鉄鎖の鳥籠 112

禁転載

月光をぼやけさせる薄雲が絶えず空を流れ続けていく夜更け。
森沿いに伸びる街道の上を小さな荷馬車が走っていく。
荷馬車が目指す先にあるものは国境。そこまで行けば縁者が迎えに来てくれることになっているのだ。御者台に座る男は無言で手綱を取る。
彼が生まれたのは三十八年前、カリパラの街が作られてから二十年程経った頃であり、その街の小さな商家の息子として誕生した。
かつての祖国を離れ異国の土地に店を構える祖父母の姿を、彼が不思議に思ったのは物心ついてすぐの頃である。
昔話として彼らを襲った戦争について聞いた少年は、話が終わると平和が取り戻された後も何故祖国に戻らないのかと、素朴な疑問を口にした。
返ってきた答もまた素朴なもの。
戦時においてもっとも苛烈な被害を受けた街の中から逃げ延びた祖父は―――― 「ファルサスが怖いから」と弱弱しい微笑を浮かべたのだ。

そのファルサスに孫である自分が逃げ込もうというのだから、つくづく運命とは皮肉なものであると彼は思う。
男は荷台にいる妻と倉庫から何とか持ち出してきた積荷の数々を振り返った。
これだけあれば土地を移ってもまた商売を始められる。国境を越えさえすれば、また日常を取り戻せるのだ。
最初の頃は店々が燃やされ武器を持った男たちが暴れまわった暴動だが、最近はその傾向も大分変わりつつある。
放火や殺人などが減った代わりに、街からは人や物がどんどん消えていくのだ。
勿論カリパラの街を見限って逃げ出していく人間もいるのだろう。だがそれだけではないこともまた確かだ。
このまま居残っていてはいつか自分たちがそうなるかもしれない……。
消せない懸念を抱いた男は決心すると夜陰に乗じて街を出た。幸い追ってくる者は誰もいない。男は酒瓶を取り出すと、緊張と喉の渇きを潤す。
今夜は空が暗い。
何もかもが影の中に没し、息を潜めている気がする。
このまま国境を越えたら少し馬を休憩させてやろう。そう思って男は手綱を引き締めた。だが息をつきかけた彼の耳にその時、新たな馬蹄の音が聞こえる。
「馬車を止めろ!」という怒声が後方から飛んできて男は首を竦めた。後ろを窺い見るとそこには五つの騎影が猛然と追いすがってくる。
およそ平和的な用件ではありえないだろう。男はひしひしと背に突き刺さる殺気に意を決すると手綱をしならせた。 街道の先を目指して馬車の速度を上げる。
国境の門まで行けば、そこにはファルサスの兵が駐留している。
街道上に存在する境門は近くの砦から直接兵が送られており、最近の亡命の多さに配備される人数も増えているとは聞いていた。
六十年前祖父母が逃げ出してきた土地を目指して、男は限界まで速度を上げる。
しかし、追走劇は長くは続かなかった。荷を引いた馬が速さで普通の馬に敵うわけがない。
遠くに門の影が見えたところで、馬車の両脇には馬を駆る二人の男が現れ、束の間彼らは並走することとなった。
野卑た顔立ちの一人が御者台の男に向かって剣を振り上げる。
―――― ここまでか。
そう思いながらも護身用の短剣に手をかけた男は、だが自分に向かって切りつけようとした人間が声も無く落馬したのを見て唖然とした。
次いで反対側の一人ももんどりうって地面に叩きつけられる。
何が起きているのか分からない男はけれど、馬車を止める愚は犯さなかった。そのまま境門に向けて馬を酷使し疾走させる。

