優しい指 118

禁転載

辺りの風景が薄明るさの中に照らし出される。
まだ上りきっていない日の、しかし淡い光が森や草原を照らし、朝の訪れを生き物全てに予感させていった。
静謐な空気。鳥の囀り。何億と繰り返された変わらぬ時。
だが、それら何の変哲もない要素で構成された世界に、突如異変が現れる。
キスク南西部ロスタ領。その国境付近の草原に何の前触れもなく三万の軍勢が出現したのだ。
他の追随を許さない魔法技術を以って、隣国領地への的確な転移を為した軍は朝日と共に迅速に動き始める。
全ての発端たるカリパラの街、そのすぐ北を通り、より北東に位置する辺境城砦を目指して。

「街へは軽く威圧しておくだけでいい。萎縮させてしまえばアズリアが行った時に統制が楽だろうからな。
 それより砦だ。落とす必要はないから少し叩いて黙らせておく」
今回の進軍行路を決定したラルスは、会議において将たちにそう告げて、ワイスズの砦を示した。
城都から続く街道沿いにあるこの砦は、キスクの国軍が駐留する南西の要所であり、ファルサスが動いた時に真っ先に対抗する戦力でもある。
―――― 暴徒や小悪党しかいないカリパラの街に大軍は必要ない。むしろ制裁を加えたいのは国や城そのものに対してだ。
大国同士の戦の先駆けにしては少数の軍勢を動かしての幕開けは、こうしてファルサス王の気まぐれのような決定により、事態の焦点と思われていたカリパラを通り越してワイスズ城砦への威嚇という形で始まった。
ファルサス侵攻の連絡を受けて砦を預かる将軍ドルファは若干の焦りを表情に滲ませる。
「転移で来るとは思ったが街を無視したか……。防御構成は間に合いそうか?」
「あと五時間はかかります。その間にファルサス軍が到達してしまうかと……」
「ならば時間を稼ごう。一戦して持たせる間に構成を引け」
ドルファは短く決断すると、出軍を指示した。
あらかじめ準備がなされていたこの対応はけれど、表向きにはあくまで「ファルサス侵攻を知ってから対策した」ということにしなければならない。
ワイスズ砦は王の命令で「こちらから周到に待ち構えて戦闘を呼び起こしたのではない」という意思をファルサスに示さねばならないのだ。
これがどういう意味を持っているのか明言されはしなかったが、要は腰をすえて魔法大国と戦争をする気はないということなのだろう。
かと言って手を抜いてやりあえる相手でもない。ドルファは砦周辺の地図を前に自軍四万の布陣を決定すると自身も鎧を着込み剣を取った。
「ファルサスの軍もたった三万だ。防御に徹すれば砦を越えロスタを出るまではしないだろう」
怖じ気ずく兵たちの背をそんな言葉で叩きながらドルファは自らが先陣に立つ。
中央部を街道が貫く丘陵地帯。その丘に隠れるようにしてキスク軍が布陣を完了したのは、ファルサスが到着するほんの三十分前のことだった。

穏やかな風が前方から吹いてくる。その風に髪をくすぐられながらラルスは偵察からの報告を受けていた。
目の前に伸びる街道を行けばやがてワイスズの砦へと到達することは知っている。だが、どうやらその前で足止めをくらいそうだった。
青々とした草が茂る丘を見上げて王は暢気な声を上げる。
「さて、どうするか。キスク軍を飛び越えて城砦前まで転移するか? トゥルース」
「簡単に仰らないでください。さすがにそこまで他国の領土内ですと大規模転移門の座標が取れません。
 砦周辺でしたら無許可転移禁止の処置が施されている可能性もございますし」
「まぁ前後から挟撃されても面倒だ。正面を突破していくか」
街道自体は丘を切り分けて敷かれたのだろう、緩やかに弧を描きながらも平らな土地を前方へと伸びている。
だが広い街道の左右は大きな丘が連なり、奥に待ち構えているのであろうキスク軍の姿をその向こうに上手く覆い隠していた。
ラルスは少し考えると、大きく二つある丘のうち、西側の丘の上を進軍していくよう命じる。その通り動き始める自軍を見やって彼は人の悪い笑みを浮かべた。
「さて……軽く遊んでやろう。久々の戦だ」
風に揺れる草々を馬蹄が次々に踏みにじっていく。張り詰めた空気に、鳥の囀りはもはや聞こえない。
鉄の鳴る音、詠唱のさざめき、そんなものだけが丘陵に広がって行き―――― やがて日の出からしばらく、最初の戦闘が開始されたのだった。

