優しい指 125

禁転載

普段雑然としているオルティアの部屋は、この時惨状としか言いようのない状態にまでなっていた。
部屋の主人は怒りの形相であちこちを歩き回り、飾られていた陶磁器などを掴んでは次々それを床に叩きつけている。
私室ということもあって裸足でいた姫の足の裏には、それらの破片が刺さったのだろう。血の痕が床に転々と滲んでいた。
だが怪我をしている本人はそれには構わず感情のままに次々と物に当たっていく。
「それで今更なんだというのだ! 妾に許しを請うて、だから領民を助けて欲しいと!?」
「違うのです、殿下。私はただ私の罪を……」
「もう遅いわ!」
部屋の中へと入った雫は、床に平伏すティゴールと狂乱の最中にあるオルティアを順番に見やった。
こうなると思った、という思いと、こうなって欲しくなかった、という思いが頭の中で交錯する。
―――― ファニートに頼んでティゴールを探して貰ったのは、彼の証言こそが二人の王族の風評を逆転させる為に有用だと考えたからだ。
ティゴールは過去の事件のせいでオルティアに負い目を持っている。
その上、ベエルハースは彼を牢に繋いで口封じを行おうとしたのだ。
もしティゴールがオルティアについてくれるのなら、オルティア本人が何かを言うより彼が諸侯に事実を訴える方が余程効力があるだろう。
今、オルティアや自分に必要なのは、年齢を重ね社会的に信用を築き上げているキアーフ侯やティゴールのような人間だと、雫は感じとっていた。
「お前は、全てを妾に打ち明けて楽になりたいだけだ! それで何になる! もはや終わってしまったことではないか!」
「仰る通りでございます。私は償おうとも償えぬ罪を犯しました。そしてずっと苛まれ続けてきていたのです。楽になりたいと思いながら……」
ティゴールが過去の事件の真実を話すことを、雫は期待しなかったわけではない。
それを知ればオルティアは、ベエルハースがずっと昔から「敵対者」であったのだと知り、最後のふんぎりがつくだろう。
だが同時に、姫には知って欲しくないともまた思っていた。
それを知れば、今までいびつなりにも形成されてきたオルティアの心が、根本から突き崩され折れてしまうかもしれないのだ。
しかし、言うか言わざるかの判断は、ティゴールこそが下すものであろう。
過去の罪を告白するか、それを隠して今回のベエルハースの非だけを報告するか、彼が自分の在り方を選ぶしかなかったのだ。

部屋に来る途中ファニートに聞いたところ、やはり王への暗殺者を手配したのはティゴールだったらしい。
彼は部下の手引きで牢を逃れると、城都に潜伏しながらベエルハースに刺客を送ったのだ。
王と一対一で対面したティゴールは激しい口論の結果「あの男に任せていては城は中から腐敗する」と思ったのだという。
だが王が健在である限り、ティゴールがロスタに戻ろうとしたり他の諸侯に連絡を取れば、彼に制裁を加えようと王からの追っ手がかかる。
そのためベエルハースの死を待って暗君の排斥をすると同時に、自身にある程度の自由を取り戻そうと彼は苦肉の策を選んだのだ。
王が死ねば混乱の間にロスタをしてファルサスに降伏させることも、またオルティアに改めて慈悲を訴え出ることも出来るだろう。
ティゴールは城都にある小さな酒屋の倉庫に閉じこもって暮らしながら、どうすれば事態を打開できるのか、ひたすらに考え続けていたのである。

