鉄鎖の鳥籠 115

禁転載

人が人の精神を歪める。
それは、時に言葉のみで容易く行われるのだ。
十六歳も年の差があるベエルハースには容易かったのだろう。傷心の妹の思考を誘導し、己の望むように仕立て上げることは。
雫は唇を戦慄かせる。まるで胃の中に焼けた穴が開いたようだ。脳裏に残るオルティアの横顔が疼く。
「あなたは……何をなさっているのです……!」
「当然のことをしただけだ。利害が一致したというのかな。
 私はあの子を何とかしたかったし、ティゴールは領地内の対立をどうにか収めたかった。
 だから王女を攫わせその犯人を城が一断することで、私たちはロスタの現状に不満を持つ者たちを黙らせたのだよ。
 ティゴールが名領主だと信じている者たちは愚かだ。奴は己の手を汚さず見せしめを行ったに過ぎない。
 もっとも最近はオルティアが暴れているせいか、奴も真実をあの子に打ち明けると煩かったのだがね」
あんまり煩いから、牢に入れてやったがいつの間にか逃げ出していた、と肩を竦めてぼやく王に雫は愕然とした思いを味わう。
ティゴールが領内を何とかしたいが為にオルティアを罠にかけたのなら、それは許されないことであろう。
領民も国をも全てを欺く策略だ。目的の為とは言え正当化出来るものとは思えない。
だが何故、兄である彼はそれに協力したのか。妹を守らなかったのか。
黒い両眼でそれを問う彼女にベエルハースは口元だけで笑う。
「私はただ、あの子を親から切り離したかっただけだ。当時はあの子を今のファルサス国王の婚約者にするという案が二人から出ていてね。
 だが、私はそれ程才のある人間ではなかった。これから王になろうというのに、あの子を手放すわけにはいかなかったのだよ」
「ならそう仰ればよかった! 何故姫を偽りで傷つけられたのです!」
「あの子が妬ましかったからだ」
さらりとした言葉。
そこにあるのは何なのだろう。
ベエルハースは笑うのをやめ、何処か虚脱した目で雫を見ていた。或いはその目は彼女を通して妹の影を見ていたのかもしれない。唇が僅かに歪む。
「政略結婚で娶られた母から生まれた私と違い、あの子は愛された王妃から生まれた。
 美しく、利発で、そこにいるだけで自然と皆の気を引いた。誉める言葉も嗜める言葉も全てがあの子に向く。
 それに比べて私には何もない。王族というだけの……ただの凡庸な男だ。
 だから、妬ましかったのだよ。あの子がずっと」
淡々とした彼の声は、けれど一つ一つが雫に重いものをもたらす。
姉妹に劣等感を覚えていたのは彼女も一緒だ。そして自分だけが何もないような孤独を覚えていたのも。
だが彼女は踏み外さなかった。自分を形成する為に姉妹から離れることを選んだのだ。
それは、妬ましいと思う以上に彼女たちを愛していたからだろう。
やりきれない思いが喉に詰まって、雫はベエルハースを睨む。
「何もないなどということが、どうしてありましょう……。
 少なくともあなたはよき王として、そして優しい兄として在ることが出来た。
 ご自分を貶められたのは、誰よりもあなたご自身ではないですか」
昏い誘惑に流されたのは、誰でもない自身の意思だ。歪められたオルティアがその歪みを周囲に振り撒いたことも。
彼らは止まれなかった。収められなかった。膨らんでいく感情を持て余し、それらを別の人間へと注いでしまったのだ。

雫の弾劾にベエルハースは顔色を変えなかった。むしろ元通り微笑を浮かべて彼女を見下ろす。
「違う。これがキスク王族の在り方なのだよ。血族を愛しながら相争うことがファルサスの性なら、欺き操りあうのがキスクだ」
「それはあなたがトライフィナの末裔である為ですか?」
「……驚いたな。あの子はそんなことまで君に話したのか。余程君が気に入ったらしい」
正確には雫がそれを知ったのはオルティアが教えた為ではないのだが、彼女は話を脱線させることを嫌って沈黙を保った。側近二人が怪訝な顔になる。
その様子からしておそらくこれは王族だけの秘密なのだろう。
三国の併合にあたって二国の王子を夫とした女王―――― 彼女がどちらの夫の子も産まなかったという真実は。

トライフィナ、それは美しく慈愛に満ちたキスク初代女王の名だ。そしてキスクの元となった三国のうちの一つ、キアーフの王女でもある。
併合の条件として彼女を求めてきた二国に対し、キアーフはトライフィナを差し出すことを承諾した。
名目上は女王、だが求められていたものは美貌と従順さであっただろう。
だが結局トライフィナは、実弟の指示によって自らを所有しようとした二人の夫を欺いた。
彼女が産んだ五人の子はいずれも親族であるキアーフ王族の男の子供。
キアーフは一人の女を犠牲に、労せずして二国を乗っ取ることに成功したのだ。
だが、心優しい王女であったトライフィナ自身はこの謀略により、短い生涯を人知れず苦しみぬくこととなった。
キアーフへの愛情、キスクへの義務感、夫たちへの罪悪感、弟への反感と信頼、そして自由への渇望。
それら全てが彼女の精神を引き裂き、五人目の子供を産み落とした後、トライフィナは全ての秘密を持ったまま自殺した。
秘された彼女の遺書に残されていたのは「もうここから出て行く」という一文のみだったのである。

