優しい指 126

禁転載

ベエルハースは「ティゴールを有能だと信じている者は愚かだ」などと言ってはいたが、事実彼は有能だと雫は思う。
ティゴールはオルティアに忠誠を誓ってから現在の状況を即座に把握すると、十二家の当主のうち面識がある者を選び出して交渉を開始したのだ。
キスク国内において、ティゴールとオルティアでは評判に天地の差がある。
オルティアを女王にと聞いて眉を顰める者は少なくないが、ティゴールがそれを支持しているとなると人々は改めてオルティアの有能さを再考するのだ。
更にベエルハースに能がないことと、王がティゴールを幽閉したことを知ると、彼らの評価はオルティアへと傾き、既にティゴールと交渉の場を持った当主の一人は「姫を支持する」との意見を表明してくれていた。

「そんなわけでいい調子でいってるんで、ドサドに謝りませんか」
「ドサドとは何だ」
「変態のファルサス国王のことです」
容赦のない中傷を真顔で言ってのける側近にオルティアは微妙な表情になる。が、深くは触れない方がいいと思ったらしい。
姫は手元の書類をそろえ直すと、「何度も言わせるな」と冷ややかに返した。
「いくら相手が相手でも城がろくに動かぬまま降伏しては、大国の名折れだ。
 それを不満に思う民も貴族もいるであろう。現に将や兵たちは自ら戦場に行くことを望んでおるぞ」
「でも死んじゃったらおしまいじゃないですか。回避できるなら回避する手段を探した方がいいですよ」
「お前がそれを言うのか……」
まるで馬鹿を見るかのような目を雫は無表情で受け流した。この程度でむきになっていては話は永遠に進まない。
他に誰も言わないなら自分を棚に上げてでも雫は反対を述べなければならないのだ。
「そりゃ勝てたらいいんでしょうけど、負けちゃったら不味いじゃないですか。傷口が広がりますよ」
「簡単に負けぬよう準備をしておるではないか。何も完勝しようとまでは言っておらぬ。
 敵にこれ以上の交戦は不利益だと思わせるくらい損害を与えれば、後の交渉もしやすい。
 今のままでは砦はおろかロスタまるまる払っても足りぬと言われるわ」
「……ああ」
本当はオルティアも、ファルサスと戦場で決着をつけることは避けたいのかもしれない。
だが今の彼女にはそれ程選択肢がないのだろう。内外共に敵があり自身に確かな礎があるわけでもない、紙一重の立場だ。
苦い顔になる雫に、オルティアは文官に返す書類を渡しながら淡々と付け加える。
「それに、妾は戦場に出るくらいのことをせねば玉座は取れぬ。城の奥から国政を操るだけだと思われたままではな」
「戦場に出られるんですか!?」
「当然だ。指揮は将のダライに任せるが、妾も行く」
それを聞いた瞬間、雫の頭の中には「危ない」「やめた方がいい」といういくつかの言葉が浮かんで弾けた。
けれど彼女は結局それらの言葉を全て飲み込む。
オルティアは今まで行ってきた負を少しずつでも清算しなければならない。それを雫も分かっているのだ。
「ですが……間に合うんですか? 十二家審議まで日がありませんよ」
審議まではあと五日しかない。この世界では魔法があるため国内の行軍は大して時間を要さないらしいが、それでも猶予はほとんどないだろう。
充分な戦果をあげてそれまでに戻って来られるのか、雫は心配を隠せなかった。オルティアはふっと窓の外を見やる。
「戻って来られるようにする。が、間に合わなかったら……」
遠い目。
その時姫は、何を思ったのだろう。
自分の過去かこれからの未来か。無残に訪れる死か、痛みに溢れる生か。
それは僅かしか雫と触れ合わない、共有することの出来ない幻影だ。
そんな風に誰しも自分だけの終わりを精神の根底に持っているのだろう。生まれた最初の時からずっと。
オルティアは視線を戻し雫を見つめる。
琥珀色の美しい瞳には決然があった。雫はその鮮やかさに刹那見惚れる。
「間に合わぬ時は、お前が代理だ。妾の為に玉座を獲れ」
ファニートはきっと姫についていく。ニケは表には出ない。
城に残るのはおそらく交渉を務める雫だけだ。そして、ティゴールよりも彼女の方が代理としてふさわしい。
「年若い小娘」としての不利を跳ね除けて賛同を勝ち取れねば、どのみちオルティアは女王として認められないのだから。
雫は年の変わらぬ主君に向って深く頭を下げる。
いつから本当の信を持ってオルティアに礼を取るようになったのかは分からない。だが、今の彼女は紛れもなく姫の臣下だった。
「必ずや、ご期待に応えてみせましょう。姫」
苦境に折れたりはしない。重圧も飲み込んでみせる。
足りない部分を補って衝突して、そうして自分の形を変えてきた二人は、いつか自分の力で自分の場所を作り上げるのだ。






