神の書 138

禁転載

「これでどう?」
差し出された紙に書かれているのは長めの英文。それを受け取った雫はじっと単語の羅列に目を落とした。
四度読み返して、徐々に震えてくる指に力を込めると、紙の端を握り締める。
「ぬ、抜かされたっ!?」
愕然とした女の叫びは広すぎない部屋に響き渡った。
それを聞いたエリクは頬杖をした首を僅かに傾けると「それで合ってるの? 間違ってるの?」と何てことのないように聞いてきたのである。

五ヶ月近くを過ごしたキスクから雫がファルサスへと戻ってきた時、かつて一月だけを過ごした魔法大国は以前とほとんど変わりがないように思えた。
強いて言うなら季節が変わり、いつ何処にいてもつきまとってきたうだるような熱気が穏やかな暖かさに変わったくらいであろうか。
だが変化がないというのはあくまでも目に見える部分だけのことであり、もっと違う部分―――― 例えば人の精神などには幾許かの異変が訪れていたのかもしれない。例えば、彼女の保護者であった男がいつの間にか、彼女に並ぶ英語理解能力を身に付けていたり……などということが。

「あ、あってます……」
雫はいかんともしがたい敗北感に頭を垂れた。だがエリクは「そう」と言っただけでけろりとしたものである。
人間得意不得意があるというか、言語に関しては彼の方が一枚も二枚も上手らしい。
ファルサスに移って久しぶりに彼と向かい合って本を広げた雫は「多少自分でも勉強してみたけど」と言うエリクの勉強の成果に、 顎が落ちそうになる思いを味わう羽目になっていた。「これを英文に出来ます?」と何気なく聞いて返ってきた答を前に溜息をつく。
「っていうか、文法教えただけで何でここまで読解とか作文とか出来るんですか……。
 これ、単語力を除いたら私と大差ないですよ。私一応、英語を六年以上勉強してるんですけど」
「勉強の仕方が悪かったんじゃないかな」
「直球で言われた!」
それは思っていても言わないで欲しかった。
異世界に落ちてしまうまで十八年間真面目な学生としてレールを歩き続けてきた女は頭を抱える。
今まで学校のテストでは大抵いい成績を叩き出して来た雫だが、かといって英語が身についているかと言ったらまったく自信はない。
聞き取りと発音は元から非常に苦手であるし、大学に入ってから目にした専門の原文は、分からない単語はないのに意味が取りきれないという英語の奥深さを感じさせるものだったのだ。外国語って難しい、と改めて実感していたところにきてこれである。雫は羨む目でエリクを見上げた。
手続きをするのが面倒だからと耳に魔法具をつけたままの男は、手の中でペンをくるくると回す。
「大体文構造の特徴を掴んでしまえば、あとは例外を覚えるくらいかな。勿論単語が分からないって問題はあるけど……。
 それは辞書さえ出来てしまえば解決することだしね」
「言うは簡単ですけど、なかなかそうは行かないんですよ……」
雫もキスクにいた間、書類などに関わる機会が多かったためこの世界の文字を密かに独学していたのだが、とてもではないがまだすらすらと読み書きは出来ない。
書類を作成する時も、単語を箇条書きにしてから口頭で文官に指示を出し、書き起こしてもらっていたのだ。
特に彼女が異世界人で読み書きが不自由だという事実はオルティアとファニートを除いて誰も知らないことであったし、彼らは多忙であったので添削なども頼めなかった。雫はいつの間にかエリクに置いていかれたような気分を味わって机の上に突っ伏す。
「これ、もう私の教えることってないんじゃないですか」
「そんなことないよ。ニホンゴは正直お手上げだし。
 文構造以外で僕が興味持っているのはどちらかというとニホンゴ文字の方だから。
 エーゴは君がいない間とっつきやすそうだったから、ここまでやっただけ」
表意文字である魔法文字を専門とする彼は、どうやら文字としては漢字が一番興味深いらしい。
そう言えばファルサスに来る前も、英語とドイツ語の文法を一通り飲み込むとエリクは漢字の書き取りをよくしていたのだ。
雫はもう大分昔に思える記憶を探り当てて嘆息した。エリクは自分が書いた文章のメモを小さく畳んでしまうと苦笑する。
「とりあえず、また文字教えて。君の方の文は僕が添削するよ」
「あ、ありがとうございます!」
彼女は急いで気分を切り替えると、バッグからノートを取り出した。

