鉄鎖の鳥籠 116

禁転載

屈することを拒絶した雫に、ベエルハースは楽しげに「なら帰るといい」とだけ命じた。
魔法により言論を封じた時点で、彼女のやれることなどたかが知れていると思ったのだろう。
それは腹立たしい余裕ではあったが、今はどうすることも出来ない。
雫は苦痛と屈辱と怒りを抱えたまま王の部屋を出ると、ままならない体を引き摺って自室へと向った。
気を抜けば指先が震えだしそうな程、体が痛みを恐れている。
腹の中でゆっくりと蠢く何かがいつまた暴れだすのか、やって来るであろう波が怖くて仕方なかった。
今はただ、ベッドに入って丸くなりたい。
眠れなくとも何処かに落ち着き休みたいのだ。
だが、彼女のささやかなる願いを無視するように後方から足音が近づいてくる。
壁に手をつきながら歩いている雫には到底振りきれない速度で駆け寄ってきた男は、先程彼女に術を掛けた魔法士本人だった。
ジレドは額に脂汗を浮かべた雫をじろじろと遠慮のない視線で眺める。
「相当苦しいようだな、娘」
「何? 土下座以外の用件なら聞きたくないんだけど」
「楽にしてやろうか」
辛辣な返答を完全に無視しての誘いに、雫は苦痛だけの為ではなく顔を顰めた。
普通ならこう言われた時は死を意味するのが大半だろうが、好色さが隠せない男の視線から言ってそうではないだろう。
第一ベエルハースは彼女を「殺すな」と指示したのだ。雫は一瞬激しくなった痛みを息を止めて乗り切ると、軽蔑の視線を返した。
「要らない……触るな」
「ふん。強がりもほどほどにしろ。そのままでは普通に生活することも困難だろう」
ジレドは言うなり壁についていた雫の手を掴む。そのまま強く腕を引かれて、彼女は男の腕の中に転がり込んだ。耳元にかかる息に瞬間で鳥肌が立つ。
「放せ……!」
「従順になればすぐに痛みは引くぞ?」
嬲る言葉に雫は歯噛みした。左足を思い切り引いて男の脛を蹴りつける。
直接的な反撃を予測していなかったのか、ジレドは苦痛の悲鳴を上げてよろめいた。無様な姿に多少の溜飲が下りた雫は嘲笑を浮かべる。
「反省すれば? 変態」
「この小娘!」
「何をしている」
怒りに顔を赤くしながら雫に掴みかかろうとした男は、その声に動きを止めた。
見ると闇に覆われた廊下の奥に、若い男が一人立っている。指先に明かりを灯して二人を見やるその男は、雫とジレドのどちらとも面識がある人間だった。
闇の中から歩み出たニケは明らかに揉みあっていたと思しき二人に冷ややかな目を向ける。
「なにやら侵入者があってこの女が証言に連れて行かれたというから、姫に確認を命じられたが……面白いことをしているな。
 ジレド殿、その女が姫の所有物だと知っての行いか?」
淡々とした指摘にジレドは雫から一歩離れた。代わりに二十歳以上は年下の魔法士を睨みつける。
「……犬め、大きな口を叩きおって……」
「口ではなく実力で思い知らせて欲しいというのなら考えなくもない」
平静さを崩さないニケの挑発に、ジレドは憎憎しげに口を何度か開閉させたが、結局は「今に後悔するぞ」と月並みな台詞を吐いて立ち去った。
生理的嫌悪を呼び起こす視線から逃れられた雫は、ジレドの姿が見えなくなると腹を抱えて床に座り込む。
「助かった……ありがと……」
「何やらかしたんだ、お前。夜中に姫に呼びつけられて眠い」
「ごめん、けど、おなか……いたい」
「拾い食いでもしたのか?」
ニケは悪くない。何も知らない上、窮地を助けてくれたのだからそれは認めるべきだ。
だがそう思いながらも雫はこの時、彼を心底「殴りたい」と思ったのだった。

