優しい指 120

禁転載

腕の中の体は小さく、頼りない。
雫は軽い赤子の体を抱き直して笑顔になった。傍に立つユーラも同様に柔らかい表情を浮かべる。
「ごめんなさい、ユーラ。厄介なこと頼んでしまって」
「いえ。お力になれて嬉しいですわ」
同い年の女官の言葉は温かくも力強い。その強さに安堵して雫はヴィエドをユーラの腕の中へと戻した。小さな部屋を見回す。

ヴィエドを元の部屋から移動させたのは、雫がベエルハースの真意を知ってから一番に行ったことだ。
ファルサスが侵攻している現在、生まれて間もないこの赤子の存在にはかなりの意味がある。
ベエルハースが雫を生かした大きな要因の一つもこの子供にあるのだ。王の手にヴィエドを渡すことは何としても避けねばならなかった。
夜中に突然移動させられた赤子は、城内で雫の信用がもっとも篤い女性、ユーラとウィレットに託された。
彼女たちによってとりあえずの面倒を見てもらいながら、改めて信用の置ける乳母や側仕えを選び出す。これは面倒ではあるが用心の為には致し方ない変更だろう。雫は、別の乳母から理由を言わず貰ってきた母乳を魔法板で温め直すウィレットを見やった。
ユーラとウィレットの二人は、ヴィエドを預けられて初めてその存在を知ったのだが、親を問うてくることはしない。
雫がこの件に関して口止めを徹底した為、事態の重大さを感じ取ったのだろう。
年若いウィレットは意外にも「町でよく赤ん坊の面倒見てたんですよ」と慣れた手つきでヴィエドの世話をしてくれた。
今も手際よく温めた母乳をユーラに渡すと、洗いあがった沢山の布を畳みながら稚い笑顔を見せる。
「そう言えば雫さん、最近ニケさまと仲いいですよねー」
「うわっ、様づけが似合わない。別に仲悪くはないけど、よくもないよ。仕事の話するからじゃない?」
「ええー残念。本当雫さんってどんな人が好みなんですか? それ教えてくれれば張り切りますから」
「何を張り切るの……」
ヴィエドの世話以外に張り切って欲しいことなどまったくない。
苦い顔になった雫は、だがあることを思い出して「あー」とやる気ない声を上げた。
「そうだ……体に変な模様があっても気にしない人って項目が加わったんだっけ」
「何ですかそれ」
思わず驚いてしまうほど真剣な声を上げたのは雫の背後にいたユーラの方だ。
彼女の表情に世間話では済まない、探るような心配を見て取った雫は慌てて言い繕う。
「な、何でもないです。平気平気」
「本当ですか? 誰かに何かをされたんじゃないでしょうね」
「ないない! ギッタギタにしなくていいです!」
ならいいんですけど……と引き下がったユーラの目は心なしか残念そうだった。
雫は自分がギタギタにされそうな気がして妙にうろたえてしまう。
もし本当のことを言えたのなら、ユーラはジレドに食って掛かるかもしれない。そこまで想像して雫はぽんと両手を叩いた。
ひたすら洗濯物畳みをこなしていく少女に向って手を振る。
「そうだ。ウィレット、私、好きな人いるんだよね」
「え! 誰ですか? 教えて下さい!」
途端に目を輝かせて飛びついてくるウィレットに雫はにっこりと笑いかけた。
恋の噂話は女性の間でまたたく間に広がっていくと、そのことをよく知りながら。

