鉄鎖の鳥籠 117

禁転載

衣を掴まれたオルティアは溢れ出す怒気と共に雫を見下ろした。強い感情に声がわななく。
「放せ、雫」
「駄目です。私のことは、見なかったことに……」
「お前は妾のものだ! お前に傷をつけられるということは妾が傷つけられたも同じだ! 兄上であっても許せぬ!」
「違います……これをかけられたのは私で、姫じゃありません」
弱弱しい声。だが、言葉自体は明瞭で、きっぱりとしたものだった。オルティアは水のような雫の声に少しの冷静さを取り戻す。
確かに暗殺者の侵入から何がどうなって、雫に拘束用の術がかけられたのか分からないのだ。
兄に抗議をするにしてもまずそれを確かめてからでなくてはならない。
姫は雫の手の中から衣を引くと、寝台に戻って乱暴に腰掛けた。怒気に落ち着かない目で雫を見下ろす。
「何があった」
「申し上げられません」
「雫!」
「言えないように、なっているのです」
遠回しなその言葉にオルティアはすぐにそれが雫にかけられた術と関係あるのだと気づいた。側近の魔法士に視線を移す。
「トラスフィにあのような痕が浮き出る効果などあったか? 何故痛みがあるのだ」
問われた男は理由を知っているらしい。言いたくなさそうな視線を雫に向けたが、雫自身自分で説明するのも男に説明されるのも嫌だった。
一瞬妙な間が空き、だがオルティアの機嫌を損ねるわけにはいかないということでニケが説明を引き受ける。
「おそらく彼女が純潔だからです。本来魂に馴染んで潜むはずの術が反発して浮き上がり、痛みをもたらしているのでしょう」
「犯されたのではないということは……緘口を刻まれでもしたのか? ニケ、お前はこの術を解けるか?」
「不可能です。もともと解法のない術ですから。ファルサス王妹であれば解けるかも分かりませんが」
「純潔でなくなれば痛みはなくなるのか?」
「消えるのは痛みと痕だけですが。命令に逆らえば死ぬのは同じです」
現状を確認していく二人の会話を頭上に聞きながら、雫は思考を整理する。
今やらなければならないのは何か、これからどうすればいいのか。
だが、至近のことはいくつか思いつくものの疲労と痛みのせいか一向に考えがその先まで広がっていかない。
それでも朦朧とする頭を振って意識を保とうとする雫の耳に、主君の苦々しい声が聞こえる。
「ならばニケ。妾が許可する。雫を犯せ」
「あ、阿呆か!」
余りに予想外な命令に、つい雫は素直な叫びを上げてしまった。
オルティアはオルティアで色々考えてくれているつもりかもしれないが、まったく方向性が間違っている。
振り返るとさすがにニケも見たことがない微妙な表情で言葉を失っていた。返事をしない部下へ叱責が飛ぶ。
「出来ぬのか、腑抜け! ならばファニートを呼ぶ!」
「ちょっと待ってください!」
雫は痛みを理不尽さへの怒りで振り切ると、両手を床について立ち上がる。反論されて憤慨しかけるオルティアに向き直った。
「何故嫌がる! 普通にしていられぬ程痛いのであろう! それくらいのことは我慢しろ!」
「痛いのは私です! 私の意志を尊重なさってください!」
「危急時くらい妾に意志を譲れ!」
雫の頬を打とうとした手を、彼女は逆に掴み取る。
そのまま揉みあいになる二人をニケはしばらく感情を隠した目で見ていたが、子供の喧嘩にしか見えない応酬がいつまで経っても終わらないと悟ると割って入った。
オルティアは手を振り上げ、雫とニケの両方を怒鳴りつけようとする。
だがその怒声は雫が再び床に崩れ落ちたことで姫の唇につかえることとなった。
苦痛に押し殺した呻きを上げる臣下を、オルティアは何処か傷ついた目で見下ろす。
「……お前を見ていると腹立たしい。何故、これ程までに意地を張るのだ」
何だかあの少年にも似たようなことを言われた。雫はひどく遠く思える時間を思い出して苦笑する。
一晩に二人から率直な否定の言葉をもらうのだから、自分の頑固は相当な域まできているのだろう。
彼女は、気勢が削がれ沈んでしまったように聞こえるオルティアの声を、心中で反芻した。
「お前はいつもそうだ。何故譲れない? 折れた振りでもすればいい。頑固を通して死んだら何も残らぬではないか」
死ぬことに何の意味があるのか、と思ってしまったばかりだ。
意志を通して命を捨てることでどうなるのかと。
それよりは嘘をついてでも、敵に従ってでも生き延びて、別の道を探した方がいいのではないか。
命を惜しむことで続く可能性に賭ければいいのではないか。
―――― そう出来ていた時もあった。出来る時も、ある。ただ、譲りたくない時があるだけで――――

