優しい指 131

禁転載

硝子瓶の蓋を開ける。
中から雫は白い粒を取り出し口に含んだ。喉を硬質の珠が滑り落ちていく。
しっかり馴染んでしまったその感触に彼女は意識を切り替えた。顔を上げ、鏡の中の自分を見やる。
「よし。いいかな」
おかしなところは何もない。強いて言えば顔が幼いところが難だろうが、どうにもならないので放っておいて欲しい。
詰襟の白い上衣と長い灰色のスカート、髪はきつく一つに結い上げ薄い化粧をした雫は、最後に白い手袋を嵌めると部屋を出た。
既にそこには文官と護衛の兵士たちが待っており、彼らの先導で彼女は審議の間へと歩き出す。

オルティアは、残念ながら間に合わないらしい。十五分ほど前に「カリパラの奪還をしている」との連絡が入ってきた。
それはけれど仕方のないことだろう。むしろ雫はもともとオルティアの代理を任じられて残っているのだから、不満に思うはずもない。
ラドマイ侯殺害について、姫は「それくらいやりかねんだろう」と言っただけだった。
「何か対策を打たなくていいのか」とも聞いたのだが、「自分の身に気をつけろ」と返されたのみである。
実際残り半日で面会も禁じられては打つ手がないだろう。―――― 暗殺などの手段でも取らない限り。
「そんなことやらないけどね」
雫は長い廊下を歩きながら口の中で呟く。
思えばベエルハースの真意を知る切っ掛けになったのは、王の暗殺未遂だったのだ。
もしあれを止めないでいたら、もっと事態は楽になっていただろうか。
そんなことも思わないではなかったが、やはりそういう手段に出るのは卑怯だと、雫は思う。
オルティアは謀殺に頼らず玉座を獲る。
彼女のこれからの為にも、きっとそうでなければいけないのだ。

広間につくと衛兵が扉を開けてくれた。雫は礼を言って中に入る。
通された先は小さな応接間のようになっていた。
もっとも小さいというのは城の基準においてでおり、雫の私室がゆうに四つ程は入りそうな程広い部屋ではあるのだが。
彼女は案内された椅子に座る。隣には既にティゴールが着席しており、彼は会釈してきた雫に緊張の微笑を見せた。
「陛下は……」
「まだいらしていないようだ」
当主たちによる審議は既に始まっている。
だが王に三家当主を加えた審議とは違い、王の退位を問う審議の前半には当事者たる王族の出席は許されていないのだ。
王族が立ち会えるのは当主たちが決定を下す最終段階の時だけである。
その為、呼ばれるまではベエルハースも雫たちもこの控え室で待機することになっていた。
雫はしばらく沈黙を保っていたが、ふと息を吐くと苦笑する。
「これ緊張しますね……」
「そうだな」
どうにも受験面接を思い出してしまう。雫は硬くなった肩を上げたり下げたりした。
その時、扉が開き、文官とベエルハースが入室してくる。
「…………」
いくら玉座を争う相手であり、色々思うところがあるのだとしても現在の王はベエルハースだ。
雫とティゴールは黙って立ち上がり礼をした。王は薄ら笑いでそれに応える。
そのまま皆が着席し、どれ程静寂が続いたか分からなくなった頃、ベエルハースは不意に雫を見つめた。かつてはよく見せた穏やかな笑顔を浮かべる。
「雫、お前もそろそろオルティアに愛想が尽きた頃だろう?」
「いえ。そのようなことはございません」
「だがあれは悪い娘だ。昨日もラドマイ侯がそれで亡くなったのではないか?」
「あれは……!」
反射的に立ち上がりかけた雫を、だがティゴールが制した。振り返ると彼は首を左右に振っている。
騒ぎを起こすなということだろう。それを見て彼女は急激に頭が冷えていくのを感じた。
―――― どの面下げてオルティアに疑惑をかけているのか。
そう言いたい気持ちは喉元まで溢れかけていたが、雫は意識を切り替えると微笑する。
「何のことでしょう。姫はそのようなことはなさりませんし、する意味もございません」
「よく言うね。今まで散々その手を使ってきたのに。今更これは違うとでも?」
「違います」
言い切った言葉は、ともすれば声が裏返りそうなほど怒りに溢れていた。雫は表面上、笑顔を湛えたまま王を睨む。
「陛下、あまり証拠もない憶測を仰りませんよう。いずれご自分の身に返ってくるやもしれませんよ」
「そのようなことはない。皆オルティアのことをよく知っているからね」
不快感が、腹の中に淀んでいく。
それはまるで体の裡で眠り続ける大蛇のようだ。
雫は無意識のうちに左手で紋様の上を押さえた。彼女の発言を封じる魔法を服越しに掻き毟る。

