優しい指 130

禁転載

カリパラの街には城壁がない。ただ傍に街道が通っているだけである。
国境間近にて両国の交易をひっそりと担っていたロスタ端の街は、いまは大国同士の争いの焦点となっていた。
もっとも、この焦点は両国どちらからも持て余されているという事実もまたあるのだが。
六十年前にファルサスの侵攻によって祖国カソラを追われた民に、キスクが与えた街。
今はもうない国の記憶が、この街のそこかしこには残っているのだ。



キスク軍がカリパラの街を前に一旦進軍をやめたのは、日が明けてから三時間程経ち、朝が終わりかけた時のことである。
軍の中央にいたオルティアは目を細めて遠くに見える街を眺めた。
こうしてカリパラを肉眼で見たのは初めてだ。
幾千もの民が少し前まで平穏に暮らしていたのであろう街並みに、彼女は整理しきれぬ複雑な感情を抱く。
もしあの一件がなかったなら、こんな風にあの街を見ることはなかったかもしれない。兄と玉座を巡って争うことも。
十二審議まではあと二時間程。急げばまだ間に合うであろうし、城にはティゴールや雫が残っている。
オルティアは夜行軍で重くなった瞼を擦ると、改めて顔を上げた。
転移で軍を移動させなかったのは、魔法士たちの疲労が限界に達していたのを慮った為であるが、魔法に頼ることでまたファルサスの罠にかかるのではないかと恐れる思いもあった。そのファルサスの別動がいるであろう街をダライ将軍は苦々しく見据える。
「何かが仕掛けられているということはあると思うか?」
「ここからでは分かりません。が、出来れば街中での戦闘は避けたいですね」
街中に散らされての戦闘となれば有利な点である人数差が上手く生かせなくなってしまう。
出来ればファルサスの別働には戦わずして退いてもらいたいものだ、と思いながらダライは進軍を指示した。街の建物が徐々に大きく見えてくる。
向こうから兵が出てくる様子はない。既に情報が行き渡っているのだろうか。彼は軽い緊張と共に偵察を出すべきか迷った。
更に前進しようとした時、軽い口笛に似た音が聞こえる。

―――― 突如目の前に現れた鏃。
それに、ダライは驚いたが迷わなかった。
彼に張られた防御結界が攻撃の速度を緩める、ほんの僅かな隙に首を捻ってそれを避けた。
矢は彼の耳元を掠めると後ろにいた兵の馬の腹に食い込む。高い悲鳴を上げて暴れる馬に兵士は耐えられず振り落とされた。
「くそ! 狙撃か!」
結界がなければ、あるいは彼の反応がもう少しでも鈍ければ、矢はダライの額に突き立っていたに違いない。
彼は狙撃手のいるであろう場所を探したが、近くにそれらしい建物はなかった。
もし遠くに見える見張り塔から射られたのだとしたらかなりの射手だ。魔法具の助けがあったとしても恐るべき腕の持ち主だろう。
「用心しろ。攻撃が来るぞ。防壁を強化だ」
将軍の命と同時に魔法士たちが詠唱を始める。
そして、それらに誘発されるようにして、街中からもまたキスク軍に向って攻撃が放たれ始めたのだった。



ラルスよりカリパラの街を預かるアズリアは、指揮下に千の兵を置いている。
それは一つの街を占領するには少なすぎる人員にも思えるが、もともとこの街自体には警備兵は数十人しかおらず、 暴動が続いていたことにより住民の数も激減していた。結果、ここ数日の占領も特に不自由なく、街は見回りの兵士を除いてはいつもと変わらぬ平穏を保っている。
ただそれも、カリパラの住民が向けてくる恐れと冷ややかさが混ざり合った視線を除けば、の話であるが。

