優しい指 121

禁転載

キスクの宮廷において王位の簒奪には、大きく分けて暴力によって行うか正規の手段で行うかの二種類がある。
初めてその説明をファニートから受けた時、雫は「正規の簒奪?」ともっともな疑問を口にしてしまったのだが、 要するに三国の併合によって出来上がったキスクには王の退位決定に関わる貴族機関が制度上残されているらしいのだ。
「キスクの元となった三国、キアーフ、ティルガ、ラドマイの旧王家筋の三家がそれぞれ筆頭となり全部で十二家。
 これらの家の当主たちの審議にて過半数を得れば王を交代させることが出来る」
「え、それだけでいいの?」
気の抜けた相槌を打つ雫に、ファニートは無表情で頷く。
「それだけだ。ただこの制度を使って王を退位させたことがあるのは歴史上ただ一度のみでな。
 実際城でも忘れ去られかけている制度で、今でも行われる可能性があるのは三家の当主審議くらいだ。注意が必要なのもこちらだな」
「注意? 何で?」
「王族の処分を決定するのが三家の当主審議だからだ。王の許可と三人のうち二人の賛同が得られれば王族の処分が下される。
 もし陛下がオルティア様をファルサスに引き渡そうというのならこの三家審議にかけてからのことになるだろう」
「あー……ならそれを食い止めることが先決かぁ」
広げられた書類を読むことは雫には出来ないが、複数進行している情報操作や懐柔策の半分ほどは把握している。
確かにこういった仕事に関して、彼女はオルティアの足元にも及ばないらしい。
姫はベエルハースに気づかれないよう文官たちを抱きこんで、急速に貴族たちや領主にも策を伸ばしつつあった。
ファニートは無骨な指で書類の一枚を叩く。
「三人の当主のうちティルガ侯の懐柔はまず不可能だ。残りの二人を何とかしなければならない」
「何で不可能なの?」
「姫はティルガ侯の甥を処刑させたことがある」
「…………あぁ」
雫は思わず書類の海に突っ伏したい衝動に駆られたが、立場上それを堪えた。
脱力して顎が落ちかけた彼女にファニートが付け足す。
「もっとも、あの件は相手が悪かったのだ。その男は叔父の口利きで文官となったにもかかわらず城の金を横領していたのだからな」
「じゃあ別に姫悪くないんじゃ」
「叔父を呼べと騒ぎ立てたのを無視してほぼ独断で処刑された」
「はい、駄目だね。残り二人に賭けよう」
こういった話が一つや二つではないのだから頭が痛い。雫は深々と溜息をつくと、三家のうち残り二人の資料を探してもらい手に取った。
「尋ね人が見つかるのが一番いいんだけどね」
「探させてはいる。が、それで本当に何とかなるのか?」
「なる、と思う。上手く行けば風向きを変えられると思うよ。とりあえず信じてみて」
雫が微苦笑するとファニートは無言で頷く。
彼も色々思うところがあるのだろうが、こうして信じてくれることだけで充分ありがたい。
もっとも彼はあまり謀略には向いていないらしく、ニケが大まかな方針だけを聞いて後は自分の裁量で事を進めているのに対し、 ファニートはもっぱら姫の側へとついている。ベエルハースもファルサスに引き渡す前にオルティアを傷つけようとするとは思えないが、 姫自身が全ての要である以上護衛を離すわけにはいかなかった。
この辺りは適材適所と言えるのだろう。雫はオルティアのいる奥の部屋の扉を振り返る。
「あとは、ファルサスもいるのか……。本当、帰ってくれないかな」
「今はまだファルサス軍もロスタを出ていないようだ。もっともロスタを出て城都まで進軍するのは容易ではないがな。
 途中の街道沿いにはワイスズ砦があるし、あそこは対魔法防御用の人員がいるからファルサスであっても簡単には落とせぬだろう。
