティアが産まれた時ベエルハースは既に十六歳。それくらい年の差があるならば、彼女の子供時代もよく覚えているだろう。
王は少し考えるとふっと表情を和らげる。温かい瞳に追憶が流れた。
「可愛らしい子だったよ。利発で、自信家で、少し我儘で……」
それは雫の想像するオルティアの子供時代と同じものだ。彼女は王の言葉に任せて頷く。
「気位が高いせいか素直になれないところがあった。でも根は優しくて、癇癪を起こした後はよく気まずそうに謝ってきた」
オルティアが「そう」なのは血を分けた兄が相手だからなのだろうか。雫はレウティシアだけには甘いラルスのことを思い出す。
だが、彼女が記憶を掘り起こすような目をしたのを、ベエルハースは話を怪訝に感じた為だと思ったらしい。軽く肩を竦めると息をついた。
「そうだね……ちょっと御伽噺をしようか」
「御伽噺?」
「ああ。架空の話だ。そう思って聞くといい。
 ―――― 昔ある国に幼い王女がいた。彼女は何不自由なく生まれ育った姫でね、容姿にも恵まれ頭のよい子で皆から愛されていた」
これは何の話なのだろう。雫は軽い緊張を覚える自分に気づくと、両手の指を組み合わせた。じっとベエルハースを見上げる。
「彼女は幸福だった。守られて過ごし、ままならないことなど何も知らなかった。
 けれどある時、彼女に転機が訪れる。
 彼女の国のある地方には、数十年前に他国から逃げ出してきた人々が集まる街があるのだけれどね。
 それをよく思わない人間たちの中でも手段を選ばない一派が彼女を攫って、返して欲しければその街を焼くよう城に要求したんだ」
雫はつい声をあげそうになって慌てて口を押さえた。王を見やると彼は悲しそうな目で微笑む。
その街のことならば知っていると、言っていいのかどうか分からない。第一これは、架空の話なのだ。
雫は聞きたいことを嚥下してしまうと、代わりに続きを問うた。
「それで……どうなったんですか?」
「ああ。要求を出された王とその妃は迷わなかった。
 二人は―――― 『王族ならばいつでも民の犠牲になる覚悟はある』と言って、娘の命がかかった要求を拒絶したのだよ。
 その後一派は軍に強襲され、王女は幸運にも無事救出されたが……彼女は両親の返答を攫った人間たちから聞いたらしい。
 それ以来性格も変わって、親たちと口をきかなくなった。憐れなことだ」
無音の雷に打たれるような衝撃が雫の中を走り抜ける。
これが誰の話なのか、ベエルハースは勿論知っている。そして、もしかしたら雫も。
幼くして王族としての死を望まれた姫は、親の意思を裏切りととっただろうか。それとも自らの生まれを疎んだだろうか。
答はきっと、手の届くところにある。「彼女」の足跡はそこかしこに残っているのだ。

雫は感情の詰まった目を伏せる。脳裏に子供の影を引き摺ったままの主君の横顔が思い浮かんだ。
「お話は、それでおしまいですか?」
「終わりだよ。ああ、そう言えば君はオルティアについて聞いていたのだったね」
王の横顔は異母妹にはあまり似ていない。子供の欠損はそこにはない。
ベエルハースは目を閉じて微笑する。
「うん。あの子は優しい子だった。だけど父上とお妃のことは嫌っているようでね。私も繰り返し言ったがついに歩み寄ることはなかった。
 そして両親が亡くなってからは、オルティアはますます歯止めがきかなくなったんだ。
 あの子はよく言っていたよ。『王族が多くの民の為に犠牲となるのが当然ならば、少数の民が王族の意図の為に犠牲になることもあるだろう』と」
「私は……王族と民はお互い寄生しあっているのだと、伺ったことがあります」
「あの子にとってはそうなのだろうね。それも国の一つの側面だ。
 ただ何事にも限度がある。あの子が気まぐれにもたらす害が益を上回ることがあれば―――― その時は皆も黙ってはいないだろう」
あまりにも落ち着いた声は、けれど雫には焦燥をもたらした。
ベエルハースはもしかして、今まさに起きつつある変化について釘を刺しているのではないか。
「御伽噺」がオルティアの話でもあるのなら、彼女はロスタを憎んでいるのかもしれない。或いは城や国自体までも。
けれど、だからと言ってそれらを踏みつけようとするならば、その行いは彼女に相応の報いを求めるだろう。
ならばこれから、どうすればいいのか。
主君を見捨てるのか、運命を共にするのか。
逆らうのか、従うのか、変えられるのか。
いつのまにか選択が再びすぐそこにまで来ている。
このドアを開けたなら次は何処へ繋がっているのだろう。

黙り込んだ雫に王は微苦笑してみせる。それは降り続ける雨に似合う寂しげな表情だった。表皮を捲れば取り戻せない年月がこめられている。
「前にも言ったが、出来れば君はオルティアの傍にいてやってほしい。
 周りがどう言おうともあの子は私の大事な妹だ。年の近い友人がいてくれたならと、ずっと思っていたのだからね」
「……はい」
体の中が妙に重いのは、きっと精神が疲れているせいだ。
そう思いながら雫は去っていく王を見送る。
出来ることなど些細なことでしかないだろう。その些細ささえ意味があるのか分からない。
けれどもし今、この国に一人でなかったのなら――――
雫は押し込めていた心細さに湿り気を帯びた体を抱く。
呼びたい名前を、しかし喉の奥で飲み込んで、そうして彼女は雨に濡れる城を見上げたのだった。