優しい指 124

禁転載

アカーシア一振りでは広大な防御結界を無効化することは出来ない。
それは、結界を感知した時にまずトゥルースより言われたことだった。湖の水を手で掬い上げるような、僅かな干渉にしかならないと。
だが僅かな効果しか与えられないのは、アカーシアだけを用いた場合のことだ。
砦を中心に張り巡らされた結界を前にして、ラルスは背後の魔法士を振り返る。
「いけるか?」
端的な確認に数人いる魔法士たちの内、右耳に大きな蒼玉の魔法具をつけた男が頷いた。
「戦場となる範囲程度でよろしいのなら」
「充分だ」
決して完全ではない可能性。けれどそれを余裕として王は笑う。
大陸最強と言われる国家の頂点に立つ男は、自ら先頭を切りながら結界内への進軍を指示した。自分を狙って放たれた炎球を王剣の一振りで退ける。
狙うのは構成の要。それが湖を構成する一滴でしかなくとも小さな亀裂が入ればいいのだ。
ラルスはアカーシアを振りかぶると、切っ先を結界の構成目掛けて突き下ろす。
そして―――― 結界への侵蝕が始まった。

「馬鹿な! 魔法は使えぬはずではないのか!?」
丘陵での戦闘と同じく降り注ぐ炎の矢に防御障壁を指示しながらドルファは驚愕の声を上げた。
今まで魔法を封じていたからこそ、ファルサスと渡り合えていたのだ。
それがなくなってしまうのなら砦の外へと布陣しているこの状況自体が問題となる。
退くべきか迎え撃つべきか、魔法での先制に続いて距離を詰めてくる騎兵を睨みながらドルファは刹那逡巡した。その耳に魔法士の掠れた声が聞こえる。
「構成が……無意味化されつつあります。向こうの魔法士が構成に侵入し……」
「何だと? 戻せないのか?」
「砦に連絡をとってはみますが……そ、速度が尋常ではありません。無効範囲も徐々に広がりつつあり、このままでは」
「もういい!」
魔法についての細かいことなど武人の彼には理解できない。
ドルファは魔法士に結界の修復を試みるよう命じると、軍の指揮に戻った。
全軍の攻撃を集中させファルサスの中央部、王のいる本営を狙うよう指示する。
キスクは固めて布陣させていた軍をそのままぶつける形でファルサス軍に向って前進し始めた。
だが、ラルスはそれを察すると中央部の進む速度を若干遅らせ、代わりに両翼の速度を上げる。
元々弧を描いていたファルサスの陣形はこの速度差によって凹型へと変わっていった。本営を狙うキスク軍を中央部に誘い込もうとする。
しかし、ドルファもその狙いに気づかない程周りが見えていないわけではない。進軍速度を緩めかけて、けれど思い直すとむしろ速度を上げた。
今、無理に軍を止めたり方向転換をさせては混乱が生じるだろう。
それをするよりはファルサスの誘いに乗ってでも本営を叩き、ファルサス国王の首を取ることを彼は選んだのだ。
戦意に満ちた叫びを上げてキスクの軍勢が突撃を始める。それを半包囲するようにファルサス軍の両翼が敵軍の側面に食らいついた。
剣が剣を受ける金属音がたちまち草原に溢れかえる。
後に「ワイスズの戦い」と言われる戦闘は、こうしてファルサス側の唐突な結界侵蝕により幕を開けたのだった。

防御構成への侵入。それは構成を統括している砦の一室にも当然ながら感知されていた。
指揮を取っていた魔法士は蒼白になりながらも構成の修復を指示する。
相手がいくら魔法大国とは言え、まさかこのような技術を持っているとは思ってもみなかった。
アカーシアによって破壊した結界の要所から魔力を侵入させ、構成自体を次々書き換えていくその技術に、感嘆を通り越して恐怖を覚える。
「侵入を食い止めろ! これ以上広げるな!」
無意味化されてしまった部分を戻すことはおそらくもう出来ないだろう。
だが、このまま好きにさせていたらキスク軍の優位は完全に失われてしまう。
魔法士たちは伝わってくる戦況―――― 最初の攻撃でファルサスの本営を突き崩すことの出来なかったキスク軍が、敵の左翼を突破して砦方面へと後退しようとしているという連絡―――― を聞いて緊張を高めた。
結界が効力を持つ場所にまで戻ってこられれば、まだ形勢は立て直せる。言ってしまえばキスク軍の命運そのものが彼らにかかっているのだ。
三十人を越える魔法士たちは皆、汗を滲ませ構成に集中した。