「姫」
痛みが収まる。雫は息をついてオルティアを見上げた。彼女は憮然とした表情をしており、そのせいか幼くも見える。
―――― もし別の時、別の世界で出会っていたなら友人になれただろうか。
雫は刹那、ありえない空想を抱いてほろ苦く微笑した。オルティアはそれを見て眉をつり上げる。
「何だ、雫。言い訳か?」
「言い訳です。姫、私だっていつも命を賭けてるわけじゃありません。死にたくないですから。
 でも時々……来てしまうんです。ここで逃げたら、きっともう取り返しがつかないだろうって時が」
「馬鹿か。どの道死んだら取り返しはつかぬぞ」
「そうなんですけど。でも逃げても取り返しがつかない、なくしてしまって、きっと一生それを後悔するだろうって……そういう時があるんです」
いつでも死のうとしている訳ではない。そこまで厭世的ではまったくない。
ただ時折、避けられない選択が「来る」。
そこで譲ってしまったら自分の精神そのものが変質してしまうような、そんな決断を目の前に呈されることが。
所詮、自分は無力な人間だ。
あるかないか分からない可能性に賭けて逃げ出したとしても、その可能性を得られるのか分からない。
たとえ得られたとしても、失ったものを取り戻せるかは分からないのだ。
そして、取り戻せても、きっとそれはもう失う前と同じものではないのだろう。
だから退かない。
人の本質は精神に在り、その尊厳は容易く踏みにじられるものではないと示す為に。
「だから姫、それに比べたら今のことくらい大したことありません。痛いだけで死ぬわけじゃないですから」
青白い顔で笑ってみせる雫に、オルティアは何も言わない。
真夜中の部屋にはそうして、誰のものともつかぬ溜息だけが零れ落ちていったのだった。






扉を叩く。
前にこうした時は二、三度で返事があったが、今は何度叩いても反応がない。
時間が時間だからという可能性もあるが、それはこの際さほど問題ではないだろう。
男は少し考えると扉の向こう、室内を対象座標として魔法で短距離転移を行った。中に入ると部屋の隅にある寝台を見やる。
かすかに聞こえてくるのは女のすすり泣く声。
彼が来たことに気づいていないのか、眠っているのか、寝台の中にいる女は起き上がる気配もなかった。
音をさせないよう近づくと、泣き声に混じって女の呟きが聞こえる。
「……お姉ちゃん……ミオ……いたいよ…………」
掛布からはみ出た黒髪が震えている。中で胎児のように縮こまっているのだろう。
男は泣き声に顔を顰めると寝台に腰掛けた。半ば伏せられた寝顔を覗き込む。
造作だけは幼く見える彼女は、けれど起きている時は常にある程度気を張った、可愛げのない表情をしている。
だが今は苦痛に眉を寄せながら、まるで頼りない顔で浅い眠りを彷徨っているようだった。小さな唇が嗚咽と共にわななく。
「エリク、たすけて……」
この場にはいない男。その名を呼ばれて彼は途端に不機嫌になった。
じっと彼女を見つめていた顔を離すと、その耳を強く引っ張る。
「起きろ、馬鹿女」
「……っいたたた!」
本当に転寝のような危うい眠りだったのだろう。女は飛び起きて彼に気づくと、目を丸くした。
「あれ……ニケ? 何で部屋の中にいるの?」
突然の侵入者に用心するわけでもなくただ聞いてくるだけの女。
その疑問に男は「お前が起きないからだ」と答えると小さく舌打ちした。



