鉄鎖の鳥籠 113

禁転載

明かりも届かない暗い廊下の隅で二人は顔を見合わせる。
事態を飲み込みきれないでいるのは女の方で、短い沈黙を破ったのも彼女の疑問であった。
「王を……生かしておけば?」
「そう聞こえなかった? 耳が悪いのか頭が悪いのか」
「ひ……」
姫じゃなくて? と言いかけて雫は咄嗟に口を噤んだ。不審の目を向ける少年に首を横に振る。
少年―――― カイト・ディシスという名を持つ彼は、雫が理解していないと察すると舌打ちした。手元の剣を苛立ちのまま何度か返す。
「王が生きているとよくないんだってさ。だから排除しろってのが僕の仕事。
 他に誰もやらないっていうし試しに請けてみた」
「だって、陛下何もしてないよ!?」
「大声出さない。殺すよ」
間髪置かない注意に彼女は唇を噛む。
だが、理解出来ないものは出来ないのだ。何故ベエルハースに暗殺の手が向くのか分からない。
事態を混迷させているのはオルティアであり、どちらかと言えば排除されるのは彼女の方だ。
雫自身がオルティアを排除したいかと言ったら即答できないが、客観的に見て王族の兄妹のどちらに責があるかは明らかだった。
それとも、そうであっても許されざるは、国の頂点に立つ王の方なのだろうか。
困惑する雫は、だが鼻の先に短剣を突き出されて絶句した。
「時間がないって言わなかったっけ? さっさと教えて」
「いやだって、教えたら暗殺に行くんでしょ?」
「そういう仕事だから。君は前にさ、多数の為に少数を犠牲にするかどうかなんて、仮定で論じてもしょうがないって言ってたけど、今はどうなの?
 仮定じゃないよ。王を生かしておけば国が傾いて沢山人が死ぬって言うんだから」
「や、待って、本当にそうなのか分からないよ。言いがかりかも……」
畳み掛けられて雫は顔の前で手を振る。ぐちゃぐちゃになりかけた思考を整理しなければ何にも答えられないのだ。
だが目の前の少年は悩むこと自体が無意味だとでも言うように呆れた顔をした。
「君さ、念のために言っとくけどこんなことに絶対的な善悪なんてないよ。損得と敵対関係があるだけだ。
 でも君が馬鹿だから、分かりやすいように犠牲者数で話をしてる。ロスタにはまもなくファルサスが侵攻するんだ」
「あ……」
ついに、そこまで来てしまったのだ。
外界の情報から隔絶された彼女は理解と同時にその場に立ち尽くす。
キスクとファルサス、大国同士の戦力差がどうなっているのかは分からない。
だが、オルティアはもともとロスタを犠牲にするつもりで事態を動かしたのだ。
ファルサスの侵攻を知って姫が満足するのか、そしてロスタから始まる戦の続きがどうなるのか、雫は想像の及ばぬ範囲を思ってぞっとした。
滑り出る声が自然と震える。
「陛下が亡くなったら……それで意味があるの?」
「城が一時的に混乱する。その間に支配が弱まればロスタ自体がファルサスに降伏を申し出る。
 カリパラだっけ? 国境の街は向こうに取られるかもしれないけど、もともとあそこはロスタであってロスタでないから構わないんじゃないの?」
それが、混迷を最小限で抑える決着なのだと、少年の向こうにいる依頼人は告げてくる。
城はロスタを顧みない。ならばその城を突き放してロスタを守ろうと、誰かが考えているのだ。
雫は深く息を吐き出した。誰に向けるともつかない、落胆に似た悲しみが肺の中に淀む。
「依頼人は、ティゴールさん?」
ベエルハースが「私から言っておく」とティゴールの件を請合って以来、彼の姿は城内から消えた。
有能な領主であった彼は、その後己の民を守る為に王に背くことを選んだのではないか。
それは単なる思いつきではあったが、他に可能性のある人間を雫は思いつかなかった。カイトは眉を顰める。
「そこまでは言えない。言ってもいいけど知らない。僕のところに来たのは使いの人間だから」
「やめようよ」
「ん?」
「やめなよ。こういう手段で大局を何とかしようってのよくないよ。ちょっと待ってて。私が掛け合ってくるから……」
ファルサスへと向う長い旅の途中で、エリクから「暗黒時代」の話を聞いたことがある。
かつてこの大陸全土を何百年もに渡って覆っていた戦乱と裏切り。暗殺はその時代において事態を混迷させる卑劣な一手であったという―――― 。
今はもう遠い時代だ。なのに何故今、それを呼び起こそうとするのか。
雫は顔を両手で覆ってしまいたい気持ちに駆られる。
結局、個々人が抱くままならなさとは何とも溶け合うことがなく、こうしてただ伝染していくのみなのだ。

雫は視線を動かす。給湯室へは傍の角を曲がればすぐだ。今頃放っておいたお湯が煮えたぎっていることだろう。
それくらいしか反撃の手段は思いつかない。可能性としては低いが、他に賭けるものは何もないのだ。
カイトの透き通る目には何もない。人を殺すことへの抵抗感が何も。
だから彼はやはり、雫を殺すつもりでいるのだろう。そのつもりで教えてくれた。本来は話さないであろう色々なことを。
少年は雫の鼻先に突きつけた短剣を見ない。ただ彼女だけを見ている。物を見るように、そこに何もいないかのように。
「君に何が出来るの? 掛け合って駄目だった時、僕の代わりに王を殺せるの?」
「私は殺さない。でも……」
「君の言うようなことはみんな無意味だ。何も変えられっこない」
「でも、あなたは人を殺すことを愉しむ」
突き放す強さもない声は、二人の間にある剣の刃を滑っていった。カイトは零れ落ちたそれを鼻で笑う。
「だから? 肝要なのは何が為されたかだ。悩みながら殺したら許されるって? その方が腹立たない?
 僕は面白いから人を殺す。それが金になるから仕事も請ける。
 仕事の出来についてとやかく言われるならともかく、嗜好で文句を言われる筋合いはないね」
「文句は言ってないよ。協力したくないってだけ」
文句を言われたくないのは、雫も同じだ。
人の死を愉しむことが嫌い―――― これは変えられない彼女の感情だ。
オルティアであってもこの少年であっても、大義があろうが結果がどうあろうが、その愉悦に賛同する気は微塵もない。
他者の死に淫する者は容易く他者を犠牲にする。
事の善悪を論じたいわけではなく、雫は単にそれが嫌いなのだ。人の可能性を見もせずに切り捨てるような拒絶が。

