優しい指 119

禁転載

家族を信頼できない、とはどういう気持ちなのだろう。
それは雫には分からない、分かることの出来ない心情だ。
オルティアは知らぬ内に兄に裏切られ、それ以来家族を失った。
その後の彼女がどんな煩悶を経て今に至ったのか。想像し同情してもそれは姫の気分を損なうだけだろう。
そしてきっと、同情に値するのはオルティアに踏みにじられた多くの人間たちもまたそうなのだ。
だが既に事態はここまで来てしまった。
ベエルハースの、オルティアの行く末はまもなく決定し、国そのものが動き出すだろう。
転換点をすぐそこに控えた今の状況のきわどさを雫は知っている。
だから、多くは求めない。
彼女が望むのはただ、「こんなことはいい加減終わりにするべき」というたったそれだけのことなのだ。



「お前が言いたいのはそれだけか?」
「はい。猶予はもうほとんどありません。今すぐこれらのことを実行なさって下さい」
動じることなく返した雫をオルティアは睨みつける。
だが、雫自身は眉一つ動かさず主君からの視線を受け止めていた。「出来ないのか」と言わんばかりの表情に姫は小さく歯軋りする。
彼女は昨晩あれほど痛みに苦痛の声を零していた人間と同一人物とはとても思えない。
すっかり肝が据わったかに見える雫の進言はどれも、オルティアに今までとは違う激しい方向転換を促すものだった。
「何故、このようなことが必要なのだ? その理由も言えぬのか」
「申し上げられません。ですが、理由は姫ならばお分かりになるかと」
堂々とした具申にオルティアは顔を歪める。
確かに、言われなくても分かったのだ。
謀略の類に入る複数の策、その半分以上が示す結末は―――― 王位の簒奪なのだと。
雫はオルティアに対し、異母兄を玉座から追い落とせと、そう示唆してきた。
臣下がする進言にしては大胆すぎるその案に、けれどさすがの姫も苦い顔を崩せない。
「兄上を狙うのは何故だ。お前の私怨か?」
「恨みは確かにございますが、それはささいなものでしかありません。
 私はただ姫に仕える人間として、これらの案が必要であると愚考致しました。詳しい理由は過程にて明らかになるかと」
「絵空事だ。妾に王が務まるはずがない」
「ご自身の才覚に自信をお持ちでないので?」
「まさか。単に妾は皆に畏れられているというだけのことだ」
陰惨な笑みを見せるオルティアの能力を疑うものは、城内ではほとんどいない。
だがそれ以上に彼女の名は国外にまでその残虐な行いの為に知られているのだ。
悪名持ちとしか言いようのない彼女が王位につけば国の内外から畏怖と反感が集まる。
オルティアは兄を王に抱いてこそ能力を発揮できていたのであって、自身が旗印になれる人間ではまったくないのだ。
しかし雫はそれを聞いても意見を翻さなかった。冷たいというほどではないが熱くもない声でオルティアに返す。
「ですから、悪名のうち多少は王に負って頂きましょう。あとは姫の今後の行いで。
 絶大な支持を得る必要はありません。高い能力と国全体への寛大さを示せば、それで構わないと思う人々は必ず出てきます」
「今更寛大さを示せと? それで過去のことを許して欲しいとでも懇願すればよいのか? この妾が」
「許しが欲しいと思われるのなら、姫がご自身で償いをお考えになってください。私が申し上げているのはこれからのことでしかございません」
きっと、何をしてもオルティアを許せないと思う人間は残るだろう。
それはけれど、心苦しくはあるものの雫にはどうしようも出来ないことだ。
仕方のない、変えられない過去のことで、今彼女までもがそこに拘っていては全てが進まない。
オルティアが本当に己の行いを後悔しているのなら、それらはオルティア自身が何とかしていくしかない問題なのだ。
だが、姫を心から憎む人間は、おそらく国全体の人数から言えばそう多い数ではない。
大半を占めているのは伝え聞く話で姫の行いに眉を顰めている程度の人間ばかりであり、そういった人間たちへの印象を改善出来ればオルティアは充分女王としてやっていけると雫は踏んでいた。そしてその評価は、とりあえずは「相対的に」高いものであれば構わないのだ。