裏町の中にある小さな酒場は、数日前から徐々に客足が減りつつあった。
それはこの店の主な客層である傭兵たちの間で、ファルサス侵攻についての事前情報が流されたことと関係がある。
一時は傭兵の雇い口が増えるかと思い各地から手練が集まったのだが、キスクの国自体が一向に動かないと分かると彼らは面倒を嫌って別の国へと出て行った。 中には私兵や護衛を雇いつつ状況を見定めようとする貴族や領主たちの下についた人間もいるのだが、そう言った人間たちもまた雇い主のところに待機するため町の酒場には滅多に顔を出さない。
大人が二十人も入ればいっぱいになるような酒場にもかかわらず空席が目立つ店に、だが一人の客がやって来たのは昼前のことだった。
剣を生業とすることが明らかに分かる体つき、だが傭兵がよく持つ野卑さがない男―――― ファニートは酒場の隅にたむろす男たちと目が合うといつもの調子で問いかけた。
「ターキスという傭兵を探している。誰か知らぬか?」
「ターキス? あいつがどうしたのか?」
「人の紹介で仕事を頼みたい。居場所を知っているのなら教えて欲しい」
「残念だが、数日前にキスクを出ちまったよ。確かメディアルに行くといっていた」
「……そうか」
すれ違ってしまったのは惜しいが、仕方のないことだろう。
元々ファニートは雫に「顔も広いし信用できるから」と言ってまずターキスが捕まるかどうか探してみるよう頼まれたのだ。
本当の目的は最初から別のところにある。
「なら別の人間に頼みたい。報酬は弾むし、秘密さえ守れれば人数は問わない」
「仕事の内容は?」
「人探しだ。ただし早急に頼む」
ファニートが男たちに提示した成功報酬は、尋ね人の捜索にしては破格なものだった。男たちの表情が目に見えて変わる。
「凄いな。……あんた上流階級に仕える人間だろ。こないだもそういう人間が来たぜ」
「こちらへの詮索は控えてくれ。秘密を守れないようならばこの話はなしだ」
「守る守る。で、誰を探せばいいんだ?」
陽気に依頼内容を問うてくる男にファニートは一人の男の名前を告げる。
これがはたしてオルティアの未来を変える一矢となれるのか、確信を持てる人間はまだ誰一人として存在していなかった。

向かい合って座る男の顔はいつも通りの笑顔だ。部屋の空気も普段と変わりない。
だがその変化がないということ自体にオルティアは不穏さを感じずにはいられなかった。象牙の駒を指でつつきながら兄の様子を窺う。
王からの突然の呼び出しを、彼女ははじめ雫絡みのことかと思ったが、彼が話題に上げたのは当然と言えば当然、ファルサスについてのことだった。
侵攻が開始されておおよそ八時間。現在はワイスズ砦前で両軍は膠着しているらしい。
援軍を出そうかというオルティアの提案にベエルハースは苦笑した。
「勝てる自信があるのかい、オルティア」
「自信があると断言できるのなら、その人間は信用がおけませぬ」
「だが、お前が始めた遊びであろう?」
王の声が意識しなければ分からない程僅かに低くなる。
それは、国の窮地にその原因となった者を非難するというよりは、観察者のように手の中の駒の足掻きを俯瞰する者の声音に聞こえた。
オルティアはその変化に気づかぬ振りをして盤上に駒を置く。
「何もファルサス全軍を打ち滅ぼさねばならぬわけではありますまい。ただ王が斃れればよい。
 ファルサス軍の指揮は王自身が取っているというのなら、数に頼って攻撃をしかければ、それだけで形成は逆転するのではないですか?」
本音を言うなら、オルティアはこの争いの終着点がどうなろうとも構わないのだ。
キスクもファルサスも皆が慌てふためき、混乱が深まればそれでよかった。
あの男に覚えのない子供をつきつけるところを想像するだけで笑みが零れる。
けれどそう思えていたのは昨晩までのことで―――― 今は何だか、全てが色褪せて何にも興味をそそられなかった。
オルティアが置いた駒をベエルハースの指が弾く。
「だがそこまでしては最早後戻りはきかぬだろう。直系の子供を擁したからこそファルサスに戦を仕掛けたのではないかと周囲に思われる」
「後戻りをなさるおつもりだったのですか? ファルサスを何とかしたいと、兄上も再三仰っていたと記憶しておりますが」
「今でも思っている。ただやはり躊躇われるものがあってね。お前の言うことなら何でも聞いてやりたいのだが」
まるで煮え切らない返事。変わらぬ茫洋。
―――― 何故雫は、「女王にならないのなら城を逃げ出せ」と言ったのか。
オルティアはしかし、不信を表に出すようなことはしなかった。取られた駒を眺めて赤い唇を動かす。
「ならば妾に兵権を下されればよろしいのです。所詮、生半可なことではファルサスを抑えることなど出来ぬのですから」
ベエルハースには思い切った決断など出来ない。
全軍を動かす指揮権を持っていても、彼が頂点に立っていてはその使い時さえ上手く見極められないだろう。
戦術の才という点ではオルティアもそれには疎いのだが、彼女は強敵相手に兵力を惜しんではいけないことは知っている。
いつどこにどれだけの軍を投入するか、それを大まかに決めれば後は将軍たちの仕事なのだ。
妹の具申にベエルハースは苦笑する。
「それは出来ない」
「手遅れになりますよ」
「大丈夫だよ。少し待っていなさい…………お前は待っているだけでいい」
いつになく落ち着いた兄の言葉にオルティアは反論を諦める。
しばらくして盤上の駒を動かした王は「そう言えば、あの娘は何か言っていたかい?」と尋ねてきたが、姫はそれに軽く眉を顰めて「どの娘でしょう」と返したのだった。