「相変わらずいい腕ですね。アズリア殿」
「そうでもない。危うく馬に当たりそうだった。馬は悪くないのに」
境門の上に座っていた女は呆れる魔法士に「まったく馬は可愛いよ」と言いながら夜視用の魔法具をはずした。愛弓を手に塀から飛び降りる。
長い金髪が僅かな月光を受けて揺らめいた。きつめの顔立ちは今年三十二歳になる彼女を青年のようにも見せている。
彼女は近くに控える部下に死体と馬を回収するよう命じると、境門に一部屋だけある会議室へと戻った。そこには砦との連絡を司る魔法士と文官が待機している。
「準備はどうなっている?」
「ほぼ完了しております。陣の配備も出来、夜明けと同時には動けるかと」
「そうか。レウティシア様は?」
「城に戻られました。代わりに陛下が指揮を取られるそうで」
「………………まじで?」
古くはラルスの護衛であった女の呆然とした言葉に、文官は溜息をつきたそうな顔で頷く。
これで勝利はほぼ確定された。が、心労も確約された気がする。
アズリアは色々なことを言いかけてけれど結局かぶりを振ると、「寝れるうちに寝とく」と言ってその場を後にしたのだった。



風が変わった。
そう感じたのは開いた窓から冷たいものが吹き込んできた時だ。机の明かりで本を読んでいた雫は部屋着の上に一枚羽織り直す。
ここ数日続いていた雨はいつの間にか止んでいた。空には薄雲に覆われた月が窺える。
彼女は冷えてきた体に気づくと窓を閉め、空のポットを手に取った。眠る前にお茶をもう一杯飲もうと思ったのだ。
部屋から給湯室へはそう遠くない。キスクの給湯はファルサスと違い、常にお湯が用意されているのではなく自分で沸かさなければならないものであったが、沸かすための板自体は魔法具でありさほど時間はかからない。雫はそれくらいの間ならいいだろうと着替えぬまま部屋を出た。
角を二度曲がり給湯室の扉に手をかける、その時―――― また、風が吹いた。
冷たい空気に少しだけ混じる「何か」。とても覚えのあるそれに彼女は眉を寄せる。
息を止めてあたりの様子を窺うと、何処からか物の倒れる音がした。あまり大きな音ではない、布袋を落としたような物音に雫は不審を覚える。
「何だろ。おばけ……はいないんだった」
このままお湯を沸かして部屋に戻った方がいいのかもしれない。
しかしそれをしては、いつまでも気になってしまいそうで彼女は躊躇った。結局、専用の鍋に水を注いで魔法板にかけると音のした方を見に行く。
雫の疑問は角を曲がってすぐに解消された。
長い廊下の途中、誰かが壁によりかかるようにして座り込んでいたのだ。体格からいって見回りの兵士であろう。彼女は駆け寄って男の顔を覗き込んだ。
「あの、大丈夫です……か……」
問うている途中で、意味のない質問だと分かった。
雫は口を開いたまま凍りつく。
床に座り込んでいる兵士の胸からは棒のようなものが生えていた。まるで唐突で不自然な柄。それは肉に突き刺された刃に続いている。
よく知っている匂いが濃くなった。疑いようもない血臭。兵士の胸元が徐々に黒く染まっていく。
「…………死んでる?」
己の発言に戦慄すると、雫は死体から飛び退いた。そのままバランスを崩して尻餅をつく。
けれど後から思えばそれでよかったのだ。転んだ雫の頭上を、一本のナイフが音も無く横切っていったのだから。

