優しい指 132

禁転載

ファルサスへと申し出た交渉は、意外にもあっさりと応じられた。
それはけれど、互いに武力による争いの限度を意識したということでもあるだろう。
ファルサスがいくら奇計を練ろうとも、援軍を呼ばなければ遅かれ早かれキスクからの攻撃に耐えられなくなる。
両国が引き際を見出だせぬまま戦力を増強していけば、やがてこの争いは大陸全土に影響を与えるまでになってしまうのだ。

停戦の為の話し合いは事前協議の結果、ワイスズ砦で行われることになった。
ファルサスは三千騎を残して軍を本国へと返し、オルティアは少数の護衛を伴ってそこを訪ねる。
「せめて同数の軍を伴った方がいい」と進言する者の方が多いくらいだったが、オルティアはその意見を退けた。
「国内で行われる会談だ。必要以上に兵を伴っては臆病者と謗られる。そうではないか? 雫」
「どうでしょう。いっぱいいても少しでも、まったく気にしなそうな人ではありますけど。むしろ顔をあわされない方がいいですよ」
「……それでは交渉が出来ぬ」
オルティアは即位式もそこそこに交渉の為の準備にかかりきりになっている。
ただ勿論城の人間は、派手派手しい式典がなくとも王が代わったことを知っていた。それはベエルハースが軟禁されたことからも明らかである。
新しい女王の以前の評判に慄いていた者たちは、厳しくはあるけれど必要以上に人を責めることはしないオルティアを見て、皆驚いたようだった。
「姫、丸くなられたと評判ですよ」と雫が笑うと、オルティアは「誰かが無理矢理削ったからな」と苦笑する。
王が代わったことに関する最低限の雑務が進められる一方、交渉に必要な資料は三日かかって慌しくも整然と揃えられた。
そして十二家審議から五日後、その日はついにやってきたのである。

砦へはキスク城から転移陣を使って移動することになった。
ファルサスに占拠されて以来封印されていた転移陣が再び動かされ、まずは先遣隊がワイスズ砦へと転移する。
広い砦内の北側にある転移陣の間から中央部までは、ファルサスも兵を配備しない約束となっていた。
先に到着した者たちはまずそれを確かめ、続く女王の安全を確保する。
異常無しとの報告を受けたオルティアは、側近たちと三十人程の護衛と共に砦へと移った。小さな会議室を控え室と決め、最後の確認を行う。
「交渉には三人ずつ伴ってよいことにはなっておるが……ニケと雫は無理だな。隠れておれ」
それについては二人ともまったく異論がないので黙して頭を下げた。
ファルサス国内で暗躍していたニケと、ファルサス城から攫われるようにしてキスクに連れてこられた雫は、どちらも存在がばれては問題になってしまうのだ。
その代わり何かあったらすぐに駆けつけられるよう、音声を拾う為の魔法具をニケは主君に渡す。
結局オルティアにはファニートの他に魔法士と文官が一人ずつ付き添うこととなった。女王は書類を抱えるとニケと雫を振り返る。
「では、行って来る」
「行ってらっしゃいませ。常識が通じない相手ですからお気をつけ下さい」
「……それ程酷いのか?」
その問いにははっきりと答えたくなかったので雫は沈黙を守った。
オルティアは飲み込めないものを口にしてしまったような顔になったが、気を取り直すと部屋を出て行く。
「ヴィエドは?」
「別室にいる。女官たちが見ている」
ファルサス直系である赤子の存在が吉と出るか凶と出るかは分からない。
二人は顔を見合わせると、待っている間とりあえずお茶でも飲むことにしたのだった。

ファルサスは事前の約束を全て守って待っていた。
兵士たちのいない廊下を歩き、約束の場所である執務室へと到着したオルティアは、内心胸を撫で下ろす。
最悪ここまでの間に捕らえられ殺される可能性もあったのだ。
相手を信用させるにはまずこちらから態度を示さねばならないと思い、護衛の人数も削った彼女だが、それが報いられたことはまずまずの出だしだろう。
だが、その安堵も入室した瞬間に吹き飛ぶことになる。
キスク女王として堂々たる態度で扉を開けたオルティアは―――― 執務室の扉をくぐってすぐ室内の壁一杯に描かれた落書きを見て、 開いた口が塞がらなくなってしまったのだ。