何故オルティアに進言する内容として簒奪を勧めたかといえば、単にベエルハースが無能であったから、ということがその大きな理由である。
妹の性格を歪め利用しながらいざとなったら彼女を切り捨てようとする行い、そして雫自身に行った仕打ちは確かに許しがたいものだが、もしベエルハースがラルスのように有能な為政者であったなら、雫は簒奪ではなく城からの逃走をまず勧めただろう。
だが、幸か不幸か彼には王としての才がない。
兄妹共に性格の歪んだ人間なら有能な方が玉座にいた方がいいのではないか、そんな現実的な計算も雫の中にはあったのだ。
勿論オルティアの方が兄よりも大分若い。彼女が本来持っていた可能性を考えれば、これからよき為政者になることも出来るだろう。
下手をしたら恐ろしい暴君を生み出すことになる賭けではあったが、その時はそれこそ本当に民が黙ってはいまい。
雫はそうならないようオルティアの側につき、姫をたしなめていくこともまた自分の仕事だと思っていた。
「お呼びとのことで、姫」
石床に片膝をついて雫は頭を垂れる。
オルティアに呼び出されたのは昼食を済ませてすぐのことだ。ファニートもニケもそれぞれの仕事に出ている為、姫の私室には女二人しかいなかった。
長椅子に寝そべるわけでもなく足を下ろして座っているオルティアは、臣下の黒髪を見下ろす。
「雫、兄上に会ってきた」
「左様でございますか」
「兄上は、ファルサスの侵攻を止める為に妾を差し出すつもりだ」
頭上に降ってきた言葉。それは、オルティア自身が決定したことのように冷ややかなものだった。
雫は僅かに震えて顔を上げる。宝石そのもののような琥珀色の瞳と、茶色がかった黒の瞳がぶつかった。そこには音のないさざなみが立つ。
今まで雫が見た中でもっとも落ち着いて見えるオルティアの貌は、凪いだ海が透き通るかのように美しかった。
その上には何の悲しみも、苦しみも見えない。
けれど見ている雫の胸が痛むのはどうしてなのだろう。
オルティアは紅色の唇から鈴に似た声を紡いだ。
「妾を、今回の原因を作った罪人としてファルサスに引き渡そうとしている。
 それと或いはロスタの領地幾分かを払って、奴らを退かせようとしているのだ。
 邪魔な妾がいなくなれば子供を手中にして好機を待つことが出来る。兄上は戦を嫌がっておられたからな。もっと別の手段を取るだろう」
「……そう陛下が仰られたのですか?」
「いや? だが分かった。軍を動かさないのなら交渉で相応の代価を与えねばファルサスは止められまい。
 領地も、金も、それだけでは不足だ。今回の責を負う人間を出さなければな」
「姫」
「仕方あるまい。妾の為したことは事実だ。遊びも度が過ぎたのであろう。兄上は気の大きい方ではないからな」
平坦な声は、少しだけ沈んでいるようにも聞こえた。オルティアは目を逸らし僅かに開けられた窓の外を眺める。
彼女にとっての兄とはどのような存在だったのだろう。
見下しながらもその関係に安堵していたのか、捨てられることを疑っていなかったのか、二人が一緒にいるところさえ見たことのない雫には想像もつかない。
ただ、「仕方ない」と言い切るオルティアにはいつもの傲然さが何処にもなかった。雫はそれを不安に思う。
もしこのまま気落ちして、ベエルハースの言うままにでもなられたら困るのだ。少なくとも雫は負けたくはないし、ヴィエドを王に渡したくもない。
眉を顰めてオルティアの表情を読み取ろうとする雫を、姫は乾いた目で一瞥した。
「雫、他に何を知っている」
「姫が望まれるのならば、やがてそれはお分かりになることのはずです」
「……そうか」
悪いのは自分だけと、オルティアは思っているのだろうか。
彼女がそう思うことまで計算してベエルハースが今日を導いたというのなら、厚顔にも程がある。