戦場から砦へと伝令がやって来たのはそんな時のことだ。
「魔法での連絡が妨害された。だが重大事が分かった」と開門を叫ぶ兵士を先頭に、十人程の兵士や魔法士が砦内に転がり込んでくる。
何事かと緊迫する砦の兵士たちの間を縫って、彼らは防御結界を担当する魔法士に面会を要求すると、制御室へと駆け込んだ。
彼らを迎えた魔法士は、怪我でぼろぼろになった兵士に焦りを散りばめた声で問う。
「一体何が分かったというのだ。構成を戻す方法か?」
「そ、それが……どうやらこのままでは防御結界全てが無効になってしまうようなのです」
「何だと!? 何故だ。どうすればいい?」
「今からではもう……」
その言葉を聞いて、制御を指揮していた魔法士は呻いた。そのまま床に崩れ落ちる。
緊張の為だけとは思えない変化。胸を押さえて痙攣する魔法士を、しかし怪我を負った兵士は笑って見下ろした。
胸につけていたキスクの紋章を指で弾き、血に濡れた短剣を上げると共に来た部下たちに命じる。
「殺せ」
「貴様ら……っ! ファルサスの……」
いちはやく事態を察知して叫び声を上げた魔法士は、喉に短剣を投擲されて絶命した。
そして、それを皮切りに一瞬で部屋は惨劇の場へと変じたのである。



「魔法士を全滅させたそうです。結界が消滅しました」
前線にて自ら剣を揮っていたラルスは、ハーヴからの報告を受け「そうか」と頷いた。
狂ったような叫び声を上げ切りかかってくる男の刃を受けると、次の一撃でその体を斬り払う。
「なら手筈通り、砦内を制圧しろ。中から転移門で別働を引き入れるようトゥルースに伝えとけ」
「かしこまりました」
ハーヴが連絡の為に少し下がると、ラルスは手綱を巧みに操って前に出た。人馬がひしめく中に乗り込み、また剣を揮る。
反撃の間を与えずキスク兵の一人を斬り捨てると、側面から恐ろしい速度で打ち込まれた戦斧に対し、アカーシアで以ってそれを受けた。
全身の力を込めた一撃を防がれたドルファは、戦意も高くラルスを見据える。
「ファルサス国王、お相手願おう!」
「俺はいいが、思い残すことはないのか?」
人を食った返答にドルファは斧を大きく横に凪いで応える。
まともに食らえば鎧越しでも内臓が破壊されたであろう斬撃を、しかしラルスは後ろに下がって空を切らせた。相手が敵の指揮官と見て取って不敵な笑顔になる。

一度は形勢不利を見て取って砦に下がりかけたキスク軍だが、それを追うファルサスにドルファは素早く決断すると、起死回生を狙って反撃を指示したのだ。
どうにも先程から砦内からの連絡が途切れがちであり様子がおかしい。
長年武人として第一線に立ってきた彼の勘が、「ここで下がっても巻き返すことは出来ない」と告げてきていた。
もしもっと大局を見る将であれば砦をも捨て撤退を決めたかもしれないが、ここ数日砦にこもっていた鬱屈とベエルハースからの期限がドルファに逃走を選ばせなかった。彼は自ら戦斧を振るってラルスに斬りかかる。
一撃一撃が重く、食らえば致命傷となることは疑いない攻撃。だがそれを、ラルスは愉しんでいるかのような素振りでさばいた。
そこに死への恐怖はなく、まるで子供の遊びにつきあっているようだ。何を考えているのか分からぬ青い瞳にドルファは軽い焦りを覚える。
けれどその時、ファルサス国王はふいと左手側に視線を逸らした。
何を見たのか。しかしそれこそが隙だとドルファは迷わない。相手の頚部目掛けて斧を叩きつける。
だが、ドルファの斧はラルスには届かなかった。
アカーシアの主人たる男は別の方向を見たまま剣を振るうと、ドルファの右腕を肘から切断してのけたのだ。重い音がして斧と腕が草原に落ちる。
「ぐああああっ!」
戦場に轟く絶叫。
しかしそれはほんの一瞬のことだった。王の視線の向く先から魔法が飛来しドルファを飲み込む。
彼にかけられていた防御結界は既にアカーシアの一閃によって破壊されていた。赤い炎が男の体を舐めるように焼き尽くしていく。
周囲にまで赤い舌を散らす魔法。その余波を王剣で相殺しながらラルスはぼやいた。
「俺がいても遠慮なく打つのは誰だ。日頃の恨みか」
何をしても死にそうにない、と臣下たちから影で囁かれる国王は血に濡れた剣を携え戦場を見やる。
血臭立ち込める草原において、戦の勝敗は誰の目にも徐々に明らかになりつつあった。