カイトは短剣をそのまま突き出しはしなかった。少し引いて――だがそれは前触れでしかないだろう――雫を狙う。
「協力したくないから、馬鹿正直にそのまま言うって? 君は本当に馬鹿だね。見てて苛々する。
 本当に滑稽だよ。自分の命を軽んじる人間が『殺すな』って、矛盾してない?」
雫は冷ややかな指摘を最後まで聞かなかった。腰を落とし、剣の切っ先から逃れる。
すぐに床を蹴って走り出した。背後でまた舌打ちが聞こえる。
背中に剣を投擲されたら避けられない。
すぐそこにある角が遠く感じられた。だがその時、残されたままの死体の方から誰何の声があがる。
「誰だ! 何があった!」
見回りの兵士の声。雫が首だけで振り返ると、カイトは柱の影から新たに現れた男に向かって短剣を投げようとしていた。
「危ない!」
雫の声に兵士は咄嗟にしゃがみ込む。その上をまた短剣が通り過ぎていった。新たにナイフを抜くカイトに、彼女は肩から体当たりする。
少年は一歩よろめいたが、手を伸ばして雫の髪を掴むと彼女が悲鳴を上げるほど強く下に引いた。むき出しになった喉にナイフがあてられる。
「まったく……」
その時カイトの目には怒りさえ見られた。それは彼が雫に見せた初めての強い感情だったろう。殺意よりも敵意に近い空気が彼女の肌に刺さる。
「僕は君が嫌いだよ」
その断言に答える言葉を雫は持たない。ただ死を覚悟して目を瞑った。
今までに何度もこんなことがあったのだ。
意志を曲げるか、命を明け渡すかの選択が。
そしていつも後者を選んできた気がする。ある時は怒りの為に、ある時は悲しみの為に、彼女は精神にこそ優位を与えてきた。
『自分の命を軽んじる人間が、殺すなと?』
少年が突き刺した冷たい言葉が耳の奥で反響する。
雫は終わりを待つまでの一瞬、短い自分の人生を振り返って―――― 自分の死には何かの意味があるのかと、そんなことをふと考えたのだった。

痛いのは嫌だ。
だが恐怖に強張りながらもそれを待つ彼女は、痛みではない別の力を加えられ転びそうになった。
目を開けると少年が彼女の腕を半ば持ち上げている。彼はそのまま廊下の奥へと雫を引き摺っていくところであった。
背後側からは複数の人間たちの声が響いてきており、それは徐々に二人の方へと近づいてきている。先程の兵士が人を呼んだのだろう。
カイトは焦りを浮かべた表情になると彼女を引いて角を曲がった。
だが連絡が行き渡ったのか、その先からも人の声が聞こえてくる。
「くそ……っ」
前後を挟まれる形になった少年は迷わず近くにあった扉を開けた。普段は倉庫となっている小さな部屋は中に窓が一つあるのみである。
人質にでもするつもりなのか、カイトは苦い顔で雫の腕を引こうとした。
けれどその時、雫は少年の手の中からするりと脱け出た。掴む力が緩んだ隙に、上着を脱ぎ捨て拘束をすり抜けたのだ。
予想外の抵抗に一瞬呆気に取られたらしい彼は、だが素早く距離を取る彼女を見ると冷笑を浮かべる。
「まったく散々だよ。さっさと君を殺しておけばよかった」
「……逃げた方がいいよ」
「言われなくても。時間を使いすぎた。―――― 後で悔いるといいよ」
カイトは鳥のように身を翻して部屋に飛び込むと、窓を押し開け外に飛び出した。
たちまち闇の中に見えなくなるその姿を雫は呆然と見送る。
駆け寄ってくる兵士たちの気配に彼女はようやく安堵を覚えると、そのまま床にへたりこんだ。
しかし息をつく間もなく、今度は兵士の一人に腕を押さえられる。
「どうした! 何があった!」
「え、あ、侵入者が……」
「どっちへ行った!」
雫は殺気立つ兵士たちを見回すと、開いたままのドアを指差した。途端に彼らは小さな部屋に殺到していく。
その光景はまるで遥か遠くの出来事のようだった。昂ぶった神経が元に戻らない彼女は床に座ったままぼんやりと頭を振る。
拾ってくれた上着を手に険しい表情の兵士が声をかけてきた。
「賊の顔は見たか? どのような奴だった?」
答えなければいけない問い。
だがその時、雫は何故か言葉に詰まってしまった。名前を知らない少年とのやり取りが甦る。
何を重んじて、何を軽んじるのか。
何故止めるのか、庇うのか、否定するのか。
彼女は大きな目を瞠って兵士を見上げる。 夜の暗がりに潜む猫のような双眸に答を見出そうと男は顔を近づけた。
迷うはずもない瞬間。けれど彼女の思考はそこで断絶する。
雫は血の気をなくした顔で目を伏せると、掠れた声で「分かりません……」と答えたのだった。