雫はつい自分が知っていることを全てぶちまけたい衝動に駆られた。忌々しさに内心歯軋りをする。
「雫」
「はい」
「お前は甘い。青臭い理想ばかり吐いて、いちいち説教臭い」
「左様で」
急に何を言い出すのか。だが、事実であったので雫は頭を下げて異論を差し挟まなかった。オルティアは嘲る風でもなく淡々と続ける。
「おまけに馬鹿だ。妾に殺されそうになったにもかかわらず、妾を王にしようなどと言い出す。何も考えていないのであろう」
「……そのようなことはございませんが」
「策も穴だらけだ。こんなものを勧めて妾を破滅させる気か」
「申し訳ございません」
一晩で考えられるだけ考えたものだが、やはり問題が多いものだったらしい。
時間がない為とりあえずいくつか動かし始めているのだが、計画の付けたしが必要だろうと、雫は床を見たまま考え込んだ。
オルティアの硬質な声が彼女の思考を叩く。
「もうよい。お前の謀略になどはなから期待しておらぬ。
 ―――― 後は、妾がやる」
聞き間違えかと、一瞬思った。
雫は弾かれたように顔を上げる。
兄の裏切りによって折れてしまったかと思った主君の目。だがそれはいつのまにか、闇夜に潜む獣と同じく力を持って光っていた。
残酷でしなやかな、艶かしい獣。
それを人の姿に変じさせたかのような女は、淀みない声を奏でる。
「切り捨てられるのはその者に力がないからそういう目に遭うのだ。今の妾は違う。
 玉座になど興味はないが、兄上が妾を処分しようというのなら……これでも自国の者にさえ恐れられた人間だ。黙って捨てられることはせぬ。
 あの男に引き渡されるのも癪だ。……少し、お前の真似をして足掻いてみよう」
琥珀色の瞳。
初めて見た時には自信に溢れ蠱惑的だと思った双眸は、今は微かに揺れて見える。
それは自分の為したことの反動を目の当たりにしたせいか、兄を敵に回すせいか、声音とは裏腹に幼子の如く惑っていた。
窓から徐々に入り込む風を追って、オルティアは部屋を見回す。
もう香の香りはしない。空気はゆっくりと変わっていく。
何人もの憎悪と怨嗟が積もっていた部屋は、今はまるで全ての虚飾が取り払われたかのように殺風景に見えた。
その中央に座する女は、跪く臣下を視界に捉える。
「雫、これで……よいのだな……?」
オルティアは迷っている。
自分の行いが、兄にこのような決断をさせたのではないかと。知らないがゆえに、ベエルハースに謀略を向けることを躊躇う。
だがそれでも彼女は選び取ろうというのだ。
自分を守る為に。矜持の為に。理想ばかりで自分に反してきた雫を信じて。
歪められ生まれた酷薄を兄に向け、逃げ出したかった国を獲ろうとしている。
この変節がどれ程の重圧の始まりなのか。ただ、雫に今出来ることはオルティアを後押しすることだけだった。
「お心のままに。迷わずお進み下さい、姫」
ここからの闘争は、オルティアが己の過去を知る戦いになるのかもしれない。
明らかになるであろう事実が彼女の心を砕いてしまうか、転換をもたらすかは、まだ雫にも判断のつかぬことだ。
だが、そこには可能性が残っている。
逃げ出さないでいるのならば、戦うことを選ぶならば、無理矢理にでも先を切り拓く為の可能性は、この道にしか残っていないのだ。

「失態があればお前の命で払ってもらうぞ」
「今更でございますね。私も勿論色々と苦言を呈させて頂く予定ですが」
「妾はお前のそれが心底鬱陶しい」
「耳に快い説教などございません」

少なくない欺瞞を抱えて、雫は次の扉の前に立つ。
いずれこの選択が自分を身を危うくする日が来るのかもしれない。そのことも分かっている。
だが今は足を止めない。次の一歩の為に進んでいく。
そうすることこそが自分の望む姿だと、とうに気づいてしまっているのだから。