神の書 139

禁転載

北の国の王様は小さな蛙を持っていた。
金に光る蛙は不死。全ての歴史を知っている。
ある日、王は蛙に問う。
「どうすればもっと国を大きくできるのか」と。
蛙は答える。
「私の知るは過去のことのみ。それでよいのならお話ししましょう」

蛙は謳う。長く続いた戦乱の歴史を。秘せられた王族の運命を。民の嘆きを。悪しき魔法を。
王は踊る。戦を起こし、王族を操り、民を酷使し禁じられた魔法を使って。

やがて国は大きくなる。
王は喜び蛙は歌う。
新たな歌は新たな歴史。王が犯せし罪の話。

歌を聞いた王様は、小さな蛙を飲み込んだ。
その後王は突然に、湖で溺れ死んだという。






忘れていたのか、と聞かれたなら、しばらくの気まずい沈黙を経て「忘れていた」と答えるだろう。
どうでもいいと思っていたわけではないが、急を要することが次々重なってつい頭の片隅に追いやっていたのだ。
だが、落ち着いたならいずれ思い出しただろうし、落ち着かなくても必ずそれは雫の前に現れただろう。
現にこの日、それは明確な姿を彼女の目の前に現したのだ。使い魔の少女の小さな両手に掲げられて。
「マスター、これが荷物の底に入っていたのですが、開けてもよろしいでしょうか」
「……あ、それ……」
薄茶色の紙包み。そこに何が入っているのか、勿論雫は知っている。
彼女は忘れていたそれをメアの手から受け取ると、改めて中にあるものを覗き込んだ。

ファルサスに戻ってきて、真っ先に雫を迎えたのは使い魔である少女だった。
普段ほとんど表情を見せない彼女は、けれど少し泣き出しそうな笑顔で「よくお帰りになりました」とお辞儀をしたのだ。
その笑顔に急激に時間が巻き戻るような気がして、雫は胸がいっぱいになった。何度も何度も謝罪をして、小さな体を抱きしめる。
「キスクはね……そんなに危なくなかったよ。今度は連れて行くから。姫に紹介するよ」
「次は危ないところであればこそ私をお連れ下さい。使い魔というものは主人を守るためにいるのですから」
メアには主人に強い不満を抱くほどの感情機能はないとエリクは言っていたが、それでも申し訳ないことに変わりはなかった。
だから雫はその晩長い時間をかけて、友人でもある少女に謝りながら、キスクであったことを一つ一つ話して聞かせたのである。

雫は紙包みの中から紙の束を取り出す。
彼女自身、ファルサスに着いて早々仕事にかかりきりになっていた為、荷解きも適当にしかしていなかったのだが、メアはそれをきちんとしてくれたらしい。
枕元に積んであった本も棚に収められ、服は衣裳箪笥にしまわれていた。
そんな中、よく分からぬ荷物が出てきたので主人に伺いを立てたのだろう。
雫はこの世界の言語で書かれた論文を机の上に広げる。
「しまった……読んでもらうの忘れてた……」
彼女だけでは到底読み解けないこの論文は、子供の流行り病についてキスクの神学者がオルティアに提出したものである。
生得言語についてその神学者の主張に何か気になるものを感じた雫は、ニケから男が書いた論文を貰ったのだが、 そのまま慌しくなったことにより忘れてしまっていた。「教えてやる」と言っていた彼も多分忘れていたのだろう。彼女は分厚い論文を前に腕組みした。
「気になるけど、これはなぁ……メア読める?」
「申し訳ありません。人間の文字はあまり得意ではないのです」
「だよね。言送陣使ってニケに聞こうかな、ってああああああああ!!」
突然の叫び声にさすがのメアもぎょっとしたらしいが、必要以上に表情を変えることはしなかった。落ち着いた声で「どうなさいましたか」と主人を覗き込む。
「いやちょっと……もうしばらく時間を置きたいというか、コンタクトを取りたくないというか」
「苦手な方なのですか?」
「苦手じゃないけど色々あって……」
一体何を思ってニケがあんなことをしたのかは分からないが、怒る気にも喜ぶ気にもなれないのだ。ただひたすら恥ずかしい。
こうやって精神的なダメージを与えることが彼の目的だったのなら見事に成功していると言えよう。雫は震える拳を握って何もない空中を殴り始めた。
「だああああ! もう!」
「…………」
乱心したようにしか見えない主人の奇行。
それをメアはたっぷり五分ほど見つめると、「それで、これはいかがなさいますか」と冷静な声をかけたのだった。