「あ、嘘っ! 避けられた! 馬に刺さった!」
見張り塔の欄干から魔法弓を構えていた女は、自身の矢が標的を外れたことを確認すると激しく頭を抱えた。背後に控える魔法士が溜息を噛み殺す。
これが、敵の将軍を殺し損ねたことを後悔しているのならともかく、そうでないのだからたちが悪い。
魔法士は「馬が! 馬が!」と連呼する指揮官に出来るだけ落ち着いた声をかけた。
「陛下のご指示では適当なところで引き上げろとのことですが」
「馬が! よくもあの親父!」
「聞いてますか、アズリア殿」
「聞いてる」
ファルサス城一の射手であり、白兵技術もかなりのものである彼女だが、戦場に伴われることはほとんどない。
それはこの「行き過ぎた馬好き」が原因であることは誰の目にも明らかだった。馬の生死にいちいち悶絶していては戦場では何も出来ない。
アズリアは気を取り直すと迎撃の指示を出す。それはけれど、本気の迎撃というよりは敵を牽制して退去する時間を稼ぐものだった。
命令を受けた魔法士は肩を竦める。
「これでこの街ともようやく離れられますか。……正直、ここの老人連中の目が嫌だったんですよ」
「仕方がないだろうな。廃王ディスラルはカソラの街々を口にするのも憚られる程に蹂躙したというのだから」
「今の陛下は鷹揚な方でらっしゃるんですがね。分かってもらうには時間がかかりそうです」
かつての戦争においてディスラルの手を逃れキスクに逃げ出した人々。
彼らは戦が終わり祖国が望んでファルサスの属領となった後も、忌まわしい記憶の残る元の土地に戻ろうとはしなかった。
「だがカソラの民はキスクにとっても異邦人だからな。もはや何処にも帰る場所はない。そろそろ諦めるしかないだろう」
「世代も変わって亡命した人間も多いですし。ただ老いた者はふんぎりをつけるのが大変なんでしょう」
アズリアは頷くと再び弓を構え矢を番える。「あの親父だけでも殺していく」という指揮官に、魔法士の男は今度はちゃんと溜息をついたのだった。



街から打ち込まれる魔法は、キスク軍にとっては恐れるに足りぬものであった。
結界を強化し攻撃を防ぎながら、兵士たちは敵の魔法士がいるであろう場所を探して走っていく。
残っていた住民たちは突然の出来事にぎょっとしていたが、反抗する気はないようだった。
しかし、ファルサスの魔法士や射手たちはみな兵士たちが近づくと攻撃をやめ消えてしまう。
唯一根深く攻撃を続けてくるのは、見張り塔にいるらしい強力な射手だけだった。いつまでもダライを狙ってくる矢に、武官の一人が叫ぶ。
「しつこいぞ! ダライ将軍、この建物の影に!」
だがダライが見えなくなると射手は他の人間を狙い出す。結界破りの矢に変えたのか、確実に犠牲者を出し始める攻撃にダライは歯軋りした。
「塔へ向かえ! この射手を殺して来い!」
改めて命じられずとも既に数十人は塔へと向っている。しかし、彼らが塔に到着した時そこには強力な結界が張ってあった。
侵入そのものを拒む結界を前にして、彼らは塔の頂上を仰ぎ見る。
とその時、ほぼ真上から飛来した矢が一人の顎を貫いた。
顎から首の後ろまでを金属の矢に貫通された男は、蛙のような声を上げて崩れ落ちる。
威嚇とも挑発とも取れる攻撃に兵士たちは怒りを覚えた。
「誰か魔法士を呼んで来い! 結界を破らせる!」
「破ってやろう」
唐突な声。
冷静なそれは、いつの間にか彼らの中に立っていた魔法士のものだった。兵士の一人がその顔を見て驚く。
「お前、姫の……」
「少し待て」
城でもっとも異質な魔法士である男、ニケは結界に手をかざし詠唱を始める。
彼らが頭上を注意しながら息を飲んで見守っていると、数秒後何かが破裂するような音と共に結界が解かれた。
兵士たちは我先にと中に飛び込み塔の階段を登っていく。
だがどうせ上にはもう誰もいないのだろう。先程の攻撃を最後に撤収したに違いない。
ニケはそう思いながら詠唱すると、改めてオルティアのもとに転移し直した。






