優しい指 128

禁転載

草原に風は吹いていなかった。オルティアは馬上から曇天を見上げる。
雲は厚いがすぐに雨が降り出すということはないだろう。
ただでさえ鎧が重くて動きにくいのに、この上雨など降られたら煩わしいことこの上なかった。
生まれて初めて見る数万規模の行軍に彼女が気を取られていると、隣に馬を並べるファニートが囁く。
「姫。まもなくワイスズ砦が見えます」
「ああ」
河向こうから転移したキスク軍は、カリパラの街とワイスズ砦を結ぶ直線上、ワイスズ砦近くを進軍していた。
砦を奪ったファルサス軍は情報では二万強の兵力を保持しているというが、転移を使って援軍を引き込まないという保証はない。
そうなる前に五万の兵でファルサスを叩く。
言うは簡単であるが、相手方に砦がある以上そう上手くはいかないだろう。
「ファルサスは砦を落とすのに外に軍をおびき寄せ、その間に手勢を我が軍の伝令と偽って中に侵入させたらしいな」
「そのようで。結界の書き換えも行われたという情報ですが。本当だとしたら空恐ろしいことです」
「必要以上に魔法に頼ると危うくなるということだろう。魔法ではファルサスに敵わぬ」
オルティアの声は暗い世界に澄んで落ちる。
ファニートは姫の言葉に一瞬息を飲んだが、何事もなかったかのように再び手綱を操り始めた。

かつて防御結界が敷かれていた範囲。その少し後ろに布陣したキスク軍は自国の砦であった建物を視界に入れる。
今はあの砦に敵国たるファルサスが駐留しているのだ。
そして彼らに相対するキスク軍は、砦を取り返しファルサスを国外に出すことを目的としている。
全軍の指揮を執るダライ将軍は、本営のオルティアに頭を下げ方針を陳情した。
姫は砦に強攻するという説明を一通り聞いてしまうと、年に似合わぬ堂々とした微笑を見せる。
「分かった。戦場においては妾は卿の足元にも及ばぬ。よろしく頼む」
若く美しい王妹にここまで言われてやる気にならないはずがない。
ダライをはじめ武官たちは意気も高く魔法防壁を展開させながら、砦へと接近し始めた。
距離を縮めていくにつれ、高い壁の上に見張りの人間が立っているのが視認できるようになる。
その中には魔法士たちもいるのだろう。牽制程度の魔法がいくつかキスク軍へと打たれた。
だがそれらの魔法はどれも防壁に当たって消えていく。余程大きい魔法でもない限り、単独の魔法士が放つ攻撃は距離と威力が反比例するのだ。
「よし、止まれ! 攻城火だ!」
南東から西の方角にかけてワイスズ砦をキスク軍が半包囲すると、ダライは計画通り次の命令を出す。
その指示に従い、兵の後ろに配備されていた魔法士たちが詠唱を開始した。
三人一組で構成される攻城用の巨大な炎球。それらが空中に十数個生み出される光景は圧巻としか言いようがない。
軍の後部にいたオルティアは燃え盛る炎を見やって「たいしたものだ」と感嘆の声を上げた。
本音を言えばワイスズ砦はキスクの財産だ。あまり壊すようなことはしたくないのだが、そうも言っていられない。
ダライは砦の巨大な建物をきつく睨むと、攻撃を命じた。
「打て!」
炎球はその声と共に空を切って砦に向うと、壁や門に到達する。
数秒遅れてそれらは轟音と共に爆発し、黒い煙が沸き起こった。
「第二射、用意!」
再び作られる攻城火。
だがそれが完成するより早く、砦の方角から何条かの光が走った。もっとも早く事態に気づいた者が叫び声を上げる。
「不味い! 防げ!」
けれど忠告も間に合わず、それらは作りかけの攻城火に突き刺さった。
攻城火そのものが魔力の誘発で破裂し、キスク軍の只中で爆発が起こる。
魔法士たちの体が軽々と吹き飛び、周囲にいた馬がいななきを上げて崩れ落ちた。焼け焦げた肉片が草の上に飛び散る。
しかしそれで全ての攻城火が破壊されてしまったわけではない。ダライは悲鳴を上回る怒声を張り上げた。
「怯むな! 打て!」
打ち出された炎球の一つは、狙撃者がいたのであろう見張り塔に到達した。天に響く振動をあげてその先端を粉々に砕く。
他の炎は再び門に命中し、先程破壊して出来た穴を更に広げた。
魔法士たちは攻城火の構成、負傷者の治療、対狙撃の撃墜や結界に追われ、広い草原は一気に騒然とする。
「第二次ワイスズの戦い」はこうして、まずは遠距離魔法の応酬から始まった。