多少の謀略を使っても今を乗り越えられれば、後はオルティアの心構え次第だろう。
雫よりも余程政に通じる彼女ならば、そのことに察しがつくはずだ。
だがオルティアは理解を得ても同意はしなかった。美しく整えられた眉を吊り上げて雫を見据える。
「何故妾がそのようなことをせねばならぬ」
子供じみた反論。
けれどそれがオルティアの正直な思いなのだ。
何故、正面から国の為に身を捧げなければならないのか。
今までは王族として最低限の義務と最大限の権利の上に悠々と暮らしていた。
生まれの為に幼少の頃切り捨てられた彼女からすると、それが自分を犠牲にした国に対する唯一の在り方だったのだろう。
国の役に立たねばと思いながらも、オルティアはずっとその国自体を疎んじていた。
それをただ言われたからといって、服を着替えるように変えられるはずもないのだ。
「どうして妾が折れねばならぬのだ、雫。
 妾はずっと兄上に頼まれたことはやってきた。王族たる義務は果たしてきたのだ。
 なのに何故これ以上国の為に己を費やさねばならぬ……。妾も民も、誰もそのようなことは望んでおらぬわ!」
感情が多分に入り混じった叫びに、しかし雫は一歩も退かない。
「姫、王の他にはあなた様しか継承権を持つ方はおられない。誰でも王になれるわけではないのです」
「なら兄上でいいではないか! 妾は王になどなりたくない!」
「それでは国をお捨てになりますか?」
オルティアは虚を突かれて顔を上げる。
異世界の人間であるという女は、姫の癇癪に怒った風でもなく、ただ幼子に対する母親のように落ち着いて主を見つめていた。
諭すわけでもなく叱るわけでもない、事実を読み上げるだけの声音で雫は続ける。
「姫、あなたは城にも、国にも囚われていらっしゃいません。逃げ出そうというのならそれも出来るのです。
 ですがもう時間はあまりない。城を出られるのなら早々に準備をなさってください。勿論陛下には分からないようにです」
「雫」
同席していたファニートが突然の発言を留めようと前に出る。だが雫はオルティアを見たままそれを手で遮った。
姫は予想してもいなかった進言に呆然と口を開ける。
「城を……出ると? 妾が?」
「姫がそれをお望みならば。出来ぬことではございません」
それもまた、一つの終わりだろう。
オルティアを犠牲にしようと思っているベエルハースの手を逃れて、姿を消す。
王は手駒の一つを失って歯噛みするだろうが、ファルサスが侵攻している現在であれば全精力を捜索にはかけられまい。
そして、或いは姫にとってはこちらの方が余程楽な道であるかもしれないのだ。
彼女は全ての義務から自由になり、新しい人生を得る。
まだ若い人間だ。過去を捨ててしまえばいくらでもやり直しがきくだろう。
兄と争うという道の他にも、オルティアにはまだそんな可能性が残されているのだ。

沈黙は長く続いた。
その間雫は微動だにせず、ファニートは険しい目で、ニケは感情を殺してそれぞれの焦点を保っていた。
姫はじっと自分の膝上に視線を落とす。
それは長い間鳥籠に閉じ込められていた鳥が、ずっと籠が開いていたことにようやく気づいたような不安げな目に似ていた。
寄る辺ない空虚と、同量の自嘲を湛えてオルティアは笑う。
「妾に……ここから逃げろというのか、雫」
「女王になる気はないと仰るのなら、今すぐお逃げ下さい」
「それがお前の希望か?」
まったく違う道を歩いてきた二人の女は、時折相手の姿に「別の自分」を見る。
たとえば王族として生まれていれば、地位のない平民であったなら。
家族皆から愛されていれば、もしくは切り捨てられて育ったのなら。
どうなっていたのだろう。どうしていたのだろう。
その答えを相手の中に見る。吊りあわない鏡を覗き込む。
雫は女の瞳を見返して、刹那今までの道行きに思いを馳せた。
そして、先の分からぬこれからを思う。
決して楽ではないだろう未来。だがそこにいる彼女は多分一人ではないのだろう。

