優しい指 137

禁転載

失敗した、という連絡は入ってこなかった。
だが連絡が戻ってこないということ自体、既に失敗を意味しているのだろう。ベエルハースは閉ざされた暗い部屋で自身の爪を噛む。
「オルティア……あの小娘……」
上手くいけば、起死回生の策になるはずだった。けれど失敗したのならまた別の手を打たねばならない。
一刻も早く手を打たねばオルティアによって国が傾けられると、彼は本気で信じていた。
かつての王は立ち上がると部屋の中をうろうろと歩き回る。
「どうすればいい……? どうすれば……」
「どうもしなくていいと思うよ」
軽い声は少年のものに聞こえた。
他に誰がいるはずもない室内をベエルハースは慌てて見回す。
「誰だ! 何処にいる!」
「ここにいる。この城って本当分かりにくいよね」
暗がりから現れた少年。その手には鈍く光る剣が握られている。それが何を意味するか分かって男は戦慄した。
「ま、待て!」
「僕としてもやっぱり仕事が失敗したっていうのは落ち着かないし。きちんとしとかないとね」
彼は、誰の話も聞かない。聞いても理解しない。
ただ綺麗な笑顔で、愉しんで人を殺す。
ベエルハースは凶器そのものである少年の目を見て絶叫した。その刃から逃れようと鉄格子の嵌められた窓にすがりつく。
「誰か! 誰かおらぬか!」
「誰もいない。こんなところには誰も来ないよ」
「出してくれ! 頼む! ここから出せ!」
暗い部屋。閉ざされた部屋。
男の叫びはその室内へとこだまする。
やがて助けを求める声が悲鳴へと変わり、その声も聞こえなくなった時──── 暗闇にはただ、不快げな舌打ちだけが残されたのである。






ベエルハースの不審死は、ファルサスとの停戦に皆が奔走するキスク城内にて、何ももたらさぬ些事として扱われた。
その死をオルティアによる報復と疑う者もいないではなかったが、それ以上にベエルハースが砦内に刺客を放ち事態を混乱させたことは、 皆から彼への同情を取り去るに充分な効果を持っていた。

停戦条件はオルティアが当初提示したものとほぼ同じ条件で決した。
変更されたのは、雫がファルサスへ引き渡されたことと水晶窟が追加されたこと、そして賠償金がなくなったことの三つである。
賠償金については件の水晶窟を直接視察しに行ったレウティシアが「これなら損害と相殺しても充分釣りが来る」と判断して、 その項目を削ってきたのだ。王妹はそのまま採掘を手配すると国に戻っていった。 これから三年の間、水晶窟にはファルサスの人間が入ることになるらしい。