国への脅迫的な義務感とそれへの反感。王族であることを疎む思いと消せない誇り。
それはオルティアにも通じるものだと、雫は思っていた。
だがオルティアのそれは、半ばベエルハースによって作られたものだったのだ。
形容し難い忌々しさに雫は唇を噛む。だが、揺らぐ怒気を向けられた王は穏やかにも見える笑顔を浮かべていた。
「あの子は今まで私の望み通り役に立ってくれた。民への情けに揺らぐことなく国を統治し十全に動かしたのだ。
 少々酷薄なところはあるが……あの子の悪名はあの子のものでしかない。私は精々無能と言われるくらいだね」
「無能? 卑怯の間違いでしょう」
「そうかな? 結局みんなあの子自身の選択の結果では? 私は今までも一応あの子のすることをたしなめてきたのだからね」
厚顔な反論を男は当然のものとして繰る。
たしなめただけで、当然強く止めることはしなかったのだろう。
むしろ踊らされやすい兄を装って、ベエルハースはオルティアを「使って」きた。
雫は眩暈さえ覚える程の不快感に眉を顰める。それを眺めていた魔法士の男が、雫の腕を掴んだまま半歩前に歩み出た。
「陛下、この娘の処分は私めに」
「駄目だ。彼女はオルティアの友人であの子供の教育係だからね。子供に使い道がある以上、彼女も残しておかないと不味い」
思えば、「オルティアのことを教えて欲しい」とは兄が妹を心配する為ではなく、妹を監視する為の言葉だったのだろう。
雫はそれに騙され、姫のことをベエルハースに伝えてきた。全てを話していたわけではないとはいえ、知らぬ内に彼の手駒の一つだったのだ。
だが事実を知ってなお、彼に協力する気はない。
叛意を両眼に浮かべる雫の全身をベエルハースはまじまじと見やった。
「そうだね……、ちょうどトライフィナの話が出たところだ。彼女の名を抱く術でも一つかけておこうか。ジレド」
「は!」
「彼女に『トラスフィ』を」
その命を聞いて魔法士の男は陰湿な喜びを顕にする。反対に雫は嫌悪に駆られて身じろぎした。
しかし逃げ出そうとする間もなく文官の男が後ろに回って彼女を羽交い絞めにする。
前に回ったジレドという名の魔法士は嫌らしい笑いを浮かべながら雫を見下ろした。骨ばった手を薄い夜着越しの腹部に伸ばす。
「ちょっ、やだ! 触んないで!」
暴れる彼女の抵抗も虚しく、男の手の平が臍の下辺りに触れてきた。魔法の詠唱が始まる。
「少しの我慢だよ、雫。これはいわば約束のようなものだ。
 本来なら後宮の女にかけられる術でね。女の内腑を媒介として『命令』を刻み込む。たとえば『不貞をするな』とかね。
 普段はただ腹の中に潜んでいるだけだが―――― 『命令』が破られた時には女を死にいたらしめる」
「はぁ!?」
「君への『命令』はそうだな……『この部屋で知ったことを誰にも教えない』と『今後私の質問には正直に答える』にしようか」
「待っ……」
「陛下、二つは入りませぬ。どちらに致しましょう」
「じゃあ仕方ない。『誰にも教えるな』と入れておけ」
「かしこまりました」
彼女自身の意志を置き去りに進められる会話。雫は大声で何もかもを罵倒したい衝動に駆られる。
だが怒鳴り声を上げようと口を開きかけた時、その力は彼女の体内に「入って」きたのだ。

「っあああああああああぁぁあっっ!!」
腹の中が灼ける。
それはどろりと体内を蠢き、彼女の内臓に激痛をもたらした。
拘束を解かれた雫は体を折って倒れこむ。腹を抱えて悲鳴を上げる彼女を、ジレドはにやにやと笑って見下ろした。
「陛下、この娘は生娘のようですが」
「おや、そうだったのか。てっきりファルサス王の手がついていると思ったが……運が悪かったね、雫」
何を言われているのか分からない。あまりの痛みに考えられない。
雫は床に這いつくばりながら小さくなって嗚咽をもらしていた。
「この術は後宮の女の為のものだからね。純潔の女とは相性が悪い。
 術が馴染めば少しはましになるが……それでも断続的にやってくる激痛の波に苛まれることになる」
ベエルハースの言葉を裏付けるように痛みが僅かに引いていく。それは雫に思考の余地を取り戻させたが、痛みは完全に消え去るわけではなかった。
内側から焼けた針で刺されるような疼痛が、枷の如く彼女にまとわりついてくる。
雫は上体を少しだけ起こし、けれどまた鋭い痛みが走って声もなく喘いだ。魔法士か文官か、どちらかの男の忍び笑いが聞こえる。
涙が滲んで前が見えない。全てを捨てて逃げ出したい。
だが、その笑い声を聞いて―――― 雫は自分が腹を立てていることを思い出したのだ。
彼女は拳を固く握りこんで王を見仰ぐ。
ベエルハースは憐れみさえ帯びて雫を見ていた。穏やかな微笑みを薄い唇に浮かべる。
「さて雫……どうするかい? オルティアに話して死ぬか、何処かへ逃げ出すか。
 それとも痛いのが嫌なだけなら、ここで私のものになるかい?」
優しい優しい声。伸ばされた手。
それに対する答など既に決まっている。考えるまでもない。
雫は全ての痛みを飲み込む。
涙で濡れた目で、血が滲む唇で、王に向って可憐に笑いかけると
「死んでも御免です」
と、躊躇なく吐き捨てたのだった。