丘の上に姿を現したファルサス軍を、布陣していたキスク軍はまず弓で狙い打った。
高低差はあるとは言え風の利はキスクにある。
先制に不利な状況ではないとドルファは判断したのだが、半ば予想していた通りそれらの攻撃の大半は魔法によって防がれた。
彼はたくわえた髭を撫でつけながら、自軍にも魔法防壁の展開を指示する。
「しかし魔法士を最前線に出すとは、ファルサスは何を考えているのだ」
丘に布陣を始めるファルサスの前線、その半数以上はどうやら魔法士で構成されているようなのだ。
鎧を纏わず結界によって防御を行う魔法士たちは、遠目でも服装で見分けがつく。
だが本来彼らは最前線ではなく、その少し後ろに置かれて防御や治癒を司ることが多いのだ。
そこをあえて先陣に立たせているのは、魔法の火力を重用しようという狙いなのだろうか。
ファルサスから自軍に向かい降り注ぎ始める火の雨をドルファは顰め面で睨んだ。近くにいた部下の一人イサル将軍に現況を報告させる。
「どうだ? 防げそうか?」
「この程度であれば問題ありません。魔法大国と言ってもさほどではないようで」
まだ若い部下の面には過剰な自信が見て取れたが、弱気になられるよりは余程いい。ドルファはイサルに迎撃を命じて自分は後方へと下がった。
砦に連絡を取ると、防御構成はあと三時間程で完成するという。それを聞いて彼は安堵の表情になった。
「よし……何とか切り抜けられればいいが」
慎重な性格を持つドルファは、ファルサス軍を打ち破って勇名を得たいとまでは思っていない。
ただ王の命令通りワイスズ要塞で敵の進軍を留め、むしろその意識をカリパラの街へと向けさせればいいと考えていた。
ファルサスがキスクに進軍して来たのもカソラの民の嘆願によるところが大きいのだろう。
ならばカソラの民のほとんどが住むカリパラを明け渡してしまえばいい。どの道あの街に生粋のキスク人はほとんど住んでいないのだ。
城砦が落とせないと分かればファルサスは来た方へと引き返していく。
ベエルハースから持たせるよう指示された期間は「二週間」。それは決して長すぎる時間ではないと、彼は思っていた。






「イサルは何をしている!」
怒声を上げたドルファは前方の丘を憎憎しげに見やったが、その声は肝心の人物までは届かない。
指揮を任せたイサルは、徐々に後方へと下がり始めたファルサスの魔法士を追って、自ら馬を駆りキスクの前線を突出させていた。
慌てふためきながら馬首を翻す魔法士たちに向けて、彼は自軍から魔法攻撃を放たせる。
だがそれは結界に相殺され思うような効果を得られなかった。にもかかわらず後退していくファルサスをキスクは勢いのままに追っていく。
強い引力が発生しているかのように飛び出たキスク軍の先端は、やがて敵を求めて丘を反対側へと下り始めた。
戦功に目が眩み、丘の向こうへと見えなくなった自軍を引き戻そうとドルファは声を張り上げる。
「魔法士に連絡をさせろ! 前線を戻すよう命じるのだ!」
その命令は、しかし必要のないものだった。
ドルファが部下を罵る言葉を吐いた時、イサルもまた意表を突く光景に進軍を止めていたのだ。
丘の向こう側に布陣していると思っていたファルサス軍。
騎兵を中心としたその本隊は、だがいつの間にか街道とは反対側の方角を選び、丘を迂回している最中であった。
その上でラルスはキスク軍の注意を引き付ける為、魔法士を前線に出し後退を偽装させたのである。
現在は魔法大国の印象が強いファルサスは、けれど長い歴史のほとんどにおいて武力の国であった。
しかし魔法士の火力を主軸に据えるかのような布陣にイサルはファルサスの武を忘れ、魔法士を捻じ伏せることが出来ればすなわち勝利だと短絡的に考えてしまったのである。
魔法士は距離を置いた攻撃や防御には強いが、白兵戦には弱い。
それを狙って逃げていく魔法士たちへの距離を詰めようと飛びついたキスクは、結果としてファルサス軍の望むままに陣形を乱してしまったのだ。