この世界の言語は形容詞も名詞も動詞もほとんど全ての品詞が規則的な語尾変化をする。
初めてそれを知った時にはぎょっとしたものだが、今では雫もすっかりその仕組みに慣れてしまっていた。
これら語尾変化に不規則変化というものは存在しない。
全ての名詞が第一変化から第四変化のどれかを割り振られており、その他の品詞は結びつく名詞に合わせて変化する。
結果としてそれらは一種パズル的な規則性を持っており 、単語の知識さえあれば主語と動詞との繋がりや、形容詞と名詞との繋がりが、無関係な他の単語と混線せず見分けられるようになっていた。 非常に整頓された言語形態を知って、雫はすっかり感心したものである。
そして、文構造で一番便利だと思ったのは、この世界では代名詞が何を指しているか間違えようがないということだった。
通常の語尾変化に加え、この言語には「代名詞語尾」というものが存在しているのだ。
代名詞は、それが指し示すものが文章中の一単語であるなら、 何番目の単語を示しているのかを判別できるよう数字を元にした語尾をつけることになっており 、複数語であるなら複数を示す語尾と共に指示対象の単語群の前後には注釈記号である小さな三角が打たれる。 この三角は関係節である部分を示すのにも使われ、エリクがよく読んでいる魔法書などを見せてもらうと一頁に幾つも頻出しているのが見て取れた。 また代名詞の指示対象が同じ文中にない場合には、それが何文前にあるのかを示す語尾が更に加わることになる。元の世界においては代名詞が何を指しているのかがしばしばテキストの解釈を大きく分ける問題点となっていたのだから、これは非常に合理的な規則だろう。文を書くには大変だが読む分にはかなり助かる。
もっともエリクに言わせれば、これほどまでに整然と文法を守って書かれるのはある一定以上の知識階級が扱う文章のみであり、 平民の読み物や詩などの文学作品はかならずしもこれら規則を全て遵守しているわけではないらしい。

「こういう代名詞語尾はもともと魔法書の為に生まれたものだからね。
 魔法書は誤読されると思わぬ事故に繋がることもあるから徹底したんだろう。
 トゥルダール……古代の魔法大国の文字なんかはもっと注釈記号が多かったよ」
「へええ。凄いですね。私の世界はそういうのがないので注釈書自体がテキストになってましたよ」
「何それ。入門書ってこと?」
「いえ、入門書的なものもありますが、むしろ研究書」
雫は新しくお茶を淹れてそれを二つのカップに注ぐと、自分は菓子の詰まった瓶を開けた。
「古代から中世の話ですけど、元となるテキストを細かく読み解きながら解釈して、自説を展開するんです。
 そうやって書かれた本はもうそれ自体が思想書ですから。
 次の研究者は原本とその解釈書を読んで、『この人はここをこう解釈してるけど私はこう思う』って新しい注釈書を書くんですね。
 で、それを連綿と受け継いでいって、千年以上かけて真理を探究していくという感じで……」
「凄いな。それ今でも現役なの?」
「現役ですよ。うちの教授とかやってますから」
湯気を吸い込みながら雫が微苦笑するとエリクは感嘆の息を吐き出す。藍色の瞳が彼女の顔の上をゆっくり過ぎっていった。
「君の世界はもっと古いものには古いものとしての価値しか見出してないのかと思った」
「ああ。普通はみんなそうですよ。こういう学問は現在ではかなりの少数派ですから」
いわゆる虚学と言われる学問分野の中でも一部分でしかないそれらの研究は、けれど数千年の時を経て今なお受け継がれている。
古代の考えに端を発しているにもかかわらず、未だに精力的にそれを取り扱う人間たちが後を絶たないのは、そういった研究が人間そのものや世界など、今でも人々と切り離せない主題を取り扱っているからだろう。そしてそれらは、実学が重視される元の世界よりも、或いは魔法のあるこちらの世界によく馴染む思考なのではないかと、雫はこれまでのエリクとの議論の中で感じていた。
「君も帰ったらそういう研究をしていくの?」
涼やかな声は心地良く雫の耳に入る。
だが、この時彼の言葉は珍しく溶け入って消えることなく、意識の上にコトリと落ちただけだった。彼女は黒い瞳を瞠る。
「さぁ……どうでしょう。夏休みのレポートも出してませんし」
「今頃退学処分か。気の毒にね」
「だから直球で言わないでくださいって!」
せめて休学であって欲しい。
そんなことを思いながらいつの間にか十九歳になっていた雫は、残りのお茶を一息で飲み干したのだった。

