優しい指 127

禁転載

回廊から見える光景は壮観と言っていいものだった。雫は思わず熱い息をつく。
キスク城内にある広場、そこに今は数千の兵たちが整然と立ち並んでいた。体の急所を覆う金属の鎧が光を反射して海のように見える。
まるで映画のような情景。だがそれが現実であることは、肌に突き刺さる緊張感からも明らかだった。
「すごいなぁ……」
雫の呟きは誰にも届かない。やがて転移陣の準備が出来たらしく、兵士たちはゆっくりと動き出す。
地上に大きく描かれた円状の魔法陣に向って、完璧に統率された彼らは列を乱さず進んでいくと、次々その中に消えていった。
非現実的で、不思議な情景。だがこれは、この世界では当然のことなのだろう。
オルティアの出立までもう二時間しかない。彼女は手すりによりかかっていた体を起こすと、主君に挨拶すべくその場を離れたのだった。

ワイスズ砦陥落の知らせから三日。
オルティアは準備していた五万の兵を、予定通りワイスズ砦北のシサ河対岸に転移させるよう命じた。
河にかかっていた橋は砦が陥落してからすぐにオルティアの指示によって落とされている。
他国の大規模転移座標はファルサスであっても知り得ていないことは確実なのだから、砦を占拠したファルサス軍は河を越えて転移してくることは出来ない。 その間にキスク軍は対岸で戦闘準備を整え、再度砦南西に転移しなおしてからファルサス軍に攻勢をかけることになっていた。
偵察からの情報では、ワイスズ砦に駐留するファルサス軍は二万から三万といったところらしいが、攻砦戦になれば二万以上の兵力差も本来通りの効果は見込めないかもしれない。ましてやファルサスが転移を使って援軍を引き込む可能性もあれば、とてもではないが楽観視できない状況だった。

「姫」
雫が声をかけると、鎧を纏った女が振り返る。
普段は広げたままの髪を一つに縛り、胸から腹、肩と肘、そして膝から爪先までを白い金属鎧で覆ったオルティアは、何故か普段よりも愛らしかった。
手甲を嵌めた手を小動物のようにわきわきと動かしている。下に着ている服は魔法がかかっているのだろう、あちこちに複雑な紋様が見て取れた。
筋肉などほとんどないのではないかと思わせる細い体。全身鎧を纏わないのは彼女が重さに耐えられない為だ。
実質的な指揮を取らない姫は前線に出ることはないだろうが、かといって暗殺の可能性もないわけではない。
身の回りの危険に対し用心しておくに越したことはなかった。
「重いぞ、雫」
「重そうですね。代わりましょうか」
「断る」
実は一度影武者を務めることを雫は申し出たのだが、オルティアはそれを即答で却下した。
「前に出るわけでもないに、そんなことをしたら皆から笑われる」と言う主君に、雫は眉を顰めながらも引き下がったのである。

部屋の中に控えるティゴールがオルティアに最後の報告を始める。
彼女を王位につける為に必要なのは当主七人以上の賛同。
そのうちの四人は既に確約を取り付けることに成功し、三人は色よい返事を返してきていた。
あと三日の間にも交渉は重ねていく予定であるし、期間の短さを考えればまずまずの結果であろう。
もっともティルガ侯をはじめ、強硬的にオルティアの即位に反対する人間やベエルハースに忠誠を誓う者たちもやはり数名存在している。
油断できない状況であることは依然変わりなかった。
オルティアは全て聞き終わるとティゴールに頷く。
「では妾が城を空ける間もよろしく頼む」
「仰せのままに」
「雫も馬鹿はするなよ」
「何ですか、この落差は。しっかりやりますが」
雫が憮然とするとオルティアは含み笑いをする。一体自分はどう思われているのか、楽しそうな姫に彼女は唇を片端だけ上げて見せた。
「雫、お前はあの男が好きか?」
誰のことを指しているか確認するまでもない。雫は平然と切り返す。
「いいえ、まったく」
「なら首を土産にしてやろう。楽しみに待っておれ」
「あの人の首は要らないので、ご自分の首を大事になさってください」
今度はオルティアが憮然とする番だった。だが彼女は臣下の無礼な発言を咎めようとはしない。
ファニートを従え、傲然と顔を上げ部屋を出て行く。
―――― あと三日で、全てが決まる。
それは言葉に出来ない昂揚を雫にもたらした。一年前からは予想も出来なかった現状に苦笑が零れる。
ただもし今、元の世界に戻れるのだと言われたら。
その時はあと三日だけでも待って欲しいと、転移陣の中に消えるオルティアを見送りながら、雫は何とはなしに思ったのである。