オルティアは硝子で出来た燭台を掴み上げる。
それを握ったままティゴールを睨み―――― そこでようやく、入ってきた二人に気づいた。
姫は、長身の男の隣で沈痛な表情をしている女に問う。
「雫」
「はい」
「お前は、知っていたのか?」
言葉に出して答えることは雫には出来ない。だがその目を見れば返事は明らかだった。
姫は一瞬、傷つきバラバラになった瞳で黙り込む。
全てが無意味だと、そう言われたような貌で彼女は床に視線を落とした。握り締めていた燭台を投げ捨て、何も言わずに奥の寝室へと戻っていく。
主人が不在となった部屋に残されたのは困惑よりも悔恨に似た何かだ。
誰に向けるとも限らない後味の悪さ。それらが空気よりも重く破片だらけの床の上に溜まっていく。
皆が皆、責を負っている。
それはともすれば虚脱の穴に落ち込んでいくような事実の提示であったろう。
雫はしかし、軽くかぶりを振るとその重さを振りきった。床に座ったままのティゴールに歩み寄り自分も隣にしゃがみこむ。
少し見ぬ間に随分やつれてしまった男は、彼女に気づくと目を瞠った。
「お前は……」
「その節はすみません。雫と申します。この度は来て下さってありがとうございました。
 部屋は今こんなですけど、少し待っててください。姫はすぐ落ち着かれますから」
「だが」
「平気です。待っててください」
雫はファニートに部屋の掃除と怪我の治療についてそれぞれ人を呼ぶよう頼むと、自分は二、三探し物をしてから姫の寝室の扉を叩いた。大きくはない声で主君を呼ぶ。
「姫」
返事はない。だが雫はもう一度扉を叩いた。伺いというよりは確認を口にする。
「姫、入りますよ」
扉に鍵はかかっていない。
彼女が中に入ると、オルティアは寝台でうつ伏せになっていた。まるで死んでいるかのように微動だにしないが、動きたくないだけなのだろう。
雫は血が流れる主君の足元に跪くと、傷口をよく見る。
幸い深く刺さっているものはないようだった。彼女は残る細かい破片を針で取り除き始める。
本当はピンセットでもあればいいのだが、訳の分からないものがところ狭しと置かれている姫の部屋でも、さすがに似たものはなかったので仕方ない。
血を拭いながら丹念に破片を取り出していくと、寝台からくぐもった声が聞こえた。
「痛い」
「それは痛いと思いますよ。血がだらだら出てますから」
「何故魔法を使わぬ」
「使えないんです。魔法士の人は呼んでますよ」
「要らぬ」
「じゃあ、どうすれば」
雫はさらりと聞き返しながらも手を休めない。
ようやく全ての破片を抜ききり、濡らした布で血を拭き取ってしまうと、彼女は小さな足にきつく止血の布を巻いた。
オルティアは眠っているかのように反応しないが、そうではないことは雫には分かっている。無言で側に控えていると、小さな呟きが洩れた。
「やはり……駄目ではないか」
「何がでございましょう」
「過去のことは変えられぬ。妾は、兄上もティゴールも許せぬのだ。ならば……きっと妾もそう思われるのであろう」
何が原因で、何が悪かったのか。
それはもう昔のことだ。どんなに足掻いても変えられない。
ただ、罪は残る。憎しみも残る。
オルティアが幼い自分を裏切った二人を憎むように、他の多くの人間たちもオルティアを憎み続けるのだろう。つけられた傷を忘れない限りずっと。
既に連鎖してしまった負を巻き戻すことは出来ない。
自分の中の憎しみが強ければ強いほど、オルティアは自分に向けられる憎しみにも気づいてしまう。
―――― こんな自分がはたして女王となれるのか。
泣き言とも言えるオルティアの本音に、雫は眉を曇らせた。

同い年であるから分かる。それはきっと、まだ若い彼女には狂いたくなる程の重圧だ。
立場を変え、自分が同じものを負ったとしても雫は変わらぬ苦渋を抱くだろう。それが自分の罪の結果だったとしても。
膝をついたままの彼女は目を閉じる。
今まで自分が挫けそうになった時、誰がどのように声をかけてくれたのか、刹那いくつもの顔が頭をよぎった。
得難い友人であり、家族であり、もっと違う存在であった彼らに向かって、雫は言葉もなく感謝する。
そうやって多くの人々に助けられてきたからこそ、彼女には「今」があるのだ。
「姫」
「何だ」
自分に何が出来るのか。
連鎖するものはきっと、負だけではない。
分かっていても言葉にして聞きたいことが時にはある。
遠い世界のこの場所で、それが許されているのは何よりも幸運なことだろう。
「姫、どうぞ強く在って下さい。憎しみもまた当然であると、お受け止めください。
 あなた様が彼らを恨まれるように、あなた様もご自分の責を負う。それはもう決まっていることです。
 ―――― けれど姫が今、ティゴール卿に望んでいるのは何ですか?」
オルティアが過去の憎しみを復讐にしか変じられないのだとしたら、その時はきっと彼女に女王を務めきることは出来ないだろう。
憎悪のあまり目が眩み、自分への復讐に怯え、孤独な玉座の上で遅かれ早かれ自滅してしまう。
そうなってしまうくらいならば、逃げ出した方が余程いいのだ。
女王となるのではなくただベエルハースとティゴールに復讐をし、自分が傷つけた国を逃げ出せばいい。
そんな終わり方もある。それを否定することは出来ない。