丘を回りこんでキスク本営の側面を突こうとしているファルサス軍を見て、イサルはドルファにそのことを伝えようと伝令の魔法士を振り返った。
しかし口を開きかけた彼は、次の瞬間乗っていた馬ごと燃え上がる。獣じみた絶叫が炎の中から上がった。
指揮官らしき男を狙って強力な炎の矢を放った壮年の男―――― 魔法士長であるトゥルースは、その成果を確認して軽く息を吐く。
「よし。反転、攻撃。焼き払え」
簡単な命令に、後退していた魔法士たちは足を止め、詠唱を始めた。
その間を縫うようにして槍騎兵が前に出る。
突如燃え尽きた指揮官に唖然としていたキスク軍は、猛然と丘を駆け上がってくる騎兵たちを見て、瞬間制御しがたい戦慄に囚われたのである。

キスク軍の右翼近くにある森の中、簡単な結界を周辺に巡らせて偵察を行っていたキスクの魔法士は、その時自分が担当する区域に何かが侵入したことに気づいて眉を上げた。意識を研ぎ澄ましながら結界の上に探知用の魔力を滑らす。
魔法の伝達によって流れてくる戦況は、丘の頂上を中心としていささか混戦の様相を呈しているようだ。
現在はキスクも何とか持ちこたえているようだが、もしそれが囮でファルサスが別働を動かしているのなら、早々に布陣を変えねばならない。彼は本営に異常を伝えようと伝達構成を組みかけた。
しかしその構成が完成する直前、視界の隅に何かが飛び込んでくる。
大きな黒い影―――― とだけ認識した一瞬後、彼の首は胴体から切り離されていた。鮮血が遅れて草の上に飛び散る。
馬を自分の手足のように駆りながら、剣の一振りにて魔法士の命を奪った男は戦場に似合わぬ優しげな微笑を見せた。驚愕の目を見開いたままの首を見下ろす。
「魔法にばっかり頼ってないで、自分の目で見ないと駄目だぞ? 一つ学んだな」
鏡のように磨かれた長剣を携えたファルサス国王は再び手綱を引く。そこに王の結界と伝達を担当するハーヴがようやく追いついてきた。
「陛下! お一人でどんどん行かれないでください! 私がレウティシア様に怒られます!」
「気にするな。怒られとくといいぞ。俺の分まで」
「監視を殺すなら弓兵か魔法士にご命令ください!」
「俺でもたまには動きたい。折角執務をレティに押し付けてきたのに」
今からでも交代なさってください、とは言えずにハーヴは押し黙る。
結局言いたいことはほとんど言えずに―――― 彼はラルスの命令で、キスク本営への攻撃開始を本軍に伝えたのだった。






一歩歩くごとに腹の中が疼く気がする。
それは半分以上気のせいだとは思うのだが、忘れてしまうにはあの激痛は彼女の記憶にあまりにも強烈な印象を残していた。
雫は先程着替える時に鏡の中に映った自分の体を思い出す。
「あれじゃさすがに嫁に行けないっていうか……治らなきゃ帰ることもできないんじゃ」
少なくとも魔法薬に頼って痛みを抑えている現状では、魔法のない世界でどうやって激痛をまぎらわせればいいのか分からない。
もっとも体に変な痕があっても構わないという配偶者なり恋人なりを見つけられれば、それで解決する問題なのではあるが、今のところさっぱり心当たりは存在しなかった。雫は溜息混じりにオルティアの部屋の前に立つ。
そこには既にファニートがいて、気のせいか気遣うような視線を彼女に投げかけてきた。
「大丈夫か」
「あれ、姫に聞いたの?」
「ああ」
「平気だよ。それよりいくつか頼まれて欲しいことがあるんだけど」
「何だ?」
雫は頭の中にまとめてあったことを要点だててファニートに依頼する。
彼は最初怪訝な顔をしたもののすぐに彼女の意図を察してくれたようで、「やっておく」と微塵の笑顔も見せず頷いた。
これで後はニケと、そしてオルティアだろう。
雫は扉を前に深く息を吸う。隣に佇むファニートが平坦な声で補足した。
「ファルサスが侵攻を開始した。ドルファ将軍が迎え打ったが、一蹴されて砦に逃げ込んだらしい」
「……そっか。あんまり時間なさそうだね」
半ば分かっていたことだが、現実として突きつけられると緊張はやむをえない。雫は強張った笑顔を見せた。
だが、逃げ出すという選択肢はもはや彼女にはないのだ。
どれ程困難な位置に在るのだとしても、ここから何とかしてやると決めてしまったのだから。
雫は姿勢を正し、開けられた扉の奥へと踏み出す。
その横顔は異質なほど落ち着いて、まるで何年も姫に仕えてきた人間のようにファニートの目には映ったのだった。