オルティアと兵士たちが出陣してしまうと、気のせいか城はがらんとして感じられるようになった。
雫は人気のない廊下を歩きながら書類をめくっていく。
ティゴールは姫を見送ってすぐ、また別の当主のところへ出て行った。
彼がオルティアに庇護されていることをベエルハースも知っているのだろうが、自分が彼を幽閉したことが影で広まっているせいか特に何もしてこない。
王は王で当主たちに接触をしているらしいが、その動向の細かいところまでは彼女に伝わってきていなかった。
手書きの書類にチェックをつけて、雫は次の一枚に目を通し始める。
オルティアから教えられたキスク国内の王家財産についてのメモ。本来は禁閲覧の極秘資料なのだが、彼女はそれを日本語に書き直している。
これならば万が一誰かの手に渡っても解読しようがないからだ。
雫はどの交渉においても持ち出していない、残る財産のいくつかに目を通していくと、ふとその中の一つで止まった。
「あれ、こんなのもあるんだ。見てみたいな」
記録ではだがそれは王家の所有となってから、まったく人の手が入れられていないらしい。勿体無いと思いながら雫は何となくその横に星を描いた。
今日は夕方からもう一人、当主と会う約束を取り付けている。
当主たちは既に入城している者もいるが、まだ自身の領地に残っている者もいるのだ。後者は魔法の助けがなければ訪ねることが出来ない。
雫は時計を確認しようとポケットに手をいれた。だが時計を取り出す前に、彼女は廊下の角から急に飛び出してきた人影にぶつかってよろめく。
「うわ、すみません!」
書類を見ながらだったので、どうも注意力散漫になっていたらしい。雫が謝ると文官らしい服装をした相手は無言で頭を下げて走り去っていった。
彼女は改めて魔法仕掛けの時計を取り出す。
「うーん、一杯くらいお茶が飲めるかな。……いてて」
ぶつかった時に変なところでも打ってしまったのだろうか。雫はちくりと痛む脇腹を捻ると休憩室に向って歩き出した。
書類を全て見終わった頃、ちょうど扉の前に差し掛かる。すると偶然廊下の向こうからウィレットがやって来て雫に気づいた。
足を止める少女に雫は軽く手を振る。
「ウィレット、お茶飲む?」
「………………雫さん」
「何?」
何故だか少女はみるみるうちに蒼ざめていく。
一体どうしたのか問おうとした時、震える指が雫を指し示した。雫は首を傾げて自分の体を見下ろす。
―――― そして彼女は、自分の脇腹が真っ赤な血で染まっていることに、ようやく気づいたのである。

「うおわあああっ!?」
自分でも間抜けと思える声を上げて、雫は脇腹を凝視した。
いつから血が出ているのか、自分ではまったく気づいていなかったのだ。
彼女は痛みがほとんどなければこんなことはしなかったであろうと思うほど乱雑に、指で血塗れた服をかきわけ傷口を見つけ出す。
ぐっしょりと血に濡れた脇腹には、見間違いではなく刃物を真っ直ぐに刺しこんだのだろうと思われる傷跡があった。
その光景にくらりと眩暈を覚えて雫は倒れそうになる。
だが、実際床に崩れ落ちてしまう前に、叫びを聞きつけたユーラが休憩室から飛び出してくると雫の腕を掴んだ。
「雫さん!? 何ですか、これは!」
「さ、刺された……みたい、です」
痛みは感じない。
だが、意識が朦朧とし始める。
まるで穏やかな眠りに吸い込まれていくように重くなる瞼に逆らいながら、雫は「ニケいたら、呼んできて……」 と言うとそのまま気を失ってしまったのである。