だが……オルティアは、もっと別の道も選べる。雫はそのことを知っている。
国が憎いだけなら何故ずっと国の為に執務を行ってきたのか。それは彼女自身「王族の義務」を捨てたくなかったからではないのか。
今オルティアが望むものは、ティゴールに死を与えることでは、きっとない。
ならば彼女自身に望まれるものも―――― やはりそれだけではないはずなのだ。

雫はそれ以上は言わなかった。ただ黙って主君の答を待つ。
時間が許されるのなら、いつまでもそうしているつもりだった。
空気は既に淀んではいない。
風は、部屋の中でさえも通り過ぎていく。
動かないそれだけの時がやがて永遠にも感じられ出した頃、けれどオルティアはゆっくり起き上がった。白い布が巻かれた両足を見やる。
「……痛い」
「痛いでしょう」
「これでは歩けぬ。ティゴールをここに呼べ」
「はい」
雫は微笑しながら元の部屋に戻ると、恐縮するティゴールを姫の前へと連れ戻った。
オルティアは目前に跪き頭を垂れる男を見下ろす。
「ティゴール」
「殿下、私めはどのような責めをも負う覚悟で……」
「本当にその覚悟があるのか」
オルティアは、先程までの狂乱が幻であったかのように沈みきっていた。感情に動かされない琥珀の目が、かつて自分を裏切った人間を注視する。
ティゴールは肉の薄い肩を震わせながら女の問いに応えた。
「確かにございます。ただ……ロスタの民は全てあずかり知らぬことです。
 私はどうなろうとも構いませぬ。どうかご慈悲を……」
「分かった。ならばお前は、妾に仕えよ」
短い断定。
それは、静かではあったが戦慄する程の力に溢れていた。
ティゴールは落雷を受けたかのように顔を上げ、側で見ていた雫もまた瞠目する。
―――― 王族とは、生まれによって決定するのか、育ちによって作られるのか、彼らを知らない雫には判らない。
ただ王とは、王の精神とはおそらく意志によって選び取るものなのだ。
オルティアは決して望んではいなかったその精神を自ら負う。
強く在れと、それだけのあまりにも残酷な言葉を彼女はこれからずっと体現していくのだ。

ティゴールは目を伏せる。
深く刻み込まれた悔恨が刹那、瞳の中で溶けて消えた。彼は顔を上げると背筋を伸ばす。
年月が研磨した瞳には、だが今なお強い光があった。揺ぎ無いその視線がオルティアに真っ直ぐ注がれる。
「殿下……いえ、陛下。卑小の身ではございますがこの命にかけまして、あなた様に変わらぬ忠誠を」
そう言い切った彼の表情には微塵の迷いもない。名領主として誉れ高い男の毅然だけがただ見えた。オルティアは尊大に頷く。



複雑な感情と感傷を圧縮して出来上がる瞬間。
時の流れを確かに感じる転換の時に、雫はこうして立ち会う。
否応なく全ての人間を動かしていく流れの中、彼女もまたもがいていく。
その終点にある変化とは何であるのか、けれどいまだ雫は知らないままであったのだ。






高価な調度品ばかりが置かれた広い豪奢な部屋。だが室内の空気はそれらとは程遠い荒れ果てたものだった。
奥に置かれた大きな椅子には一人の男が半ば体を埋めるようにして座っている。
精彩のない顔つきの中で、ただその両眼だけが昏い怒りに満ちていた。呪詛に似た呟きが誰に言うともなく洩れ落ちる。
「オルティア……お前は本当に……」
ジレドが自殺したとの知らせはベエルハースのもとへも当然入ってきていた。
本当にあの男が彼を裏切っていたのかどうか、今となってはもう真実は分からないだろう。
どちらにせよ王は側近の一人を失い、オルティアは彼を退位させようと動き出している。
このまま手をこまねいていては遅かれ早かれ彼は玉座から追われ、一生を拭えぬ恥辱の中で過ごさねばならないことは確かだった。
ベエルハースは震える指を拳に握る。
「ただでは済まさんぞ、オルティア……」
どうすれば妹に掣肘を加え、自分が元の唯一の座に戻れるのか、彼は決して明敏ではない思考を動かし始める。
王の資格を問う十二家審議まであと六日。
それまでにどのような手段を使ってでもオルティアを引き摺り下ろしてやると、彼は一人、陰鬱な罵言をこぼしたのだった。