ニケはオルティアから事態を確認した後、雫を部屋に連れてくるよう命じられたらしい。
「さっさと来い」と彼女の腕を引いたが、雫が「姫の部屋までは歩けない」と洩らすと渋々その場からオルティアの部屋前まで転移門を開いてくれた。
入室した雫は寝台に胡坐をかく姫の前に跪いて、痛みを表情に出さないよう気力を振り絞りながら、侵入者についてベエルハースにしたのと同じ報告を呈する。
「暗殺……ティゴールか? また随分と思い切ったことをしたものだ。どうせなら妾のところに来させればよいものを」
何も知らないオルティアの不敵な態度に雫は表情を曇らせたが、ただ沈黙を保つ。
犯人が真実ティゴールであるのなら、殺したいのはベエルハースでしかない。かつての共犯者で、全ての原因となった男。
今は酷薄な政務者となったオルティアに刺客を放つことは彼には出来なかったのだろう。たとえそれが実を得ない足掻きに終わろうとも。
「それにしてもついに戦か。あちらから来てくれるというなら申し分ない。丁重に迎えてやらねばな」
「姫」
「何だ? 雫」
術の制約がある。迂闊なことは言えない。
だが、裏のことを知っている以上、発言に気をつければ事態の向う方向を変えることは出来るはずだ。
雫は体内を蠢く熱に怯えながらファルサスとの停戦を勧めようと口を開きかける。
けれど言葉が滑り出す直前、堪えきれない激痛が下腹を突いた。
「っああ……っ!」
痛みの波に襲われ倒れこんだ彼女を、オルティアとニケは唖然として見つめる。
それまで気だるげに座っていた姫は、起き上がると寝台の下を覗き込んだ。
「どうした、雫」
「ひ、め……」
「怪我をしているのか? 何故黙っていた」
痛みの理由を答えることは出来ない。雫は涙の薄い膜越しにオルティアを見上げた。
姫は美しい顔立ちに困惑と苛立ちと、少しの心配を入り混ぜている。初めて見るそんな表情はオルティアを幼い子供のように見せていた。
―――― 誰が悪いのかとはもう、言えないのかもしれない。
オルティアも既に加害者だ。彼女の掌には取り戻せない多くの悲劇が乗せられている。
それをなかったことにすることは出来ぬし、元に戻すことも完全には出来ないだろう。
けれどそれでも、憐れだと思う。思ってしまう。
本当ならば彼女はもっと、別の人生を歩んでいたのではないかと。
この国はとてもいびつで、腹立たしく、そして悲しい。
誰もが拠り所を持っていないのだ。一人でここに来てしまった彼女自身がそうであるように。
体の中が気持ち悪い。とても、痛い。
だがそれ以上に苦しくて…………雫は黙って涙を零した。

部下の突然の変調にオルティアは表情を険しくする。それは、廊下で彼女の異常に出くわしたニケも同様だった。
姫は寝台の下に足を下ろすと雫の顔を覗き込む。苛立たしげに上から問うた。
「雫? どうした。泣いていないで話せ。怪我は何処だ」
「怪我は……ない、です。姫、それより……」
「ないわけがあるか。腹を見せてみよ」
伸ばされた手を雫は止めようとしたが、背後から来たニケが雫の肩を掴んで留めた。
その間にオルティアは襟元から雫の肌を覗き込む。
伝わってきたのは絶句の気配。
次の瞬間オルティアは、くるぶしまでの夜着の裾に手をかけ、それを乱暴にたくしあげていた。
顕になった白い腹部、そこには胸のすぐ下から下腹部に届く程までに青い複雑な円を中心とした紋様が刻み込まれている。
傷などではない明らかに魔法の形跡に姫は呆然とそれを見下ろした。
「……何だこれは」
「姫……平気、ですから」
「何だと聞いておるのだ! ニケ!」
鋭い声に、礼儀として顔を背けていた男は雫の体を見下ろした。
やはり愕然とする気配が背後から伝わってきて、雫は苦々しい思いを味わう。
「これは……トラスフィ……か?」
「馬鹿な。雫は後宮の女ではないぞ……」
魔法士であるニケと王族であるオルティアはどちらもその術の存在を知っているのだろう。
雫は力なくかぶりを振って驚愕の最中にある二人から逃れると、また床の上に縮こまった。目を閉じて上がってしまった息を整える。
まるで陣痛に耐えるようにしばらくそうしていると、やがて痛みは薄らいだ。ほっとして顔を上げるとオルティアと目が合う。
「―――― 誰にやられた。……兄上か?」
後宮の女にしかかけられない術。その使用許可が出せる人間は国に一人しかいない。
問うまでもない答にオルティアの顔は見る見る赤く染まっていった。音が聞こえてくる程に歯噛みして姫は立ち上がる。
「どういうつもりか聞いてくる。少し待て」
「駄目です……姫」
目の前を過ぎようとする衣の裾を、雫はかろうじて掴んだ。
オルティアを、ベエルハースに会わせたくない。
雫に対してこれ程までに直接的な手段に出てきた王だ。
ジレドの不吉な言葉から考えても、ベエルハースは最早オルティアを「用済み」と見ている可能性が高い。
行けば何をされるか分からないのだ。行った先で彼女が殺されたとしても「オルティアの気が狂った」と言えば日頃の印象から皆は納得する。
むしろ雫は、ベエルハースからオルティアに送られた絶縁状のような存在なのだろう。
そしてだからこそ、彼女は姫をここで行かせたくはないのだ。