 ……と言っても、援軍を呼ばれては困る。本当ならこちらも軍を編成したいのだが、王の許可がなければ無理だ」
「あうー。せめて王と王様、どっちか片方だったらなぁ」
前者はベエルハースで後者はラルスのことなのだが、ファニートには通じなかったらしい。彼は相槌を打たなかった。
雫は書類に戻ると中の単語を拾い上げて思案顔になる。
「ねぇ、これ使えない?」
「どれだ?」
ラドマイ侯の家族構成の中に書かれていた一項目を二人は見つめた。ファニートは理解したのか軽く目を瞠る。
「使えるかもしれん」
短い応答で利を確認すると二人は立ち上がった。同じように書類を前に思考を巡らせているであろうオルティアの元へと向う。
ベエルハースがファルサス侵攻についての見解をまとめ、オルティアにその原因を結論づけて三家当主審議にかけるまで、この時点で残り三日となっていた。






数日前から絶えず吹いている風は、今日になってからいささか勢いを増したようだ。
ワイスズ砦が遠く北に見える森にて陣を張っていたファルサス軍は、早朝の薄闇を照らす明かりを炎から魔法のものへと切り替える。
キスク領内に侵攻を始めてから丸七日、緒戦を勝利で収めたファルサスはけれど、キスク軍がワイスズ砦に逃げ込んでしまったことにより一旦進軍を停止していた。
もともとキスク軍を叩くことから始めたのも、同数程度での戦において力の違いを思い知らせ、しばらく相手の動きを封じ込めるという意図があったのだ。
ラルスは四度、砦を拠点に出撃してきたキスク軍をあしらうと少し本軍を後退させ、その間にアズリアに別働を与えてカリパラの街を占領させた。
同時にロスタ領内の領主貴族の動向にも監視を入れる。
キスクが自国領であるロスタを捨て駒のように放置した以上、ロスタは独自で反抗する意志を持つかもしれないのだ。
だがそう思って調査をしたにもかかわらず、ファルサス侵攻前まではカソラの民に公然と圧力を加えていた彼らも、今は半ば死んでしまったかのように沈黙していた。
一通りの報告を魔法士を経由して受け取ったラルスは、つまらなそうに嘯く。
「折角来たのに無視か。無視できない場所にでも行ってやるか。城都とか」
「おやめください。それをなさるなら最低でもあと十万は兵が必要です」
「金がかかる。文官に嫌がられる」
ファルサスとしては、これ以上の兵を動員することなくキスク、あるいはロスタからの降伏をもぎ取りたい。
その上でカリパラの街をファルサス領へと引き取ってしまえば後顧の憂いも断てるだろう。
もっともここしばらくの暗殺未遂がキスクの手によるものだと知っているラルスは、その辺りも含めて城に制裁を加えたいとは思っているのだが。
天幕の外に出て倒木に座る王は、枯れ枝で地面に何だかよく分からぬ絵を描いている。
これが子供だったら「真剣に聞いているのか」と怒られるところだが、皆思っていても相手が相手なので注意できない。
王は足が四本ある鳥の絵を描き上げてから不意に顔を上げた。
「砦の方はどうだ?」
「あいかわらず強固な防御結界が一帯に敷かれております。範囲内では許可されていない魔法士は構成を組むことが出来ません」
「外で組んでから中に入ったらどうだ」
「入った瞬間に構成が無意味化します。つまり、砦周辺では我が軍は防御も治癒も、全ての魔法が使用できません」
「あーあ」
最上位の防御構成であるその魔法は、恒常的に維持するには人員も魔力もかかりすぎる。
結界が確認出来てから数日経ちつつあるが、これからも日を追うごとに負担は増えていくだろう。
しかしファルサスが近くに布陣している以上、砦が生命線である防御陣を容易く手放すとは思えない。
ラルスは空中で枯れ枝をくるくると振り回した。