カリパラの街は、一言で言うなら閑散としていた。
初めてこの街に足を踏み入れたオルティアは、色褪せた印象の街を漫然と見回す。
以前はこの街も交易の商人で賑わっていたというが、今は多くの人がファルサスの旧カソラ領に逃げ出した為か窓を閉ざしたままの家も多い。
ニケの説明によるとファルサスの統治はいたって問題のないものであったが、人々はそれを喜ぶわけでもなく鬱々とした日々を送っていたのだという。
キスク軍によって街が取り戻された今、残る少ない住民たちは困惑と不安を目に、家の中から行き交う兵たちを見つめている。
オルティアは、薄汚れた窓の向こうから騎兵の隊列を見やる老人と目が合って、表情を固めた。
「そうは言っても、もうロスタにいても苦しいだけであろう。ファルサスの方が元の祖国もある。余程暮らしやすいとは思うがな」
「六十年前のことを忘れられないのかもしれませぬ。今の老人たちは親からそのことを繰り返し聞かされ育ったのでしょうから」
「廃王ディスラルか……」
他国のことではあるが、あまりにも悪名高い王の名をオルティアもまた知っている。
国を滅ぼし人を殺し、最後には血を分けた人間たちをもその手にかけた狂王。
力も気性も到底人とは思えなかったと称されるディスラルのことを思い出し、彼女はふと皮肉を感じた。
―――― 自分もきっと、言うなればディスラルと変わらないのだ。
戦を呼び起こし人を処刑し、今、兄と争おうとしているのだから。
こんな自分の行き着く先ははたして何処になるのか。
自嘲を思い出しかけた彼女の前に、けれどその時一人の兵士が走ってくる。
徒歩で駆け込んできた兵士は恐縮して一礼すると、「街の長老がオルティア様に面会したがっている」と伝えた。
「長老が? 何かあったのか」
「それが……誰が軍を指揮しているのかを問われ、将軍と殿下の御名を出しましたところ、是非殿下にお会いしたいと申しまして……」
「分かった」
おそらく占領を解かれた礼でも一応言っておきたいのだろう。
オルティアは自身が気鬱を感じていることを自覚したが、それを表には出さなかった。
兵士の案内に従ってファニートとニケを伴い、街の集会場へと足を踏み入れる。



そこに待っていたのはダライや数人の武官たちと、住人であろう七人の男だった。
何事かを話し合っていたのか輪になっていた彼らだが、オルティアに気づくと皆次々に礼を取る。
オルティアが黙して頷くと、人の壁の奥から一人の老人が、震える体を少年に支えられて現れた。彼は落ち窪んだ目で彼女を見つめる。
「おお……あなた様が……」
「長老というのはそなたか」
「わたくしでございます……ずっと、ずっとお会いしとうございました、姫」
感極まった声。
その言葉に違和感を覚えたのはオルティアだけではなかっただろう。
彼女は理由の分からぬ歓迎を受けて怪訝な顔になったが、すぐにそれを老人がゆえの戯言だと解した。感情を見せない声音で答える。
「此度は対応が遅れて迷惑をかけた。今後どうなるかは分からぬが」
「姫、無事に、大きくなられた……死ぬ前に一目お会いしたかったのです……姫」
一体この老人は何を言っているのか。
オルティアは困惑して彼の言葉を無視すべきかどうか迷う。
既に耄碌してしまっているのか、いつもこうなのかを窺う為、彼女は男の体を支える少年を見やった。そしてオルティアは驚く。
―――― 少年は、ひどく真摯な目でオルティアを見ていた。
濁りのない、尊敬と感謝の目。
純粋で忠実な、それは今まで彼女が一度も向けられたことのない視線だった。オルティアは覚えのない感情に息を飲む。
虚を突かれた彼女の顔を見て、少年は一瞬気まずい顔になった。だが、意を決したように表情を戻すと口を開く。
澄んだ声が、言葉が、鐘のように部屋の中に響いた。
「姫様、僕はよく知っております。祖父から……領主様から伺ったのです。
 かつてあなた様のおかげで、この街は救われたのだということを」