時折爆風に乗って細かい石片が顔に当たる。
オルティアは軽い痛みをもたらすそれらを腕を上げて遮った。人馬の大軍の遥か向こうに座する砦を見上げる。
「静かだな……」
「は?」
姫の言葉を聞いて思わず間の抜けた声を上げてしまったのは若い護衛の兵士だった。彼はオルティアと目が合うと慌てて「申し訳ございません!」と叫ぶ。
だが彼女は気にしていないことを示す為に、軽く片手を振った。
「いや、確かにファルサスも応戦はしているが、魔法だけであろう?」
「それは兵数に差がございますし、篭城するつもりなのでしょう」
「そうなのか。あの男ならまだるっこしいことをするより援軍を呼ぶと思ったが」
ラルスの性格については、ダライ将軍よりも余程オルティアの方がよく知っている。彼女は国政を通じて何度か例の国王と渡り合ってきたのだ。
そつのない采配、広い視野、先見性、寛大な処置。
一見名君に見えるそれらの政務の影に、だが見え隠れするファルサス国王の気質は主に気まぐれと大雑把、冷徹と子供じみたこだわりという矛盾に満ちたものだ。
ニケなどは偵察報告を適当に省いて伝えてくるが、たまに退屈で全てを話させると、ラルスのろくでもない話が混ざっていたりする。
ファルサスとキスク、両国にとって隣国であるガンドナの式典で彼と直接顔を合わせたこともないわけではないが、よく他国の姫君に囲まれている男と、人との応対を煩わしがってすぐに逃走してしまうオルティアでは話をすることはほとんどない。何にせよ「あの」雫から嫌われているのだから、どういう性格の人間なのか大体想像もつくというものだった。
「これで交渉が有利になればよいのだがな」
向こうから降伏までさせるのは難しいだろうが、ある程度損害を与えてしまえばラルスも交渉の要請を受諾するかもしれない。
あの男をつけあがらせずに対等の話し合いにまで至ることが出来れば、その先は自分の仕事だ。
武人である若い兵士はオルティアの独白に不思議そうな顔になる。だが今度は何も言わなかった。
王妹は徐々に破壊されつつある門を見つめる。
門が破れれば、ダライはそこから兵士たちを砦内に侵入させるつもりだ。だが、間断なく打ち込まれる魔法がそれを妨害し続けている。
―――― このままどれくらい時間が経てば、決着がつくのだろう。
そんな感想を彼女が抱いた時、だが停滞する時間をどよめきが打ち破った。
「ファルサスの援軍だ!」
という驚愕の悲鳴。
波のように連鎖していく叫びに気づいてオルティアは背後を振り返る。
彼女の視線の先に伸びる広い街道。森の傍を通るその道を横断していく騎兵の列。
そこにはいつの間に現れたのか、キスク軍の退路を塞ぐかのように布陣を開始するファルサス軍の姿があったのだ。



背後に現れた新手の軍勢。
それはキスク軍に挟撃されるかもしれないという不安をもたらした。ダライは砦と背後、どちらに攻撃を向けるか迷う。
制圧したいのはファルサス王がいるであろう砦だ。
だが、これには時間がかかる。その間に背後のファルサス軍に食いつかれれば大きな損害を被る恐れもあるのだ。
彼は短い間に判断を下すと砦を中心として右回りに、北西方向へ急いで進軍するよう指示した。
前後の敵とそれぞれ戦うよりも、一旦移動して戦場を変え、各敵と順番に当たることを彼は選択したのだ。
しかし、ファルサス軍は当然ながらそれを黙って見過ごすような真似はしなかった。
ファルサスの騎兵たちは速度を上げると、移動し始めたキスク軍の背に向って攻撃をかけ始める。
それに応戦する兵士たちとの間で、草原にはまたたく間に混乱が生まれた。