ワイスズ砦陥落の知らせを聞いた時、会議室にいたニケも雫もさすがに唖然として二の句が継げなかった。
しばらくして報告を持ってきた文官に聞き返す。
「え、何でですか? 魔法防御用の人員がいるってファニートが言ってたんですけど」
「それが……どうやらファルサスに結界を書き換えられたようでして」
「本当か? 凄いことをするものだ。そんなことが可能だとは思わなかったぞ」
凄いことは凄いのかもしれないが、この場合は非常に迷惑だ。
姫にはもう報告したのか尋ねると、肯定と共にオルティアは戦場から逃れられた兵たちを回収することと砦周辺の偵察を命じたと返ってきた。
文官が退出すると二人は顔を見合わせる。
「どうすんの……。まずくない?」
「不味い。あそこは南西の要所だった。死者だけを考えても損害は大きいぞ。
 おまけに砦に転移陣を描かれて補給体制を整えられたら打つ手がなくなる」
「これもう謝った方がいいんじゃ」
つい雫がそう言ってしまうとニケは「出来るならやってる」とでも言いたげな苦い顔になる。
彼女などにはよく理解できないのだが、大国同士そう簡単に譲れぬものがあるのだろう。
どちらかと言うと戦争には反対で、そう姫に苦言を呈したため口論のすえ十二家への対応に回された雫は溜息にもならない息を吐き出した。
ニケが地図上に飴玉を転がしながら冷めた声で問う。
「お前なんか知らないのか? ファルサス国王の弱点とか」
「え。人参?」
「それが何の役にたつ情報なのか言ってみろ」
「たたないね。すみません」
ラルスが蒼ざめるほど人参が嫌いなのは本当なのだが、戦争でそれが何かの役に立つとは思えない。
雫は転がってきた飴玉を摘み上げると机に頬杖をついた。
「だってあの人の弱点なんか知らないよ? 性格はそりゃ悪いけど。……ああ、レウティシアさんに弱いかな」
「王妹に? 妹に弱いのか」
「大事なんだって。頭が上がらないみたいよ」
そんな会話を交わした二人は、ほぼ同時に同じことを思う。
―――― もしオルティアの兄がラルスであったなら、彼女は今頃どうなっていたのだろう、と。



砦の陥落は凶報であったが、それに続いて別の知らせも内密にやって来た。
会議室にやって来たファニートが「探していた人間が見つかった」と伝えてきたのだ。
「見つかった!? よ、よかった。間に合った」
「今、姫が会っておられる。が、貴女も来て欲しい」
「はい。何で?」
用件はあったが、それはオルティアが直接要請するものかと思っていたのだ。雫は怪訝に思いながらも立ち上がる。
三家審議を前に行われた二侯への交渉。姫に命じられてそれらの交渉を担ったのは雫だ。
彼女は生まれたばかりの孫がいるラドマイ侯に対し、城で作られつつある言語教育の教材を優先的に流すことで、まず協力を取り付けた。
「甘い」「頑固」と周囲に詰られる雫だが、相手により態度を変えるくらいの見極めは出来る。
その為キアーフ侯にはオルティアのこれからの可能性を説き、ラドマイ侯には利益をちらつかせて脅しを入り混ぜたのだ。
これからは加えて十二家審議に向け早急に複数人とも交渉を行わなければならない。
そして、その為に探していた人間は大きな役目を果たしてくれるだろう。
そう思っていた雫は、ファニートと並んで廊下を歩きながら首を傾げた。
「どうしたの? 協力してくれないって?」
「違う。協力はしてくれるだろう。だが姫がな……」
「姫が?」
嫌な予感がして彼女は蒼ざめる。
そしてその予感は的中し、姫の私室に到着した時、雫は物の割れる音がいくつも聞こえてくることに気づいてこめかみを押さえたのである。