優しい指 129

禁転載

街がみんな燃えていました。
火がそこかしこに手を伸ばし、建物も人も天も全てを焼いていました。
嫌な臭いがします。これは血の焼ける臭い、肉の焦げる臭い。
まるで全てが腐ったような死の臭い。慈悲などどこにもありはしません。
遠くで悲鳴が聞こえます。馬のひづめの音も。
嗚呼。
すぐ、すぐに逃げなければ、またあの人が来る。
あの人がやって来る。






ファルサスによって魔法を封じられたキスクは、一度はその混乱の只中で多くの兵を失ったものの、ダライの指揮の結果、何とか結界内から脱出することに成功した。しかし離脱した時点で当初五万いた兵は三万にまで減らされており、また依然存在する結界によって再度の攻撃をかけることが出来ない。
それどころか勢いに乗ったファルサスの追撃に、態勢を整えられないままのキスクは幾度となく後退を重ねる羽目になっていた。
はじめ転移してきた南西の地点より更に南西方向へと下がったキスクは、すっかり日が落ちた暗闇の中、自軍の状況を把握する為軍内に伝令を走らせる。
ファルサスの策と魔法技術にいい様に翻弄され、ダライをはじめ集まったキスクの武官たちは忌々しさにすぐには何も言えなかった。
そんな彼らを見回し、オルティアは口火を切る。
「卿らにも後悔や反省があるとは思う。だが、今聞きたいのはこれからについてのことだ。
 短期間のうちに砦を陥落せしめる方策がある者は階級の上下を問わぬ、今すぐ名乗り出よ」
叱咤に似た王妹の言葉に一同は息を飲む。失意に片足を踏み込みかけていた者たちは、僅かに覇気を取り戻しかけた。
だが、それでも現実は厳しい。
誰一人口を開くものがない状況に、オルティアはややあって苦笑を浮かべた。
彼女はけれど臣下たちを咎めることはしない。代わりに中央に広げられた地図の一点を指差す。
「ならば妾の意見を聞いて欲しい。
 ファルサスは現在ワイスズ砦に侵攻軍の拠点を置いているが、それとは別に軍を配した場所もある。
 ここより南西に下ったところ―――― カリパラの街だ」
それは勿論全員が知っていることである。当初はカリパラの占拠こそがファルサスの第一目的だと思っていたのだから。
あの時はまさか砦まで取られるとは考えもしなかった。男たちは現状の苦さを思い出して顔を顰める。
オルティアは重くなる空気を無視して続けた。
「砦が取り戻せるならそれに越したことはないが、このままでは被害の方が大きくなる可能性もある。
 それよりは、少数の軍しかおらぬカリパラの街を奪還すれば、それを取引材料にすることが出来るのではないか?
 ファルサスにしても援軍を呼ばないのは、これ以上侵攻の規模を大きくしたくないのだろう。
 カリパラと砦を交換するか、カリパラを奪取しにファルサスが砦の軍を動かした隙を狙うか……。
 どちらにせよ砦に攻撃を仕掛け続けるより、別の道が拓ける」
戦術には疎い王妹の戦略的な意見を、武官たちは咀嚼するように黙って聞いた。ややあってダライが発言を求める。
「それは、上手く働く可能性もあるでしょうが、カリパラの街は国境近くの街です。ファルサス本国より援軍を呼ばれては……」
「援軍を呼ばれて困るのは、いつ何処であっても一緒だ。転移があるのだから可能性を言ったらきりがない。
 だとすれば成果をあげやすい場所を狙った方がよいだろう。ここからなら通常行軍でも一日半あればカリパラに到着する」
城の奥深くに咲く妖華。
そう思われていたオルティアの顔は、今は砂埃に汚れ髪にも艶がない。
だが琥珀色の両眼だけはまったく輝きを失わず、強い意志が見て取れた。
想像していたのとは大分異なる王妹の姿に、若い武官たちはつい視線を吸い寄せられてしまう。
今の彼女は血と汗の洗礼を受けてはいたが、宮廷の閉ざされた部屋でまどろんでいる時よりもずっと美しかった。