ファルサスに戻ってから雫は、キスクでしていたのと同じ子供用教材を作成する仕事を任された。
これは元々交渉にて彼女がキスクから引き渡されることが決定した際に、ラルスがオルティアに了承させたことなのだという。
雫の世界には生得単語がないと聞いたファルサス王は殺してみたそうな目で彼女を見たが、雫の作った教材と伝えたノウハウが一定の効果を出していると知ると、とりあえずは仕事をさせてみる気になったらしい。「お前を殺すとまず三人から煩く怒られるからな」と言うと、彼女に研究室の一つと部下たちを与えたのだ。
「可愛いわね、これ。子供が喜びそう」
試作品のカードを手に取ったレウティシアは感心したように次々それを捲っていく。
少し派手な原色の縁取りは、動物なら赤、食べ物なら青、というようにカテゴリ別に区別するためのものだ。
雫は一通りの使い方を説明してしまうと最後に方針を補足する。
「赤ちゃんは原色の方が目に付きますし好きですからこうしてみましたが、もう少し大きくなったら淡い色も使って、写実的なカードを渡してみようと思います」
「なるほどね。その辺りは貴女に任せるわ」
雫の身分は現在のところエリクと同じくレウティシア直属となっている。王妹は教材を承認する為の書類に目を通すと署名して雫に返した。
穏やかに見える美しい貌が笑みを形作る。
「エリクの契約はあと二ヶ月で終わるし、貴女もそれまでに教材が出来上がるのならその後は好きにしていいわ。彼と相談して」
「はい。ありがとうございます」
「まぁ彼はまず間違いなく出てくって言うでしょうけど……ああ、あの紅い本ね。まだ見つかってないの。ごめんなさい」
それは外部者の呪具ではないかと思われている、秘せられた歴史が書かれた本だ。
ファニートに探してもらっていた時も「見つからないようだ」と言われていたが、未だに手がかりは掴めていないらしい。
怪しい女が持っているとの情報だが、おそらくその女は一箇所には留まらず各国を移動しているのだろう。
いくつか目撃証言は得たが、北の大国メディアルでの目撃を最後に行方が分からなくなっていると聞いて、雫は微苦笑した。
「大丈夫です。きっと何とかなるって思ってますから。ありがとうございます」
「何か分かったら教えるわ。貴女たちがこの城を離れていても」
「はい」
雫がこの世界に来てから約十ヶ月半。エリクの契約期間が終わる頃には一年が過ぎているだろう。
もうそんなに経つのか、と呆然としかけて、それでは退学にされていても仕方ない、と彼女はほろ苦い思いになる。
だが退学くらい大したことではないだろう。もっと学びたいのなら奨学金を取ってでもバイトをしてでももう一度受験しなおせばいいのだ。
やりたいことの為にはそれくらいは苦労のうちに入らない。
けれどそう思いながらも雫は―――― 不思議と自分の想像が何処か地に足のついていない空想のように思えて、茫洋とした違和感に首を傾げたのである。