常識が通じないとは注意されたが、これは酷い。
オルティアは白い壁に描かれた犬だかネズミだか分からぬ絵をついつい凝視してしまった。そのまま動けずにいた彼女にぞんざいな男の声がかかる。
「どうした、オルティア。座らないのか?」
向かい合って置かれた三対の椅子。その奥側の中央に座る王。
長い足を組んで背もたれに体を預け、腹が立つほど穏やかな笑みを浮かべている彼は、先日戦場で会ったばかりのファルサス国王だった。
造作だけは秀麗な顔立ちの、しかしたちの悪い稚気が見え隠れする容貌に、女王は内心舌打ちしながら席に着く。
十歳近く年下の女が交渉相手として真向かいに座ると、ラルスは「さて」と口を開いた。
「面倒な前置きはいらない。今までも散々待たされたからな。
 それでオルティア―――― お前はファルサスに何をくれる気だ?」
彼の言うことは、間違ってはいない。
確かに形としてはファルサスからの侵攻だが、それを誘ったのはキスクだ。それくらいはお見通しのことであろう。
その上キスクはファルサスに勝てず、砦も奪われた。弱い立場なのだ。条件をつけて帰ってもらうしかない。
だがそれら全てのことを弁えていても、オルティアは目の前の男の言葉を聞いた瞬間、顔面に扇をぶつけてやりたくて仕方なかった。白い眼で聞き返す。
「その前に、そこの絵は何なのか聞きたいのだが」
「俺が描いた」
「何故」
「描きやすそうな壁だったから。記念になるだろ?」
ここでの会話は雫やニケにも聞こえている。オルティアは側近の二人がどんな顔をして聞いているか想像して怒りを紛らわせた。
しかし、それとは別に彼女の冷静な部分は、確かに砦を返してくれる気がラルスにあると分かって安心する。
「記念になる」ということは「ファルサスに奪われた痕になる」ということを意味しているのだ。
普通ならばそれは武官たちへの戒めになるだろうが、これ程下手な絵であれば腹が立つだけであろう。彼女は頭の中に壁の修復を必要事項として刻んだ。
扇は持っていないので、オルティアは代わりに書類を広げる。
「まずはカリパラの街からだが……」

「…………想像以上だったな」
「うん。姫が切れないといいけど」
別室にて音声のみを拾っていた二人は、「あーあ」としか言いようのない表情でお茶に口をつけていた。
砂糖菓子の詰まった瓶を開けながら雫は溜息をつく。
「これがレウティシアさんの方だったらよかったんだけど。王様ってまともな話が通じない気がするんだよね」
「お前、王妹の方が怖いぞ。出来れば俺は二度と会いたくない」
「美人なのに。眼福じゃない?」
「それで殺されるくらいなら壁の絵でも見ていた方がずっとましだ」
ニケは吐き捨てると書類に視線を戻した。机中央に置かれている水晶からは、執務室内の音声が流れ出している。
カリパラ住民の同意を得た上での街の譲渡、ロスタ西にある直轄地の鉱山をファルサスに明け渡すこと、賠償金の金額や今後五十年キスク側からの不可侵など、停戦の条件を読み上げる女王の声に、二人はしばし集中した。
全ての条件が提示されると緊張を禁じえない静寂が生まれる。
「それで全てか? オルティア」
嘲笑うに似た声。
人の弱みや秘密を全て見透かしているような男の声に、雫とニケは硬直した。一つでは済まない心当たりが泡の如く弾ける。
「……これでは足りぬと言うのか?」
「停戦の条件としては充分だな。だが、お前はまだ他に隠しているものがあるだろう?
 オルティア、お前が擁している赤子は──── 一体誰の子だ?」
まだ一言も口にしていないヴィエドの存在。
それを父親かもしれぬファルサス国王に看破された雫は、驚きのあまり身震いするとそのままお茶のカップを取り落としてしまったのだった。