「魔法士ってずるくない? こんなのがいたら密室事件が成り立たないと思うんだけど」
「密室って何だ。物が詰まってるのか?」
痛みでまったく眠れないと思っていたが、いつの間にか少し眠りに落ちていたらしい。
そこを同僚に起こされた雫は下ろしていた髪を一つにまとめなおした。ぼんやりと熱を帯びた頭を振る。
腹が痛いと言っても、それを上回る疲労が溜まっているのだ。雫は腹部に片手をあてたまま欠伸を噛み殺した。
「大体転移が出来る魔法士はそう多くない。この城に所属してる奴らの中でも二割くらいが出来るだけだ」
「じゃああっという間に容疑者が絞り込めるね。ところで何の用?」
王の指示で術を埋め込まれ、オルティアの癇癪を受けた雫は、その主君に「これ以上話があるなら明日聞く」と言って追い返されてしまったのだ。
時刻はその時既に真夜中であったから、姫が眠くなったのかもしれないし、雫の体調を気遣ってくれたのかもしれない。
だがどちらにせよ体力が限界であることは事実だったので、彼女は部屋に戻って寝台に上がった。つい四時間程前に。
それをわざわざ訪ねてくるとは何かあったのだろうか。雫は朦朧とする頭を押さえたまま隣に座る男を見やった。
「痛いか」
「痛い。非常に痛いよ。多分今日ほど女に生まれたことを後悔した日はないと思う」
「男だったら殺されてたかもしれんな」
ニケもオルティアも、雫と王の間に何かがあったのだということは分かっている。その原因が王の方にあるのではないかということも。
これは妹の部下である女にするような仕打ちではない。凡庸で、だが穏やかな人間だったベエルハースと今の雫の現状は簡単には結びつかないものなのだ。
にもかかわらず王ではなく雫の方を二人は信用してくれたようなのである。これは今まで苦労した甲斐があると、少し喜んでもいいところなのだろうか。
雫は物騒な仮定を返す男をねめつけた。
「で。痛いかどうかを聞きにきたの?」
「いや。抱いてやろうか」
「絶対やだ」
「………………」
間をおかず返答すると、ニケは笑える程苦い顔になる。思わず雫は指を差して笑いたくなったが、さすがに失礼だ。それをしては怒られることも確実だろう。
彼女は二、三度深呼吸して小さい痛みの波を乗り越えると真面目に返した。
「あんたが変なところで優しいのは知ってるけどさ。これに関しては気遣い無用。大丈夫だよ」
「阿呆はお前だ。満足に歩くこともできない癖に。すぐジレドに捕まるぞ」
「うわぁ……」
確かにオルティアの部屋から出た後も、雫は自力で部屋までは戻れず転移を使ってニケに送ってもらったのだ。
同じ城内ということで魔力の無駄使いに思えて申し訳なかったのだが、彼にとっては雫を抱え上げるより魔法を使う方が楽らしい。
王の側近であるジレドの粘着質な視線を思い出して、彼女は思い切り憂鬱な気分になった。
「い、いやでも、いいです。負けた気がして悔しい」
「そういう問題なのか? お前は痛いとか怖いとかないのか」
「あるよ。暴力が怖くて人のいいなりになったこともある」
「なら何でだ。俺が不満か」
あんまりにも不機嫌そうに言われたので、雫はすぐには意味が分からなかった。一拍置いて、理解を得ると彼女は笑いだす。
腹を抱えているのは先程までと一緒なのだが、声を出して笑っているのでは意味が大分異なる。
白い眼で見やるニケに雫は笑いを収めると「ごめん」と謝った。
「いや、確かにあんたはそういう対象じゃないけど、そうじゃなくてさ。
 誰が相手でも痛みに屈したとは思われたくない。それくらいには怒ってる」
「……馬鹿だな」
「煩いよ」
「口開けろ」
何だか分からないが言われたので雫は口を開けてみる。虫歯の検査でもするのだろうかと思った時、口内に指を捻じ込まれた。
奥まで入れられた異物にえづきそうになった時、だがニケはすっと指を引き抜く。雫は喉を押さえ目を瞠った。
「何か飲ませた?」
「魔法薬だ」
男は彼女の手に小さな瓶を乗せてくる。そこにはビー球より一回り小さいくらいの白い粒が詰まっていた。
「痛みを感じにくくする。効果はきっちり三時間。ただ、切れそうだからといって重ねて飲むな。痛覚以外の感覚にまで影響が出る。
 あと腹の痛みに限らないからな。その薬を飲んでいて痛いと感じたら実際は激痛だ。怪我などに注意しろ」
「あ、ありがとう……これどうしたの?」
「作ってきた。なくなりそうになったら言え」
ニケは言い捨てると立ち上がる。帰るつもりなのだろう、今度は扉に向う男に雫は苦笑した。
「ごめん。面倒かけて」
作ってきたということは、別れてから今までの四時間でやってくれたことなのだろう。
すっかり自分の意地につき合わせてしまった。雫は感謝を込めて頭を下げる。
「精々恩に着て足を引っ張るなよ、馬鹿女」
「了解了解。頑張る」
「あと俺は別に優しくない」
捨て台詞か違うのか判断に迷う言葉を残してニケは去っていった。
一人になった雫は立ち上がり、体の調子を確かめる。
何だか少し感覚がぼやけているような気がする。魔法で麻酔をかけているのと同じだろうか。
腹の痛みも完全に消えたわけではないが、これくらいの鈍痛なら性別的にかろうじて我慢出来る程度だ。
彼女は何度か屈伸運動をして支障がないことを確認すると頷く。
「よし……。見てろよ、あの鬼畜」
言葉を封じて無力化したと思ったら大きな間違いだ。これ以上あの男の掌上では動かない。
駒を操るように人を狂わせて愉悦に浸ろうとも、手の届くところには必ず限界がある。
徒に人の意志を歪める人間は、それが度を越した行いであったと、いずれ身に染みて思い知ればいいのだ。
籠の中にいる鳥全てが、従属し敗北を受け入れているとは限らないのだから。