城内における雫の存在は例外そのものであり、ほとんどの者から経歴不明の謎の多い人物として見られている。
オルティアに重用されている女。
最初は流行り病について対策をもたらし、そのせいか異国の学者と思われていた雫だが、最近はそれよりも姫の側近としての印象が強い。
元々の側近たちよりも主君に忠言を惜しまず、また交渉などの任も務めることから、彼女はもっぱらオルティアに近しい代弁者として一目置かれていた。
しかし、オルティアと同性で同い年である彼女の気質は、主君とは正反対に近い。
姫ほどの威や鋭さ、知識はないが、じっくり腰を据えて議論を交わし、最終的には相手から信を勝ち取る。
顔立ちだけを見れば小娘であることは明らかなのだが、実際に向かい合って話せば肝は妙に据わっており、 何よりも誠実には誠実を返してくることが相手を安心させた。残虐として知られるオルティアの中和剤のような存在が雫であり、 彼女は主君からの指示やティゴールの助言を得て、着実に当主たちとの交渉を重ねていったのである。



「いや、思っていたよりずっと若い。本当に十九歳かね」
「よく言われます」
十二家当主のうちの一人、セージ侯に面会するなりそう言われた雫は苦笑と共に挨拶をした。
実際外見の幼さを指摘されるのはよくあることであり、そのせいか交渉は大抵が、良くて子供に対するように、悪くて侮られての始まりとなる。
だが逆に言えば、雫の外見に対する反応によって、相手にもどういう態度を返せばいいのか見当がつく。
外見がどうであれ真摯に対応してくれる人間には真摯を、侮ってくる人間には威圧と利益を、雫は慎重に使い分けていた。
しかしセージ侯はオルティアやティゴール曰く、「食えない」人物であるらしい。
ティゴールは自分が交渉すると言ってくれたのだが、セージ侯の方が雫との面会を指定してきたことからもそれは感じ取れていた。
雫は抱えてきた書類を広げて彼に向けると、自分は日本語で書いたメモを手に取る。
「本日はお時間を頂き恐縮です、セージ侯」
「こちらこそ。屋敷にまで足を運んでもらってすまない」
紳士的に見える男の年齢は四十代半ば。常に崩さない笑顔は温和よりも隙のなさを窺わせた。
雫は緊張を表に出さないよう微笑みながら、男に向かって会釈をする。
「今回伺いましたのは……お分かりでしょうが、四日後の審議について、オルティア様への支持をお願いしたく参りました。
 現陛下はティゴール卿の一件からも分かるように、オルティア様を忌避し排斥したがってらっしゃいます。
 ですが、陛下に国を保つ力がおありでないことは明らかです。この数年間、オルティア様こそが執務を行ってらしたのですから」
「そのようだ。だがそれが長年埃を被っていた審議を呼び起こしてまで王を交代させるだけの理由に足ると、君は思っているのかね。
 王は必ずしも自身が有能である必要はない。現に言い方は悪いが陛下もオルティア様を使って国を治めてらしたではないか。
 長い大陸の歴史において名君であった王の方が少ないのだ。王たる者は臣下たちさえよく使えればよいと、私は思うがね」
セージ侯はそう言うと試すような目で笑いかけてくる。最初から挑戦的な態度を返されたことに雫は苦笑した。
「仰ることはごもっともだと、私も思います。
 ですがベエルハース陛下には大前提たる人を使う力が備わってらっしゃるかどうかは疑問です。
 現に此度のファルサス侵攻についても陛下は出兵を求めるオルティア様の意見を繰り返し退けられました。
 よき臣下が揃っていても彼らを十全に動かし、また最後の判断を下す為には王の器が必要でございましょう。
 平和が確約されている時代であれば、確かにベエルハース陛下もよき王であらせられるでしょうが、今は……」
「ファルサスが来ている。なるほど」
男は芝居がかった仕草で頷く。
雫が言うことなど彼にはとっくにお見通しのことなのだろう。
彼は雫の弁舌によって何かに気づかせて欲しいわけではなく、姫の側近がどういう受け答えを返すのか、それを見極めようとしているのだ。

「具体的にはオルティア様が女王になれば何が変わるのかね?」と言われ、雫は意識を切り替えた。
書類を示しながらオルティア即位後の政策について説明を始める。
まずは街道の整備。各領地への税の軽減、余剰資源を各領地間で流通させる為の体制の確立、 国営での幼児教育の徹底、東国のナドラスとの交易の強化などから始まり、軍備の変更や裁判についての法整備など一つ一つに過不足ないよう触れていく。 これらの中にはベエルハースの許可が下りなかった為、今まで手をつけられなかった変更もあるが、オルティアが「わざわざ手をつけるのも面倒だから」 と放っておいた懸案も混ざっていた。
それを聞いた時、雫は姫が勤勉でなくてよかったと、こっそり思ったのだが、今はどうでもいいことだろう。