意識を取り戻してから一番に雫が聞いたのは、予想通り「お前は馬鹿か」という吐き捨てるようなニケの声だった。
乱れてしまった前髪をかき上げつつ、彼女は長椅子の上に半身を起こす。
小さな休憩室にはニケの他に、ユーラとウィレットが心配そうに雫を覗き込んでいた。他の人間に体のことを知られずに済んで、彼女は内心安堵する。
脇腹の傷はニケが治してくれたのだろう。新しく着せられていた服の下を覗き込んでみたが、血も拭われおかしなところは何もなかった。
治療をした当の本人は冷ややかな目で雫を見下ろす。
「痛覚が麻痺すると俺は言わなかったか? 誰もいないところで倒れてたら今頃死んでたぞ」
「ご、ごめん。ぼけっとしてた」
「で、誰にやられた」
「…………顔見なかった」
「本当に馬鹿だな」
角でぶつかった相手は、思えば不自然に顔を隠しているような素振りだった。
だが、本職の暗殺者ではないのだろう。もしそうだったら雫の命はとうに失われているに違いない。
狙われる心当たりは充分ある。彼女はオルティアの側近なのだ。むしろこの状況で護衛もなしに歩き回っていることの方が無用心だった。
雫は「姫に連絡する」というニケの手を慌てて掴む。
「待って待って。内緒にしてて」
「阿呆か! 俺が怒られるわ!」
「後で一緒に怒られるからお願い! 姫も今大変なんだよ……暗殺者に気をつけてってだけ伝えて」
「ならもっと慎重になれ! 俺だって城にいたのはたまたまだ!」
頭から叱られて雫は首を竦めた。
まったくニケの言う通りだろう。自分が現在渦中の人物であるという意識が足りなかったのだ。
ここで死んでいたら誰にも顔向けが出来ない。雫は深く息を吐き出すと改めて頭を下げた。
「ごめん。不注意だった。気をつける」
「……もう一度こういうことがあったら薬はやらんぞ。自分で男を買ってこい」
「うわ。肝に銘じます」
苦い顔を崩さない男は手元から何かを出すと、彼女に放ってよこした。受け止めるとそれは小さな指輪である。
水晶がはめ込まれた指輪を雫は不思議そうに眺めた。
「何これ。綺麗」
「守護の魔法具だ。あまり強力な攻撃は防げないが、この程度なら相殺するだろう」
「あ、前にエリクに同じの貰ったことがある」
「そうかそうか」
「ああああああ、何で!」
本当のことを言っただけなのに何故か耳を激しく引っ張られた。痛くはないがおかしな感じがして雫は両耳を押さえる。
何か不味いことを言ったのだろうか。効果だけで「同じ」と言ったのが問題だったのかもしれない。
雫は短い間にそう結論づけるとあやふやなフォローをいれた。
「うん。同じじゃなかった。水晶細工じゃなかったし」
「……水晶はよく魔法具の材料にされる。質のよさがそのまま魔法具の出来に直結するんだ。
 ただ一時期魔法具が爆発的に作られた時代に消費されすぎて、最近は未加工の純水晶はあまり出回っていないがな」
「へー。あんた物知りだね」
「魔法士を何だと思ってるんだ」
「知識階級?」
「そうとは限らん。色々いる」
ニケは雫が指輪を嵌めたのを確認すると、「俺はこれから城を空けるからな」と念を押して休憩室から出て行った。
その背から察するにどうも彼を怒らせてしまったようだ。雫は改めて不注意を反省する。
ティゴールなどはベエルハースを用心しているのか、自分の部下と常に行動を共にしているのだ。
その点大抵一人の雫が狙われたのももっともに思えた。

雫は椅子から立ち上がると大きく伸びをした。倒れる直前は出血しすぎたかとも思ったが、別に気分は悪くない。
心配そうに見てくる女官二人に向って彼女は笑いかけた。
「ごめんなさい。おかげで助かった。ありがとう」
「雫さん! 吃驚したんですよう!」
「あはは。あれは驚くよね」
飛びついてくるウィレットを抱きとめながら雫は苦笑する。
廊下を血まみれの人間が歩いてくるとは実にホラーな光景だっただろう。自分が彼女だったらもっと悲鳴を上げていたかもしれない。
雫は謝って顔を上げると、ふとウィレットの肩越しにユーラを見た。彼女は無言で笑っている。
―――― 笑ってはいるが、目は笑っていなかった。むしろ据わっている。
彼女の纏う空気の険しさに雫は硬直した。今更血が足りていないかのように顔色が青くなる。ユーラは満面の笑みで口を開いた。
「雫さん、大事がなくてよかったです」
「あ、ありがとうございます……」
「ところで、失礼ながら服を替える時に体を拝見してしまったのですが」
「………………はい」
「あの紋様はなんでしょう。ニケさんが仰ってた『薬』って何のことですか」
「な、なんでしょうね……」
一番見られては不味い人間に見られてしまったのかもしれない。
雫はその後ユーラに散々絞られた挙句、「言えない言えない」と言って何とか逃げ出すまで、ゆうに交渉五回分ほどの精神力を消耗する羽目になったのだった。






ワイスズ砦の執務室。その白い石壁に適当きわまりない落書きを描いていた男は、報告を携えた部下の訪問を受け手を止めた。
青い塗料をたっぷり湛えた壷を手に、ラルスは報告に耳を傾ける。
「キスクがついに動いたか。鈍重だな」
「城では現在王と王妹が玉座を巡り争っているようでして。軍を挙げたのは王妹の方です」
「兄妹で争ってるのか。覚悟が足りんぞ」
兄妹間でどういう覚悟が要ると言うのか。
報告を持ってきた魔法士は疑問に思ったが、この王にしてあの王妹ありなのだから覚悟も必要なのかもしれない。
ラルスは「オルティアは戦場に出てきているのか」と問い、肯定を返されると不敵に笑った。
「よし、なら捕まえて懲らしめてやろう。歪んだ性根を叩きなおしてやる」
自分を棚に上げている、とその場にいた人間たちが思ったかは定かでない。
ただ妙な沈黙だけが一瞬部屋を支配した。魔法士は気を取り直すと自分の仕事を再開する。
「もう一つ、報告がございまして」
「何だ?」
これから戦うであろうキスク軍とは直接関係しない知らせを、王は眉を顰めて聞き出した。
別件で調べさせている懸案。
それを全て聞いてしまうと、彼は「少し急ぐか。契約違反になりそうだ」と面倒くさげに呟いたのである。