例えば人は、何処まで醜悪になれるのだろう。
どうやって堕ちていくのか。変わっていくのか。

雫はだが、ベエルハースが変質した過程に興味はない。
知りたくはないのだ。それを肯定してしまえば自分が変わってしまいそうで。
彼女は目を逸らさず王に対する。
自分こそが主君の代理であるのだ。俯くことは許されない。
「陛下。私の主にやましいところなどございません。あの方は陛下と違う。己の罪をよく分かってらっしゃる。
 あの方はあなた様よりもよき王となられるでしょう。私はそう信じております」
「……愚かだね、雫。後悔しても知らないよ」
「その予定はまったくございませんが。仮にそうなったとしても私の後悔など、陛下にとっては塵芥ほどの意味もございませんでしょう」
傲岸に言い放つとベエルハースは顔をどす黒くした。
彼は更に口を開きかけて―――― けれどその時、別の文官が部屋に入ってくる。
「票決がまもなく始まります。審議の間へお越し下さい」
場の空気を変える伝令に雫は息をつく。横目で見やると王は苦々しい顔で立ち上がっていた。彼女も立ち上がり姿勢を正す。
十一人によって行われる票決。
それはどちらへと傾くのか、はっきりとした自信を持っているわけではない。
だが負けたくない。この男には絶対負けたくないのだ。
彼女は背筋を伸ばし、審議の間へと足を踏み入れる。
たちまち集中してくる十一対の視線。
それは、人が人を裁く有限の審判を雫に連想させたのだった。



当主たちは、縦に向かい合いあって並べられた二列の机を前に、分かれて座っていた。
今まで散々議論を重ねていたのだろう。各人の前に置かれているお茶は大分減っていた。王たちが入室した隙に女官がそれを交換していく。
ベエルハースと雫は机の間を抜けて部屋の奥まで行くと、そこに用意された椅子に座った。
何だかゼミ発表をする人間みたいだな、と雫は思ったが、それとは別種の緊張感である。
ベエルハースは彼女を見ようともしない。ただ何処を睨むわけでもなく入ってきた扉の方を見つめている。
雫は王を横目で見やると、一度睫毛を伏せて床を見つめた。
―――― 落ち着こう。
この時の為に今まで苦労してきたのだ。きっと切り抜けられる。何とかなる。
見知らぬ世界に迷い込んでから、ここに至るまで何度も何度も障害に突き当たってきた。
けれどそれら全てを自分は乗り越えられたではないか。
だから、恐れることはない。望む結果を引き寄せてみせる。
雫はゆっくりと息を吸う。
そして、顔を上げた。
長いまばたきを経て、当主一人一人の顔を見つめる。
微笑んで返してくれる男もいた。あからさまに目を逸らす人間も。
しかし今は不安に思わない。堂々と胸を張る。
「それではこれより、票決を開始します」
捻れ果てた感情の果て。
傷ばかりが彩った暗闇の終わりに―――― こうして全てを清算する審判が始まった。