荷物は決して多くない。
雫は一つのバッグに纏めた自分の荷物を持ち直した。
自室を出て廊下を歩きながら、初めてこの国に来た時のことを思い出す。
確かあの時はファニートと一緒だったのだ。その後ニケに出会って、姫に対面した。まるでずっと昔のことのような思い出である。
この数ヶ月のことはまるで慌しい記憶に満ちている。
常に走り続けて、ほとんど休みもしなかった。疲労もあまり感じなかったのはその時その時に夢中でいたからだろう。
雫は宿舎になっていた建物を出て、待ち合わせの場所へと向う。
城内の中央に位置する吹き抜けの広間には、既に迎えの人間が待っていた。
「すみません。お待たせして」
「別にいいよ。まだ時間あるし」
エリクは苦笑すると雫のバッグを見て「持とうか?」と聞いてきた。だが大して重いものも入っていない。
彼女は「ありがとうございます。平気です」と笑うと彼の背後を見やる。
「で、何で王様がいるんですか……」
「知らない。キスクの城内見てみたかったんだって」
出来れば絶対来て欲しくなかったファルサス国王は、かなり遠く、広間の奥で壁画をまじまじと見上げている。
余計なことをしないで欲しいな、と願う雫の視界で、彼は近くにいた文官を呼びつけると何かを命じているようだった。
「な、何かやらかす前に行きましょうか」
「そうだね」
エリクは頷いて詠唱を始める。
しかし、それを遮るようにして、吹き抜けの上から「雫!」という女の声が響いた。
見上げるとオルティアが女王の正装で階段を駆け下りてくる。雫はバッグをその場に手放すと階段の前に走り寄った。
ニケ一人を随従させた女王は、息を切らせて雫の前に立つ。琥珀色の瞳が去っていく臣下を睨んだ。
「雫、お前は妾のものだった」
「ええ」
「だから、もし帰れなかったのならいつでも戻って来い。存分に使ってやる」
しなやかな両腕が伸ばされる。
温かな躰、自分を抱く女王の背に、雫はそっと手を回した。唇を噛んで別れを惜しむ。
この国に来てよかった。彼女と出会ってよかった。
けれどそう思えば思うほど、今この瞬間に泣きたくなる。
自分の手の平はあまりにも小さくて、きっと多くのものを載せられない。
だがそれでも、この手があれば出来ることもあるだろう。
雫はゆっくりと体を離す。そうしてオルティアの手を取り、壊れ物を包み込むように優しく握った。
「姫、覚えていてください。私はこの世界にいる限り、あなたが呼んだらいつでも駆けつけます」
「……慌てすぎて転ぶなよ」
「頑丈ですから」
オルティアは眉を顰めて、けれどふっと微笑む。
彼女は雫の肩越しに広間を見やって──── そこで顔色を変えた。
「な、何をしている! やめろ!」
血相を変えて走っていく女王。その先には、困惑する文官から塗料の壷を受け取って壁に向おうとする男がいる。
たちまち口論を始める二人の王を振り返って、雫は手で顔を覆うと深く息を吐いた。
「何であの人たちって、ああなのかな……」
「王族なんて程度の差こそあれ人格破綻者ばっかりだ」
慣れているのか動じないニケの相槌に雫はかぶりを振る。彼女は数ヶ月の間同僚であった男を見上げた。
「あんたも殺されないでよかったね」
「思い出させるな。負の海より酷いものを見たぞ」
ラルスに「悪戯ばかりをしていた悪い奴」として捕らえられたニケがどんな目にあったか、雫は聞いてはいない。
聞きたくないし本人も言いたくないらしいので、ずっとこのまま触れないでおいた方がいいだろう。
彼女は幾分やつれた男の顔を同情を持って眺めた。
「あんたも一段落したら少し休めば?」
「そうさせてもらう予定だ。一度暇を貰って師匠に会ってくる」
「師匠なんかいたんだ!」
「もう何年も会ってないけどな」
そう答える男の声は、気のせいか以前よりも晴れているような気がした。皮肉げな目が雫を見つめる。
「俺もファニートがいたなら辞めようと思っていたが……まぁいいだろう。のんびりやり直すさ」
「……うん」
変わっていく人間がいて、去っていく人間がいる。
留まり続けるのは人の中の記憶だけだ。
雫も皆も、それを知っている。分かっているからこそ時を尊ぶ。



ニケは背の低い女の頭越しに、広間の中央で彼女を待つ男を見やった。エリクと視線が合うと目を細める。
「ニケ?」
「じゃあ、俺はもう行く。仕事があるからな」
「あ、元気でね。色々ありがと」
「もう戻ってくるなよ。馬鹿女」
どういう挨拶だ、と文句を言おうとした時、ひょいと顎を掴まれた。男の顔が近づく。
──── 目は閉じなかった。
何をされたのか分からなかったので。
「じゃあな」
ニケは軽く手を振ると踵を返した。そのまま階段を上がっていく。
一度も振り向かない男の姿が階上に消えた頃、いつまでも動かない雫にエリクが声をかけた。
「そろそろ行くよ。忘れ物ない?」
「あ……」
「あ?」
「あああ穴があったら入りたいいいいいいいい!!」
赤面する顔を押さえて絶叫する女。
その叫びを広間の隅で聞き取った王は、頭上に掲げた塗料の壷に飛びつこうとするオルティアを真面目な顔で見下ろした。
大げさに首を傾げて見せる。
「ほら、墓穴が欲しいと言ってるぞ」
「そのようなことがあるか!」



どうしようもない王と、悶絶する連れの女。
両者のちょうど間に立つエリクは無言でバッグを拾い上げると転移門を開き始める。
まったく騒がしい終わりと始まり。
だがこれはこれで平和のうちなのだろうと、軽く諦めながら。



Act.3 - End -