「範囲外から爆撃するか?」
「それだけの距離があるとなると、防がれる可能性は高いかと。レウティシア様をお呼び致しましょうか」
「駄目。俺が怒られる」
何が怒られるのかは重臣たちには分からないが、怒られる理由は一つではない気もする。
会議というには適当な報告の場に沈黙がさしかかりそうになった時、しかし王はふとあることを思い出した。
「そうだ。使えそうなものがあった。ただ待つのも暇だし、やっぱりあの砦は落とすか」
「え!?」
驚く臣下たちを尻目に王は大雑把な指示を与え始める。
途端に機嫌のよくなるラルスを何人かは不安そうに見やったが、誰も口に出しては何も言わなかったのだった。






―――― まったく可愛げのない娘だ。自分に従えば今よりもいい暮らしをさせてやれるというのに、何も分かっていない。
あんな姫に仕えて一体何になるというのか。強情を張るのもいい加減にすればいいのだ――――
壮年の男はそんな苛立ちを抱えながら、忌々しげな表情で廊下の角を曲がる。
術までかけた雫を手に入れ損ねてから既に一週間以上が過ぎたが、ジレドは未だ蟠る腹立たしさを忘れることが出来ないでいた。
突然姫のもとにやって来て、流行り病についての実験を終わらせた娘。
魔法士たちの嫉妬と安堵を同時に生じさせた彼女は、気になって顔を見てみれば年の割りに幼さの色濃く残る顔立ちをした人間だった。
変わった造作をしているが、顔が小さく黒目がちな大きな瞳は異国の人形を思わせる。
普段は飾り気のない姿をしているが、服をドレスに変えて髪を下ろさせ、唇に紅を引けばなかなか見れるようになるのではないか。
自分がそれを与えてやってもいい、と思ったのは単なる気まぐれだ。
週に二、三度実験室に来て、子供たちに言葉を教えたり教材を試したりといった仕事をしている彼女も、用済みになればやがて姫に処分されるのだろう。
だがそれは少し勿体無い。不要になるなら自分にくれないだろうかとジレドは思ったのだ。

しかし彼の予想に反してオルティアは雫を手放そうとする気配はなかった。
ベエルハースから彼女がある子供の教育係として決定していると聞いた時は、正直幾分がっかりしてしまったものである。
それでは彼女がオルティアの下から離れる頃にはすっかり大人の女になってしまう。
今だからこそ年齢の分からぬ危うい容姿をしているのであって、そうでなくなった彼女には何の価値もないと、ジレドの目には映ったのだ。
けれど、好機は意外に早くやってきた。
オルティアは半ば自滅するようにファルサスを呼び込み、王は妹を切り捨てると決定した。
姫がいなくなるならば、あの娘を自分が好きなようにしてもそれを咎める人間はいない。
実際ベエルハースは側近の欲望を知っていて、彼女に術を施すよう命じたのだ。
だが……肝心のところで彼女はジレドの手の中から逃げ出してしまった。
魔法士たちから忌み嫌われる姫の側近の男に牽制を受けたのも腹立たしいが、それ以上に彼女が少しも少女のものではない「大人の目」で自分を睨んだことも、ジレドにとっては怒りを増大させる原因となっていた。
「あの小娘……今に見てろよ」
ベエルハースは三家の審議の為、当主たちに召集をかけた。
まもなくオルティアは罪人として捕らえられ、ファルサスに引き渡されることとなるだろう。
そうなればあの娘を庇護する者は誰もいない。飛びぬけて美しいわけでもない女だ。欲しいと言えば容易く手に入る。
まずは反抗的な目が出来ぬよう数発殴ってから鎖にでも繋いでやろうと、ジレドは自分の想像にほくそ笑んだ。

あの晩以来見かけなかった彼女にたまたま出くわしたのは、そんな想像が偶然を引き寄せた為なのかもしれない。