背筋を伸ばす。主君を見つめる。
幾千の言葉を費やしても伝わらぬ思いを込めて、雫は口を開いた。
「私の希望を申し上げてよろしいのなら。姫、どうぞ女王におなりください。
 歴史上には名君で始まり暴君に終わった王もおりますれば、あなた様はその逆をお辿りください。
 鳥籠越しではなくご自身の目で国をご覧下されば、姫もいずれお分かりになるでしょう。
 人の世は確かに理不尽が多くはありますが…………それでいて、意外と優しいものですよ」
きっと、誰よりも自分こそが人の優しさを知っている。
その優しさに救われて、見知らぬこの世界を渡って来れたのだから。
だからオルティアも知ればいい。
兄によって歪められ閉じられた鳥籠の中だけではなく、外の世界に触れて知ればいいのだ。
―――― 多くの人々に、そして自分自身の中にも、人が人を思う気持ちは確かに存在しているのだということを。






「お前、本気で姫を女王にするつもりなのか?」
呆れよりも疑いが勝った言葉に雫は無言で肩を竦める。それが肯定を意味すると分かったのだろう、ニケは嫌な顔になった。
雫は彼のカップにお茶を注ぎ足す。
小さな休憩室には今は二人以外には誰もいない。
オルティアは雫の話を一通り聞いた後、「少し考える」と言って側近たちを下がらせてしまったのだ。
時間の余裕がまったくない以上、早い決断が欲しかったのだが姫自身が納得しないのでは仕方ない。
その間に出来ることからやってしまおうとのことで、雫はニケを呼び止めると用意していた「お願い」を伝えたのだ。
しかしその返答は、先程の何とも言えない問いである。彼女はお茶菓子を広げながら首を傾げた。
「何で? あんたは反対?」
「お前な……姫がどういう人間かよく分かってないぞ。あの方が気まぐれで処刑した人間がどれくらいいると思ってるんだ」
「あー、うん」
こういう意見があるだろうとは思っていた。確かにオルティアの行状について、雫がもっとも知識に乏しいのだ。
残虐な行いを重ねてきたと言われても、それを目の当たりにしたことは一度もない。
分かってないと言われたら、「その通りだ」としか答えようがないだろう。
姫の手足として他国に出向いて暗躍することも少なくない男を、雫はじっと見つめる。
彼がどうしてオルティアの側近となっているのか、詳しいことを彼女は何も知らない。彼が自分の主君を真実どう思っているかも。
だが彼が雫の前で見せる姫に対しての言動は、少なくともファニートとはまた性質の異なるものに見えていた。
ニケは、無言で自分を凝視してくる雫に眉を顰めると、「見るな」と言って顔の前で手を振る。
「見るなって……まぁいいけどさ。うーん、私って結局、甘い人間なんだよね」
「そうだろうな。よく分かる」
「うん。だから、すっごく腹立ってもその人の違う一面見ると、本当は優しいところあるんじゃないかって思う。
 そう思いたいんだよね、きっと。そう思った方が気が楽になるから」
「馬鹿だ……。お前、それ騙されるぞ」
「もう騙された」
あえて明るく言うとニケはますます顔を顰める。
それが彼女の体に刻まれた紋様と関係あると分かったのだろう、彼は舌打ちまでしてお茶に口をつけた。
すっかり人相の悪くなった同僚を雫は横目で見やって笑う。
「あんたとかも、第一印象最悪だけど実際優しいところあるって知ってるし。
 姫も本当ならもっと違う風にもなれるんじゃないかな。時々そう感じるよ」
「俺を例に出すな」
「自分を棚に上げないでよ。姫の重臣のくせに」