オルティアの顔色は蒼白にまではならなかった。ただ美しい顔がほんの僅か強張っただけだ。
それとは対照的にラルスは余裕の笑みを崩さないまま彼女を眺める。
「お前のろくでもない退屈しのぎも腹立たしくはあるが、確かな証拠はない。条件次第では見逃してやろう。
 ただ、子供の親は誰だ? それを教えてもらおう」
セイレネの生んだ男児。オルティアは勿論その父親が誰であるかを知っている。知らないのは側近の中でも雫だけだろう。
ヴィエドがファルサス直系であるか否か、ファルサス王族の協力があればすぐに判明するのだ。
その為交渉によっては必要になるかと思い、まだろくに動けぬ赤子も砦に伴っては来ているが、こんな風に向こうから話題にしてくるとは思ってもみなかった。
何処から情報が洩れたのか。オルティアはいつの間にか意識の片隅を蝕む喉の渇きを自覚しながらも笑ってみせる。
「さぁ、誰であろうな。妾の子かもしれぬ」
「ほう? 面白いことを言うな。ならお前は俺の妃にでもなるか?」
「──── は?」
もしオルティアがお茶を飲んでいたなら、雫と同様、盛大に中身をぶちまけてしまっていただろう。
しかし幸い彼女が持っていたものは厚い書類にしか過ぎなかった。膝の上に落ちる紙の束をラルスは面白そうに眺める。
「お前はその子供をファルサス直系であるからこそ内密理に育てようとした。つまり俺の子としてな。
 俺は別に構わんぞ。むしろお前が生んだというならお前ごとファルサスに引き取ろう。それも条件に加えたなら今回は許してやる」
「ま、待て。ヴィエドは……」
「どうした? 父親が俺だという自信がないなら調べてやる。今すぐここに連れて来い」
本来ならば、自分の知らぬ子の存在は弱みにもなり得るものなのだ。うろたえこそすれ、ここまで強気に出られるはずがない。
どうすればいいのか、女王はみるみるうちに蒼ざめる。
まるで強烈な一撃を頭に打ち込まれたかのようだ。混乱に思考がぐるぐると渦巻き、すぐには何も返せない。
絶句するオルティアを見やって、ラルスは性悪としか言い様がない笑顔を見せた。
「オルティア、俺はお前のように気の強い女が嫌いではない。退屈はさせないから安心しろ。
 余計なことをする気もなくなるよう、これからたっぷり躾けてやる」
男の青い瞳は冗談を言っているようには見えなかった。むしろ挑発の意志があからさまに見て取れる。姫はそれを知って歯軋りした。
つまり、既にラルスは全てを知っているのだ。
ヴィエドのことも、オルティアがファルサスにいくつもの陰謀を投げかけていたことも、全て把握している。
その上で今回の停戦と合わせて、騒動の原因である彼女自身の身柄をもファルサスへ引き渡せと、男はそう要求しているのである。

膝の上に零してしまったお茶を拭き取っていた雫は、水晶球から聞こえてきた声を聞いて更に布を落としてしまった。
だがそれを拾うどころではない。同じく唖然となったニケと顔を見合わせる。
「想像以上と言っている場合じゃないな」
「やばい。変態だよ。どうしよう」
「変態だが、それ以上に不味いぞ。女王を連れて行かれたら玉座が空く」
「あああ、そうだった!」
今現在キスクの王族はオルティアと、べエルハースしかいない。
勿論遠縁の人間はまだまだ存在しているが、オルティアがファルサスに連行されれば、自然べエルハースが玉座に戻ることになるだろう。
そうなっては怒り狂ったべエルハースがどのような仕返しに出るか分かったものではない。最悪の事態を想像して雫は頭を抱えた。

執務室から聞こえてくる会話によると、交渉は一旦休憩を挟むようである。
と言ってもそれは実質オルティアに与えられた最後の猶予だろう。雫は主君を出迎えに行こうと立ち上がった。
だがその肩を後ろからニケが掴む。
「待て、お前はヴィエドのところに行け。最悪でもあの子供がファルサス直系と証明されなければ言い逃れがきく。
 ファルサスはまだヴィエドが砦に来ていることを知らないはずだ」
「え、あ、そっか! 転移陣って使えるよね?」
「使える。一旦子供を連れて城に戻ってろ。後で姫の判断を仰ぐ。護衛の人間連れていくのを忘れるなよ」
「分かった」
部屋を出ると、二人はそこに控えていた三人の護衛兵たちを伴って別々に移動しかけた。
しかしその時、不意に周囲の壁を微かな振動が走る。
同時に何処か遠くで爆発音が聞こえた気がして雫は足を止めた。反対方向へ歩き出したニケを振り返る。
「なに今の」
「分からん」
何かがあったのだろうか。方角的に執務室の方かもしれない。
雫は部屋に戻って水晶球から音を拾い出そうか迷った。だが行く先を変えかけた彼女は、同僚の背後を見て目を瞠る。
まるで意味の分からぬ、別世界の出来事のような光景。
足を止めた雫がその時見たものは、ニケの後ろに立っている護衛兵が守るべき魔法士に向かって剣を抜こうとしている、そんな訳の分からぬ姿だったのだ。