十一人の当主。
彼らのうち六人に雫は直接面会したことがある。亡くなったラドマイ侯を含めれば七人だ。
残りの四人はティゴールだけが交渉した。
だが、最後まで彼らと会うことを頑なに拒んだ人間もいる。甥をオルティアに処刑されたティルガ侯だ。
そして票決は、そのティルガ侯の向かいに座すキアーフ侯から順に表明されるようであった。
匿名での票決にしないのは、王が決した後、誰が自分に反する者か王自身が分かるようにする為である。
かつてこの票決にて王が交代させられた後、新しく即位した王は自分に反する票を投じた人間たちをすぐさま投獄した。
そして、それ以来十二家審議は一度も行われていない。
王族と当主たちに多大な人的被害を与えてまで、王を退位させるほどの出来事は今までなかったのだ。



キアーフ侯は微笑んで雫を見やると「オルティア様に」と口にした。
その声はしんとした部屋によく響き、皆を驚かせる。
以前行われた三家審議とは違う。オルティアを罪人とするかどうかではなく、女王とするか否かの審議なのだ。
にもかかわらず姫を支持してくれた、その思いが嬉しかった。雫は黙って頭を下げる。
そして、はじめの一人であり筆頭当主でもある男がオルティアに票を投じたという事実は、場の空気に大きな影響をもたらした。
次の当主は迷いながらも「オルティア様を支持する」と手を上げる。



玉座を得る為に必要な票数は六。
中には交渉時に賛同を返してくれながらも、やはりベエルハースに票を投じた当主もいた。
だが雫は表情を変えない。落ち着いて次を待つ。
九人目にして五票目を投じてくれたのは、セージ侯だった。
彼は「オルティア様に」と言って微笑むと雫に片目を瞑ってみせる。
この場にはあまりにも軽薄な態度に、彼女はつい笑い出しそうになってしまった。
これで、オルティアは五票。ベエルハースは四票。
残る二人のうち一人がオルティアを支持してくれれば勝てる。

十人目はレマ侯といって、ラドマイ侯と親しかった男だ。
雫が交渉した時は長く議論をした末「オルティア様に任せてみてもいい」と言ってくれた。その彼が、自分の番となり手を上げる。
男は雫を見て、少し眉を曇らせた。彼女は緊張に唾を飲む。
「……ベエルハース陛下に」

それを聞いた瞬間喜色を浮かべたのは、現王ベエルハースだ。
これで票は五対五になった。
そして、残る一人はティルガ侯である。

―――― 票が足りない。
雫はそう認識すると蒼ざめた。頭の中でこうなった場合の対策を呼び起こす。
まずはオルティアを逃がさなければならない。
こうなっては審議に間に合わなかったのは幸運としか言いようがないだろう。雫が視線を送るとティゴールは頷く。
一刻も早くオルティアを国外に脱出させ、レウティシアに交渉を申し出る。
そしてベエルハースの首やキスクの領土、財産と引き換えに、「正規の手段ではない簒奪」の為の援助をファルサスに願い出るのだ。
雫自身は逃げられないかもしれないが、すぐに処刑などされなければニケが迎えに来てくれることになっている。
勿論ヴィエドもユーラやウィレットと共に脱出の算段をつけてはあるし、あとは即座に動くだけだろう。
雫は落胆ではなく次への意志を表に出し、前を見つめた。
「失敗したらお前の命で贖ってもらう」と言っていた姫だが、雫が処刑されてしまったらきっと非常に怒るだろう。そんな気がする。
だから出来る限り抗ってみせる。
そんな決意を抱いた時、ティルガ侯が最後の票を投じた。
「オルティア様を女王に」