「姫が俺を使うのは、俺が忠実な人間じゃないと知っているからだ」
「へ?」
普通、側近を選ぶ理由としては逆じゃないだろうか。
言い間違いかと目を丸くした雫の口に、ニケは腹立たしげに茶菓子を押し込んだ。残った包み紙を丸めて手の中で燃やす。
「姫は俺が内心逆らいたがっていると知っていて俺を使う。それでも俺が絶対背かないと知っているからだ。
 だから時々試すような命令をして反応を愉しむ。……まぁ俺はそれが分かるから面には出さないけどな」
「うっわぁ」
そう言えばこの国に来たばかりの頃、ファニートがニケを指して「二重人格だからこそ姫のお気に入りだ」と言っていたが、その時は意味がよく分からなかったのだ。聞いてみれば中々の屈折ぶりに上手い感想が言えない。雫は押し込まれた菓子を食べてしまうと「中間管理職の悲哀っぽいね」と自分でも意味不明なことを口にした。彼は苦い顔でお茶のカップを手に取る。
「優しいかどうかはともかくとして、まぁそういう人だ。女王に向いてるとは思えん」
「うーん……。でもまだ姫若いしさ」
「普通なら結婚してる年齢だぞ。若くはない」
「え。そうなの?」
十九歳で結婚とは雫の感覚では充分早いのだが、そうではないのだろうか。
ぽかんとした彼女にニケは「王族ならな」と補足した。それには納得して雫は頷く。
「何ていうかさ、何かすっごく衝撃的な出来事があって方向性が変わっちゃった人ってさ、
 逆に言えばそれがなければもっと違う人生送ってたんじゃないかな」
「……そうかもな」
「だから、そういう人って可能的には転換がきくんじゃないかと思ってる。
 本人がやり直したいって思えればある程度は何とかなるんじゃない?」
人間には、はたしてそれくらいの柔軟性があるのではないだろうか。
誰かによって曲げられたものなら、きっかけさえあれば自分の意志で方向性を変えることはできないか。
こんなことを考えてしまう辺り自分は本当に甘いのだろうし、人への期待をしすぎている気もする。
だが、その可能性をはなから捨ててしまうのはやはり違うだろうと雫は思っているのだ。



雫は皺が寄ってしまった眉間を指でほぐす。
その様をニケは意識した無表情で眺めていたが、やがて盛大な溜息と共に立ち上がった。
「まぁいい。どの道俺も今更普通の魔法士には戻れんからな。お前の案に付き合ってやるさ」
「ん。ありがとう」
「それで、もし姫を玉座につけてもあの性格のままだったらどうする? それでもお前は姫に付き合っていくのか?」
当然考えなければならないその可能性。
それを突きつけられて雫は苦笑した。一つしかない南西の窓から外を見やる。
雲一つない青空は絵の具を塗りたくったかのように平坦だった。その空が続いているであろう先の戦場を思って彼女は目を閉じる。
「そうだね……。その時はきっとまた揉め事になって……キスクの王家はおしまいになるかもしれないね」
トライフィナの偽りから続く王家の血筋。その最後をオルティアは女王として担うことになるのかもしれない。
今も、その可能性は充分に高いだろう。ファルサスの手は既に国内にまで伸びてきているのだ。それを食い止めなければ彼ら全てに未来はない。
「あー、荷が重いよ。何で私が王族の側近やってんの?」
「知るか。さっさと動け」
ぶっきらぼうな返事をかけてくる男について、雫は休憩室を出る。
そうして一歩部屋を出た時、彼女の貌はもはや重圧にぼやいていた年若い女ではなく、姫に仕える臣として老成したものに変わっていたのだった。