「ちょっ……!」
避けたナイフが床に落ちるより早く、彼女は自分が危地にあることを悟った。
まったくもって戦闘能力がない雫だが、危ない場面には今まで何度も遭遇しているのだ。
空気がおかしい。死体がある。それだけで彼女は大体を察すると跳ね起きた。姿の見えない誰かから身を隠すように柱の陰に逃げ込む。
どうやってこの場を切り抜ければいいのか。手には何も持っていない上に服装はただの部屋着だ。
雫は血の気が急速に下がっていくのを自覚して息を殺す。
相手が立ち去ってくれればいいが、近くまで来られたらお手上げだ。
彼女は廊下の反対側の角までの距離を目測して、自分の膝を軽く叩いた。走り出すタイミングを見計らう。
だがその機を得るより早く、何の前触れもなしに暗闇から剣の切っ先が突き出された。
それはぎょっとした雫の顔の横をかすめ、後ろの壁に触れる直前で止まる。
「聞きたいことがあるんだけれど」
涼やかな声。明らかな脅しとして配された刃に彼女は硬直した。恐る恐る目線を上げ、相手の姿を確認する。
相手も雫の顔が分かったのだろう。二人はお互いを見て、気の抜けた声を上げた。
「え」
「あれ」
仮面のようにすっきりとした顔立ちの少年。会ったのは一度だけのことだが、忘れられるはずもない。
彼の存在は禁呪が迫るカンデラ城の中、複数の死体と不理解を伴って雫の記憶に焼き付けられたのだから。
「あなたは……」
「君、ターキスの依頼人だっけ? こんなところで何してるの?」
少年は剣を動かさぬまま硝子のような目で彼女を凝視する。
お互い名前も知らない二人はこうして、初めて出会った時とは別の国の城で顔をあわせることになったのだった。

少年は雫が城内にいることに怪訝そうな目をしたが、それを知っても仕方ないと思ったらしい。すぐに本題を切り出してきた。
背後を一瞥して他の人のいないことを確認すると口を開く。
「あのね、王のいる建物を教えて欲しい。思ったより複雑な城で困ってるんだ」
「王のって……何で」
「仕事だから。何処か知ってる?」
雫は答を飲み込んで彼を見返した。ベエルハースのいる建物はここより三棟北西だが、そんなことを正直に言えるはずがない。
見張りの兵士を殺して侵入しているところからして物騒な仕事なのだろう。雫は顔のすぐ横に留められたままの刃が血に濡れていることを確認した。
改めて目の前の少年を見上げる。
「し、知らない」
「嘘。隠してもいいことないよ」
彼はすっと目を細める。それはまるで雫の嘘を見透かすかのような冷たい視線だった。彼女は恐怖を感じると共に慌てて話題を逸らす。
「あの、仕事って何するの?」
「秘密。君が教えてくれるなら教えてもいいけど?」
「また禁呪……とか?」
「違うね」
彼がここに侵入してきているということはターキスも何処かにいるのだろうか。
雫は助けを求めて辺りを見回したい衝動に駆られたが、余計な動きをしては斬られそうで出来なかった。髪に触れる剣を意識して浅く息を吸う。
「陛下のとこ、警備厳しいよ。近づいたら捕まると思う」
「知ってるけど仕事請けちゃったし。それより何処だか知ってるんでしょ? 教えてよ」
「いやちょっと……」
煮え切らない否定に彼は少し気分を害したようだった。片眉を顰め剣を持つ手首を返す。
「教えてくれるなら殺さないでいてあげるけど。ターキスの依頼人だった人間殺したら睨まれそうだし」
「……危ないよ。行かない方がいい」
「そういうことを聞いてるんじゃないって。面倒だなぁ」
少年は剣を持った手を動かした。雫は反射的にぎゅっと両目を瞑る。
だがそれは、手が疲れたから下ろしただけのことだったらしい。剣は彼女を傷つけることなく顔の傍からどけられた。
少年は反対側の手でうっとうしげに髪をあげる。
「ここでぐだぐだ話してる時間はないんだよね。
 そうだな……君って甘い人間だったよね。ならこう言えばいいのかな?
 ―――― 王を生かしておけば国が蝕まれるんだって。今のうちに手を打たないと大変なことになるって……分かる?」
「え?」
まるでオルティアに向けられたような、けれど確かに「王」と言われた言葉に、雫は目を丸くする。少年は苛立たしげに彼女を見やった。
夜の廊下は風と共に徐々に血の臭いが流れていく。
対する陣営に属する人間たちとして二人が陥ったのは、ただ不理解を目前にした沈黙だった。