「殿下、こちらに!」
ひしめく兵たちの間を縫ってオルティアと護衛の騎兵たちは、ファルサスの攻勢から逆の方向へ逃れようとする。
姫の一行は布陣した軍の後部にいた為に、かえって現れたファルサス軍近くに位置することになってしまったのだ。
だが、先陣を切ろうとした若い兵士の叫びは逆効果でしかなかった。
「殿下」の呼称を聞きつけたファルサス兵が何人か抜き身の剣を手に馬を駆って来る。
ファニートはそれに気づくと素早く手を伸ばして姫の馬の尻を叩き、速度を上げさせた。
前方からダライが指示したのであろう、オルティアを守り逃がす為に兵たちが走り寄ってくる。すぐ隣を並走するファニートが主君に囁いた。
「姫、このまま抜けます」
「……分かった」
オルティアは周囲に押されるようにして前進しながら、間近に迫る敵兵を振り返る。
だがすぐにキスクの兵たちが追ってくるファルサス騎兵の前に割って入った。剣戟の音と、斬り捨てられた人間が落馬する音が重なる。
その間にもオルティアたちは馬足を緩めない。
たちまち遠ざかる戦闘の場。
彼女は三度目に振り返って―――― そして琥珀色の瞳を見開いた。
長剣を振るってキスクの兵を切り捨てた男と、刹那目が合う。
飾り気のない鎧。何の変哲もない馬。だが、見覚えのあるその瞳。
感覚が理解を呼び起こすまで、ものの数秒もかからなかった。オルティアは全力で手綱を引く。
急に止まった姫に慌てた護衛たちが引き返すより早く、彼女は叫んだ。
「騙されるな! 援軍など来ておらぬ!」
細い指がファルサス兵の一人を指差す。
「あの男がファルサス国王だ! 捕らえよ!」
キスクの人間誰もが一瞬呆気に取られた、その空白にけれど、指された男は余裕の笑みを浮かべる。
男はそれまで持っていた剣を投げ捨てると、代わりに鞍につけていた鞘から別の剣を引き抜いた。両刃の剣は曇りなく輝きを放つ。
「よく気づいたな、オルティア」
―――― ファルサス王の証たるアカーシア。
ラルスは本当の愛剣を携え手綱を取ると、自軍に改めて、息巻くキスク軍への攻撃を命令したのだった。



「あの女を捕らえた者には褒美を弾むぞ」
若きファルサス国王は自分も狙われる立場であると分かっていないのか、軽く自国の兵をけしかけると自ら前に出ようとした。
だが、オルティアに鼓舞を受け、また謀られたことに気づいたキスク兵たちが前線に向って押し寄せる。
お互いに相手の王族を手中にしようと、乗り出しぶつかりあう兵たちで、たちまちその場は混戦となった。
ラルスは突進してくる兵たちをアカーシアでしばらく黙々と切り捨てていたが、北西に離脱しかけていたキスク本軍が戻って来るのに気づいて眉を顰める。
「まったく。ばれるのが早いぞ。嫌な女だな」
「だから陛下は後方にいらしてくださいと……」
キスク軍が接近しているとの情報が入った時、ラルスは砦内の兵のほとんどを南西の森の影に転移で移動させることを決定したのだ。
砦に残っているのは一部の魔法士のみであり、彼らが応戦することでまだ兵たちが中にいると思わせる。
その上でファルサスは自軍をあたかも本国から転移してきた援軍のように見せかけて、倍以上の兵数を持つキスクを混乱に陥れようと考えたのである。
けれど、成功しかけた策もオルティアがラルスの存在を看破したことにより水泡に帰してしまった。
ハーヴから白い眼で見られながら、王は見えなくなったオルティアの姿を探して戦場に視線を巡らす。
小細工が失われれば、ファルサスとキスクでは動員している人数が違うのだ。
ラルスは前線を柔軟に指揮しながら敵の攻勢を受け止めていたが、ふと曇天を見上げると呟いた。
「そろそろいいか。ハーヴ」
「かしこまりました」
王の命を受けてハーヴは砦内に魔法で連絡を取る。
壁上にて魔法の応酬をしていた魔法士たちとはまた違う、奥まった一室にいる男がそれを受けて頷いた。
彼は右耳の蒼玉に触れながら、その場に集まった十人の魔法士たちに指示を出す。
「方角は北西から南。強度と範囲、許可者は変更なし」
魔法士たちはそれぞれが詠唱を始めると、既に用意されていた構成を操作し出した。構成射出の核たる部分を指揮者である男が担う。
彼は壁に閉ざされた部屋の先、そこに広がる戦場が見えているかのように目を細めた。核に向って滾々と魔力を注ぎ始める。
「それでは、展開を開始する」
布を広げるかのように砦外に向って放たれた構成。
それは不可視でありながら綺麗な扇状に広がると―――― 一瞬で範囲内におけるキスク軍の魔法を封じたのである。






雫が襲われたとの話を聞いた時、ティゴールは蒼ざめて彼女の体を心配してくれた。
このように直接的な手段が行使されたということは、間近に控える十二家審議と関係があるに違いない。
二人は暗殺を指示した犯人として同じ人間を思い浮かべたが、その名を口にすることはしなかった。何処で誰が聞いているか分からないからだ。
トラスフィの制限がかかっている雫は、自分から紋様のことは話せない。
その為「何故すぐ刺されたことに気づかなかったのか」という問いに、少し戸惑ったが「腹痛を緩和する魔法薬を飲んでいたから」と答えた。
ティゴールは苦い顔を一息吐いて和らげると雫に苦笑してみせる。
「ともかく気をつけなさい。これから先、誰が何をしてくるか分からない」
「はい」
「審議についてもこのままいけば過半数は取れそうだ。だが……」
彼はそこで口ごもる。怪訝に思った雫はだが、その理由を聞こうとはしなかった。自分でもすぐに思い当たったからだ。
―――― オルティアの勝利が確定しつつあるのに、ベエルハースがこのまま黙っているだろうか。
二人は同じ懸念を抱えたままそれぞれの仕事に戻っていく。
その懸念が杞憂で終わらず、筆頭当主の一人、ラドマイ侯の何者かによる殺害という形で現れたのは、十二家審議が行われる前日のことだった。