とても暗かった。
怖かった。
閉じ込められたのは狭い部屋。
寒くて。不安で。逃げ出したくて。
泣いて泣いて。叫んで暴れた。
出して。
帰して。
帰して。
お願い。



老人は皺だらけの目元に涙を浮かべる。
それが何を意味するのか、オルティアはもう分かっていた。小さな唇がわななく。
「姫様……我々は、よそから来た人間です……。
 だが王は、我々を見捨てられなかった。
 けれどその代わりあなた様は……どれ程お辛かったでしょう。不安でらしたでしょう。
 あなた様は幼かったその身に、我々全ての命を負われた。
 それがどれ程の苦痛であったのか……感謝を思いながらも悔やまれてなりませぬ」
助け出されてすぐ、オルティアは城の自室に閉じこもった。
父にも母にも会おうとしなかった。手紙も全て捨てさせた。
ここにいるのは「王女」で、誰も「自分」のことなど思ってくれない。
そのことに気づいた時、彼女は人に期待することをやめた。温かさを蔑むようになった。
「お会いしたかったのです、姫様。……ずっとあなた様にお礼を申し上げたかった。
 そして、お詫びしたかった……我々の為に、お辛い目に遭わせてしまったことを」
枯れ枝のような指が彼女に向かって伸ばされる。
万感の思いがこもったその手を、オルティアは躊躇いながらもそっと握った。皮と骨ばかりの感触を味わう。

あの時欲しかったのは、たったこれだけのことだ。
自分を思ってくれる言葉。触れてくれる温もり。
たった一滴でも、それさえあれば、きっと自分は「王女」でいられた。
道を違えることなく国の為に身を尽くせただろう。

オルティアは目を瞑る。
奪われたものと、捨ててしまったものが刹那、瞳の奥で弾けて消えた。
喉の奥に熱いものが湧き上がってくる。しかしそれを飲み込むと、彼女は掠れた声を絞り出した。
「お前の言葉、ありがたく思う。
 だが……妾は感謝をされるような人間ではないのだ。今までも、これからも……。
 必要とあらば国の為にこの街をファルサスに渡すこともするであろう」
カソラを恨んだ。ロスタを憎んだ。
だから交渉の駒とすることに抵抗はなかった。
そしてそれは、他に選択のない決断でもあるのだ。キスクは戦ではファルサスに勝てない。それはもう分かっている。
しかしそれでも―――― 今この時、オルティアの声は苦渋に満ちていた。
後悔に瞳を曇らせる姫を、老人は微笑して見上げる。
「あなた様のご判断であれば。残る者たちは私が説得いたしましょう。
 この街はあなた様がお救いになった街です。こんな街でお役に立てるのなら、今度は我らが……あなた様のお力になりましょう」

自分の目で国を見てください、と彼女は言った。
鳥籠の中で蹲っているのではなく、外に出ろと。
青臭く押し付けがましいあの言葉は、けれど嘘ではなかった。オルティアは老いた指を握りながらそれを知る。
「……すまぬ」
小さな謝罪の言葉に、老人は笑顔で応える。罅割れた両手が彼女の手を支えた。
人の世は残酷で不条理だ。そして人は、いつも愚かだ。
だが、もっとも愚かだったのは全てを嫌っていた自分なのだろう。
目を向けねば分からぬこともある。知ろうとせねば知り得ないことも。
力ない指が消えない温もりをくれるように、時に人はとても優しくなれるのだから。