雫は平静を装いながら、時折差し挟まれるセージ侯の質問に答え、その反応を窺った。
だが、男はこれらの政策に関し詳細を確認しながらも、さして感銘を受けた風ではない。
彼女は少し迷ったが、書類に記されていないことにも触れることにした。それはオルティアから直接許可を貰っていることである。
「なおオルティア様は、今まで城が所有していた直轄地についても、いくつか各領へと権利を委譲することを決定しております。
 セージ侯の領地側の森林もその一つです」
城や王族が直接所有している財産は、宝物だけに留まらず土地や鉱山なども多く含まれている。
だがそれらは今まで死蔵に等しい状態であったし、使わない土地を大事に抱えて持っているよりは諸侯への見返りとして譲り渡すことを姫は選んだのだ。
当主たちの中でも自分の利益が一番と思っている者たちは、大抵これを聞くといい顔をする。
他にもオルティアが未婚の女王となることに対し、配偶者の座が空白であることを示唆すると 、息子がいる当主は自分が将来大公となる想像をするのか、好感触を返してきていた。
雫自身は女王を売り物とするこの提案にトライフィナを連想し、どうにも気が進まないのだが、オルティア本人が「本当に結婚すると約束するわけではない。女王の夫になれるかもしれないと思わせればよいのだ」というのだから最大限利用した方がいいのだろう。
しかし、これに関してセージ侯は独り身である。
雫は一瞬、彼自身がオルティアの夫になりたがるかどうか男の表情から読み取ろうとしたが、相手は真意を掴ませない微笑を浮かべていた。
セージ侯は一通り説明を聞いてしまうと、顔を傾けて雫を見つめる。
「よく分かった。ありがとう。では―――― 話は変わるが、少し君について聞かせてもらいたい。
 君はいたく普通の人間に見えるが……何故オルティア様に仕えているのかね?」
それは或いは、城の人間皆が聞きたくて聞けないでいることだったのかもしれない。
雫は少し意表を突かれて、しかしすぐに微苦笑した。自分こそそれは何故なのだろうと思っていたからだ。
今までその疑問に言葉で答えたことはない。
だが、意識すればきっと届くことなのだろう。今の雫は自分が望んでオルティアの為に動いているのだ。
雫は膝の上に置いた手を握る。そう言えばオルティアの手を握ったことはないなと、ふとそんなことを考えた。
「私は……多分巡りあわせです。姫と出会ったことも、姫に仕えていることも。偶然が大きく左右した結果だと思っています」
もし、ファニートが雫についての話を聞かなかったら、彼女がファルサスに行かなかったら、そしてこの世界に迷い込まねば、 オルティアと出会うことはなかっただろう。勿論彼女の臣となって動くこともなかった。だから全ては単なる偶然で……けれど雫はこれでよかったと思っている。
「ですが、私が姫のお力になりたいと思っていることは確かです。
 あの方は確かにきついところもおありですが、最近は随分優しいところもお持ちですし。きっと聡明な女王になられます」
ほんの少しだけ相好を崩す雫を、セージ侯は目を細めて見やった。
彼は足を組みなおすと改めて彼女に聞きなおす。
「忠誠に足る方であるから仕えていると、そういうことか」
「はい」
「なら君は姫の為に、君自身を支払うことが出来るか?」

唐突に角度を変え突きこまれた問いに、雫は軽く目を瞠った。自分の中で何度かその言葉を反芻する。
見るとセージ侯は口元だけで笑いながら、彼女をじっと注視していた。
まるで雫を絡めとろうとするかのような視線。だがそれを受けても彼女は迷うことなく頷く。
「命でも体でも、それが必要でしたら」
「ほう」
「ただお渡し出来るものはあくまでも私自身に限ったことです。
 私を得ることによってオルティア様から優遇を受けられるかと言ったら、申し訳ありませんがお約束しかねます」
オルティアは、雫自身を交渉材料にせよとは言わなかった。むしろ「気をつけろ」と言ってくれたのだ。
だから、雫が自分を売ったと知れば怒るかもしれない。
けれどそれが体だけのことなら安いものだろう。かかっているのは玉座で、主君の未来だ。それに比べて自分の貞操など別に惜しむようなものではない。
―――― ただそう言えば変な紋様があったのだった。
これは一応断りを入れておかねばならないことだろう。雫が自分の体のことについて思い出した時、しかしセージ侯は声を上げて笑い出した。
目を丸くする雫に向って彼は右手を大きく振る。
「いや、冗談だ。君は可愛らしい女性だが、私に少女趣味はないのでね。
 少し、あの姫が君のような人間からどれ程忠誠を得ているのか知りたかっただけだ。失礼をした」
「……童顔で申し訳ありません」
「だが気に入った」
男の声から笑いが消える。力強い視線の中はいつの間にか雫を認める意思が見えた。彼女は思わずそれまで以上に姿勢を正す。
貴族としての優雅さを自然に体現する彼は、膝の上で組んでいた指を解くと雫を見たまま頷いた。
「オルティア様の要請についてはありがたく考えておこう。期待してくれて構わない」
「セージ侯……ありがとうございます」
「あとは、五年経って気が向いたら、また私のところに来るといい」
それは冗談なのか違うのか。
雫は黒い瞳を猫のように真ん丸にする。
そういう表情をするとますます幼く見える彼女に、セージ侯は肩を竦めると「いや、七年後かな」と笑ったのだった。