場に訪れた空白は、何よりも驚愕で満ち満ちていた。全員の唖然とした視線がティルガ侯に集中する。
だが当の本人は揺ぎ無い態度で雫を見据えた。
その視線の強さに彼女はほっとするよりも早く居住まいを正す。そうして改めて男の視線を受け止めた。
一秒一秒が試されているような沈黙。
それを打ち破ったのは彼女の隣に座していた前王だった。
「な、何故だ! お前……!」
「何故も何もございませんでしょう。私はオルティア様に票を投じた、それだけのことです」
「お前はあいつを恨んでいたではないか!」
立ち上がりわめきちらすかつての主君を、ティルガ侯は厳しい目で見やる。
「ベエルハース様は何か誤解してらっしゃる。
 今この場は王を決める為の審議であって、誰かの私怨を晴らす為の場ではございませぬ。
 そして王としてはあなた様よりオルティア様のがふさわしい。私はそう思ったまでのことです」
「わ、私が王としてあれに劣るというのか!」
「少なくともオルティア様は国の為に命をかけられる覚悟をお持ちです。あの方が今この場にいないことが何よりの証明では?」
「そんなものは……」
更にベエルハースが抗弁しようとした時、しかし閉ざされていた扉が乱暴に開かれた。
向こうから入ってきた人間を見て、皆は驚きながらも一斉に立ち上がる。
彼女は足を止めると軽く首を傾げた。てらいのない声で問う。
「すまぬ。遅れてしまった。票決はどうなった?」
戦場からそのまま来たのであろう。薄汚れた麻の服を纏い、埃まみれの髪を縛ったままのオルティアは一同を見渡した。
その視線が最後に雫へと辿りつくと、姫の側近である女は深く頭を下げる。
「確かに。あなた様の命にお応えしました」
「よくやった」



オルティアは、屈辱に体を震わせる兄を見ようとはしなかった。
まるで既に過ぎ去った過去の象徴でしかないように彼を無視すると、十一人の当主に向って声を張る。
「まずは妾に王たる機会をくれたこと、深く感謝する。
 ああ、皆に言っておるのだ。誰が票を投じなかったかは構わぬ。知る必要もないことだ。妾はお前たち全てに己を認めさせてみせよう。
 だがその前に、一つ問わせて欲しい」
若干十九歳にして兄から王位を奪った女は、「女王」に恥じぬ威厳を以って皆を見つめる。
そこに緊張や物怖じは見られない。ただ強い意志を持った王がいるだけだ。
「此度の戦だが、これ以上武力に訴えても残念ながらファルサスには決定打を与えられぬようだ。
 カリパラの街は取り戻したが砦はとられた。その為、これからは方策を変え、交渉に出たいと思う。
 勿論可能な限りキスクの不利にならぬようにはするが……こちらの立場は弱い。まったく傷跡が残らないとは保証できぬ。
 そこでだ。改めて貴君らに問うが、ファルサスへの交渉自体に不満を持つ者がいるなら申し出てもらいたい。
 妾を女王には出来ぬというなら今のうちだ。遠慮なく申せ」
折角過半数を得たのに、何故それをふいにするようなことを聞いてしまうのか。
雫はちらりとそう思わなくもなかったが、すぐにその考えを打ち消した。黙ってオルティアを見つめる。

結論は、長く待つ必要もなかった。
十一人の当主たちは机を回って彼女の周囲に集まると、次々膝を折る。
最後の一人、キアーフ侯が跪くと同時に重々しく口を開いた。
「女王よ。我らは貴女に従います」
紛れもない忠誠の言葉。
それを聞いたオルティアは満足そうに、だが少しだけほろ苦さを持って微笑んだのだった。



こうして、歴史は作られる。
流れは変わる。より若く、強い力によって。
偽りに縛られ続けた古き女王の血は、歪みを飲み込む新たな女王を生み出す。
そうして時代は捲られ、また新しい朝が始まるのだ。

途端に慌しくなる周囲をよそに、オルティアは雫を手招きした。彼女はそれに応えて傍に寄る。
「何ですか、姫」
「妾が留守の間、馬鹿はしなかったか?」
「途中何度か怒り狂いそうになりましたが、思い留まりました」
正直に答えるとオルティアは声を上げて笑いだす。
雫が白々とした表情で沈黙を保つと、女王は笑いを噛み殺しながら「お前に怒られると、後からじわじわ効いてきて厭だ」と肩を竦めたのだ。