ラドマイ侯の死について雫が報告を受けたのは、彼女が朝の仕事を済ませて遅い食事を取っていた時のことである。
よく焼かれたパンに蜂蜜を塗っていた彼女は、知らせを聞いてそのまま匙を蜂蜜瓶の中に落としてしまった。知らせを持ってきた文官に聞き返す。
「え、本当ですか?」
「はい……。寝台で亡くなっているのをお付の方が発見致しまして。どうやら寝酒の中に毒物が仕込まれていたようです。
 現在調査も行われていますが……」
「そ、うですか。ありがとうございます」
突然のことに驚く気持ちは勿論あるが、面識のある人間の死を悼みながらも「困ったことになった」という思いは拭えない。
ラドマイ侯は孫の教育に関わる取引にてオルティアにつくことを約束していたのだ。
筆頭たる三家当主のうちの一人ということもあり、彼の不穏な死の影響は大きいだろう。
雫は食事を中断すると、ティゴールに会いたい旨を文官に連絡してもらう。彼も事件の話を聞いていたのか、返事はすぐに戻ってきた。

「正直非常に不味い状況だ」
雫が訪ねていくと、ティゴールは深い溜息をついた。眉間の皺が深くなっているのは気のせいではないだろう。
「ラドマイ侯の酒に誰が毒を仕込んだのかは分からないが、それがオルティア様の命ではないかという噂が流れている」
「ええ!? だってラドマイ侯は……」
「そう。こちら側だった。だがそれは取引によるもので、その点で意見の相違が出たと思われているのだ。
 勿論逆に、ラドマイ侯がオルティア様に味方しているのをよく思わない人間がやったのではないかとの見方もあるが、やはり殿下を疑う者もいる。
 どうも誰かが風評を操作したのだろう。レマ侯やリヤス侯は支持を取りやめる恐れがある」
「姫は戦場にいらっしゃるんですよ! なのにそんな!」
五万の兵と共にワイスズ砦へ向ったオルティアは、かなりの苦戦を強いられているらしい。
砦を攻めているところで退路に現れたファルサス軍を新手の援軍と思わされ、混乱したところに「構成禁止の防御結界」を敷かれたらしいのだ。
以前はキスクがファルサスの魔法を封じる為に用意した構成を、ファルサスはそのまま一帯に張り返してきた。
これによりキスクは全軍の三分の一以上を失って砦付近から敗走し、更に南西方向へ移動しているという。
幸いオルティアは無事らしいが、ファルサスは彼女を捕らえようと追撃の軍も出している。
もう転移で城に戻って欲しいと雫などは思うのだが、一度打ちのめされた軍には精神的支柱として彼女の存在が必要らしく、昨日の夜に「まだ帰れない」という連絡を聞いたきりだった。

だがそこまでして必死になっているオルティアに、このような事件の疑いが向くなどどうかしている。
十中八九ベエルハースの手引きによるものだろうが、厚顔にも程があると雫は怒鳴り散らしてやりたかった。
「ラドマイ侯のいなくなられた分はどうなるのです?」
「息子が埋める場合もあるが、今回は急なことだ。空席のまま審議されると思う」
―――― それでは票が足りないかもしれない。
雫は僅かに蒼ざめたが、そのまま落胆することはせずに立ち上がった。広げた書類を胸の中にかき集める。
「当主の方々ってもう全員城にいらしてますよね? 私、ちょっと話してきます」
「駄目だ」
「何でですか。まだ間に合いますよ!」
まだあと半日もあるのだ。それまでにオルティアへの誤解を解いて支持を頼み直せばいい。
なのにティゴールが何故それを止めるのか、彼女は理解できずに首を傾いだ。
彼は力なく首を左右に振ると、苦味だけを瞳に湛えて雫を見上げる。
「今回の事件を受けて、当主への審議に関わる一切の面会が禁止された。
 キアーフ侯は反対したが……陛下とティルガ侯の賛同があってはそれが国の決定だ。我々は動きを封じられた」
「…………そんな」
視界の隅から暗闇が侵蝕してくるような錯覚。
雫は翳を帯びる世界に頭痛を覚え、こめかみを押さえた。ティゴールの溜息が聞こえる。
十二家審議はもう明日。
長年キスクの城に淀んでいた因縁の、決着をつける時がすぐそこに迫りつつあった。