ジレドが足早に歩いていた廊下の先で扉が急に開き、中から雫が出てきたのだ。
彼女はジレドに気づいて瞬間ぎょっとした目をしたが、すぐに困ったような笑顔になった。反抗的なところがないその表情に彼は胡散臭げな目を向ける。
「このようなところで何をしている」
「ちょっと迷子。普段来ないところなんで」
確かにこの辺りの部屋は貴族が歓談をする為に使う広間などが並んでいる。姫の側近とはいえ、身分のない彼女には縁のない場所であろう。
扉を閉めた雫は彼に会釈をして歩き出した。ジレドは素早くその後を追う。
彼女の手首を男が掴んだのは次の角を曲がってすぐのところだった。雫は目を丸くして男を見上げる。
「何?」
「痛みはどうした。犬にでも体をくれてやったのか」
「犬って」
彼女は呆れ混じりの声を洩らしたが、小さく溜息をつくと軽く手を払った。だが、久々に彼女を見つけたジレドは掴んだ手を放そうとしない。
雫は眉を寄せると、反対側の手を自分の腰に添えた。白い上衣の裾に手をかけ、それを少し捲り上げて見せる。
普段決して日に触れない細い腰。
若木を割ったかのような瑞々しい色の肌には、彼が刻んだ魔法の紋様がくっきりと残っていた。ジレドは思わず生唾を飲み込む。
本来ならばそれは王の女にしか施されない魔法だ。
束縛を思わせる紋様と若い柔肌の絡み合う様は、秘されたものだけにひどくなまめかしい引力を帯びていた。
欲情を強く刺激するその眺めに、ジレドは思わず節くれだった指をむき出しの腰に伸ばす。
だが雫は服を上げていた手を放すと、肌に触れる直前の手を掴んで留めた。
目の前の皿を取り上げられたような思いで、すぐには消しがたい劣情にジレドは呻く。
「何故止める」
「これだけのことをしといて、ただで触ろうってずるいと思うな。すっごく痛かったし」
女の声には棘棘しさはなく、むしろ拗ねたような甘えがあった。
それは男の自尊心をくすぐり、真っ直ぐに見てくる黒い瞳と相まって悪い気にさせない。
ジレドは彼女の肌に無理矢理触れるのではなく掴んだままの手首を引いた。細身の体を腕の中に抱き寄せる。
「最初から素直にならぬから痛い目に遭うのだ。大人しくしていれば身を飾る宝石の一つでもくれてやろうというのに」
「宝石? 本当に?」
彼女の声が途端に色めく。それを聞いてジレドは、こういう攻め方をすればよかったのかと今更ながらに気づいた。
本人は穏やかと思っている、しかし卑しさが隠せない笑顔で雫の顎に指をかけ上を向かせる。
「当たり前だ。それくらい何でもない。何が欲しい?」
「何が……って言われても急には選べないけど…………他の人のお下がりは嫌だな。
 ちゃんと私の為に用意してよ」
「ならお前の名を入れてやる。それでいいか?」
「あなたの名前も。陛下から貰ったりしないで、自腹切って」
「うるさい娘だ。まぁいい。その程度でいいならくれてやる」
ジレドは雫の腰に回した手を、名残惜しげに服の上で這わせながらも彼女の体を解放した。
「約束だよ」と念を押す彼女と別れると自分の屋敷へと転移する。
元々人形のように飾ってやろうと思っていたのだ。宝石の一つくらい何でもない。むしろそれ如きで目が眩む女がおかしかった。
彼はさっそく屋敷にある宝石のどれかを加工させようと職人を呼びつける。
―――― 邪魔が入ったり彼女の気が変わらぬうちに、すぐに用意してやろう。
野良猫を手懐けられたような気分のジレドは、満足感にそれまでの苛立ちも忘れ浮き立った。
一度手痛く拒絶されたのも術の痛みのせいだったのだと都合よく勘違いした彼は、だから落ち着いて想像することさえ出来ない。
あの後一人になった雫が、嫌悪感に満ちた目で「単純な好色親父」と侮蔑混じりの評価を彼に下していたのだということを。