ダライは改めてオルティアの貌を見つめる。
二日後には十二家審議が行われるのだ。
本来ならば彼女はこんなところで命を危険に曝していていいはずがない。
たとえこの行動が、女王に名乗り出た彼女の意思表明そのものだとしても、もう充分過ぎるくらいだろう。今すぐにでも城に戻ったほうがいい。
だが―――― 姫自身がそれを望んでいないことは明らかだった。
全体の士気をその背に負うオルティアは、地図から顔を上げて一人一人を見つめる。
「どうだ? 妾は戦に関しては若輩ゆえ、思うところがあるなら遠慮なく申せ」
意見を求める彼女の顔は気高くはあったが、高圧なところが一つもなかった。しばらくして一人の武官がためらいながらも口を開く。
「殿下のご意見は一理あると存じます。……ですが、国内の要所たるワイスズ砦と、カソラの街であるカリパラが同列になり得るでしょうか。
 今回のことがなくとも火種の多い街です。このままファルサスの手に渡して置いた方がキスクとしても……」
「カリパラはキスクの街だ」
きっぱりとした言葉。
オルティアの断言は明瞭ではあったが、不思議と無彩色を連想させるものだった。背後に控えていたファニートが息を飲む。
過去のことは極秘に処理された事件であったのだ。この場において、オルティアとカリパラの因縁を知る者はファニートを除いて誰もいない。
彼女は昏い目で地図上の街を見つめた。
「カソラの民が住む街であっても、カリパラはキスクの街でもある。何の手出しをせぬままファルサスに渡すわけにはいかぬわ。
 それに……ファルサスにとってはロスタの深くにある砦よりも、あの場所は利用価値が高いものかもしれぬ。押さえておいて損はない」
最後の言葉はいかにもオルティアらしかったので、発言した武官もほっと息を吐いた。姫はその気配に気づいて薄く笑う。
―――― 復讐というならこれが、復讐になるのかもしれない。
かつて自分を犠牲に守られた街を、今度は自分がファルサスへと売り渡す。
国同士の交渉の駒として、カリパラは略奪され征服され引き渡される。
責のない争いに翻弄され国を変える街に対し、オルティアは何の感情も抱けない。
どうとも思えないのだ。まるで命のない概念だけを相手にしているように。
これを雫が聞いたら何と思うのだろうか。
彼女は星の見えない夜空を仰ぎ見る。
次々賛同の声が上がり始める中オルティアは眉を寄せると、何も言わずにただ両目を閉じたのだった。






砦前から敗走したキスク軍は夜陰に乗じてカリパラに向い進軍し始めた。その知らせを受けたラルスは皮肉な目になる。
「いかが致しましょうか。先回りして叩きますか?」
「いや。その必要はない。向こうからすると砦の方が欲しくて仕方ないだろうからな」
「ではアズリア殿には」
「負けそうになったら引き上げろと、伝えとけ」
伝令の魔法士が出て行くと、ラルスは昨日の被害に改めて目を通し始める。
そろそろ侵攻も潮時だろう。キスクも戦では勝てないと思い知ったに違いない。
明日開かれるという王についての審議、その結果次第ではすぐにでもキスクはファルサスに交渉を持ち出してくると、彼は踏んでいた。
彼は本国からの書類―――― 国内にて貴族の不穏が相次いでいるという妹からの報告を一瞥して微笑する。
「さて、オルティア。お前はどちらの国でもないあの街をどうする? 
 ……正直まだファルサスの手には余るんだがな」






転移を使い街から街へ、国から国へ渡り歩いていると、色々なことが見えてくる。
だが今まではそれらはみな、姫を愉しませる為の一手段でしかなかった。
より破滅的な選択を免れる為に、小さな揉め事を伝え、油を注いで火を広げ、彼女の退屈を拭う。
そんなことを別の女に洩らした時、女は「まるで千夜一夜みたいだね」と言ったが、どういう意味だかは今も分かっていない。
「そろそろ王を呼び戻して貰いたいんだが……」
何度目かの領主との密談。
それを終えて小さな町の酒場へと出たニケは疲労に満ちた息をついた。他に誰も聞いていないことをいいことに盛大にぼやいてみる。
以前はちょっとした不穏の種を姫の娯楽の為に集めていた彼だが、今はそれを少し変え、自らの裁量でファルサス国内の揉め事を煽っていた。
既に城に不満を持つ貴族の何人かを指嗾し、問題を起こさせているがそれでも足りていない。
何故こんなことをしているかというと、それは単にラルスをキスクから呼び戻させることが目的だった。
現在キスク国内にて猛威を振るっているファルサス国王。彼の弱点は、同僚の言葉を信じるなら「人参と妹」らしい。
まったく阿呆らしいと思うのだが、現状王に代わって政務を行っているのはレウティシアだ。
ならば少しずつ彼女が処理する案件を増やして負荷を与えてやれば、兄王は妹可愛さに帰ってくるかもしれない。
それは半分冗談のような考えであるが、出征した軍を呼び戻す為に国内で叛乱を起こさせるというのはよくある手だ。
情報収集の合間にそれらの策に手をつけていたニケは、溜まっていく疲労を酒の一口で紛らわせていた。
「次はカリパラの街を見に行って……一度城に戻るか」
明日には十二家審議が行われる。さすがに彼の主君も城に戻ってくるだろう。
先日雫が襲われたばかりだが、また似たような手段に訴えようとする輩がいても困るのだ。
魔法士から見るそれ以外の人間が大抵そうであるように、ニケからするとオルティアも雫も不自由で無力な危なっかしい存在にしか見えない。
怪我を負っても自分では治すことも出来ないのだ。あまり離れているのは賢明ではないだろう。

だが、それとは別に気になることもある。
問題の発端となった街―――― カリパラ。
そこを占領したファルサスとカリパラの住民の間では、決して穏やかではない空気が漂っているのだ。
今まで暴徒に悩まされていたところをファルサスに救われたのだから、もっと歓迎されていてもいいと思うのだが、どうにも空気が重い。
もしカリパラの民がファルサスに不満を持っているなら、上手く焚き付けて反乱を起こさせられないかと、彼は思っていた。



何故、カリパラの民がファルサスを歓迎しないのか。
それは「何故彼らが六十年前、戦争が終わった後も元の街に帰らなかったのか」という問いと同じ答を持っている。
生きている限り決して消えぬ記憶。親から子へと語り継がれる絶望。

「さあオルティア、カリパラをどう料理する? あの街は今でも―――― ファルサスを恐れている」