とりあえず異様に量があって申し訳ないのだが、読んでくれそうな人間といったらエリクしか思いつかない。
雫は論文を元通り紙包みの中に戻すと、それを持って彼のいる研究室を訪ねることにした。
キスク城ほど込み入ってはいないが、ファルサスの城も充分広い。彼女は中庭を突っ切って研究室のある棟を目指した。
だが植え込みを乗り越えようとした時、雫は芝生の上に小さな人影が座っているのを見つけて足を止める。
見覚えのあるカードと小さな背中。
草の上に雫の作った単語教材を広げて遊んでいるのは、いつかエリクといた時に中庭で出会った女の子だった。
彼女は雫に気づくとぱっと笑顔になる。 雫は微笑しながら小さく手を振った。
「久しぶり。こんにちは」
「こんにちは!」
「それ使ってくれてるんだ。楽しい?」
「うん」
女の子は一枚のカードを拾い上げると「たこ!」と示す。彼女の言う通りそれは蛸の絵を描いたカードだった。
雫は隣にしゃがみこむと別のカードを指差す。
「これは?」
「猫!」
「あたり。いい子だね。じゃあこれは?」
「デウゴ」
カードは試作品として城に集められた子供たちに配ったもののうちの一つだろう。既にあちこちよれよれになっている。
もう内容を全て覚えてしまっているのか、すらすらと答えていく子供に、雫はリオとの生活を思い出して目を細めた。
あれから一月に一度は便りが届いていたが、彼女は元気で暮らしているらしい。あのひたむきな笑顔を思い起こすと多忙な時でも心が和む。
「また今度新しいの作ってくるね。今度は絵本にしようか」
「絵本」の言葉に女の子は目を見開いた。期待に満ちた視線を雫に注ぐ。
けれど彼女がねだる言葉をかけるより早く、雫に届いたのは聞き覚えのない大人の声だった。
「やはり子供がお好きなんですね」
落ち着いた女の声。突然の呼びかけに雫は驚いて顔を上げる。
まず目に入ったのは淡い緑色の魔法着。それを着ているのは亜麻色の髪の女だ。
二十代後半と思われる彼女は、邪気のない微笑を浮かべて雫と女の子を見下ろしていた。
女の子が「レラ!」と叫んで魔法士に駆け寄ると雫もあわせて立ち上がる。
「あ、はじめまして」
「はじめまして。あなたがキスクからいらした研究者の方ですのね。お話はよく伺っております」
「う。どのような話か気になりますが、そうです」
正直キスクから来たと言われると違和感を覚えなくもないのだが、一月だけいたファルサスと四ヶ月以上いたキスク、どちらが彼女の身分を表すのに適しているかといったらやはりキスクの方だろう。「戦利品」として連れてこられた雫は苦笑を浮かべた。
レラと呼ばれた魔法士は、足に纏わりつく子供の頭を撫でながら微笑む。形のよい唇には濃い紅が塗られていて、そこだけが妙に浮き立って見えた。
「キスクは病の原因を調べる実験をやめてしまったとも聞きましたが、本当なのですか?」
「はい。少々乱暴な実験をしていたんで。原因も結局分かりませんでしたし、今は教育の方向で研究が進められています」
「そうですか……。でもそんな簡単に諦めてしまってよかったのかしら。学べは症状が緩和されると言っても、やっぱり病気は病気でしょう?」
「え……」
思ってもみなかったレラの反応に雫は言葉に詰まる。
今まで雫は、何と言われてもこの流行病を病気だとは認識していなかったのだ。
キスクにおいてもあれらの実験をやめさせられたことに安心していたし、教材の作成をオルティアが支持してくれたことに安堵した。
だが、ファルサスの魔法士はまったく別の意見を当然のものとして心配そうな目を向けてくる。
それが善意でしかないと分かるだけに、雫は幾許かうろたえてしまった。
「魂に欠損があるなんて可哀想だわ。少しでも早く原因を突き止めてあげないと……。
 私も病の原因究明に携わっているのですけど、なかなか成果が出なくて。何か掴めれば子供たちもあなたも楽にしてあげられるのですけど」
レラの声には純粋な同情が窺える。
病を憂い、子供たちを心配し、雫の負担を減らしたいと願う真っ直ぐな思いが。
この世界において、生まれながらに言葉を持たない子供たちは「異常」だ。
雫はそれを聞いていながらも、これまでその重大さを完全には分かってはいなかった。彼女にとっては生得単語などないことの方が当たり前であるのだから。
だが、子供たちにとっても親にとっても、教材を揃え一から言葉を教えるよりは、病が治療されることの方が余程負担が少ない。
教育とはあくまで原因不明の病に対する次善の策なのだ。
大陸は広い。それに加えて、この病は徐々にその発生範囲を広げつつある。
可能であれば病の原因を取り除くことの方が、教育方法を大陸全土に浸透させるよりも確実に多くの子供たちの助けとなれるだろう。

レラは女の子を連れると「お互い頑張りましょうね」と礼をして去っていった。その後姿を見送って雫は割り切れない言葉を洩らす。
「魂の欠損……か」
エリクは、生得言語は魂に依拠するものではないと言っていた。その仮説があっているのなら、この病の原因は何なのだろう。
今まで雫は病への偏見を払拭し、教育によって子供に言葉を取り戻すことこそ、現状の最善であると思ってきた。
けれど多くの人々が望む解決とは、そのようなものではないのかもしれない。
今更ながらそのことに気づいた彼女は―――― 重い息をついてかぶりを振ると、それ以上何も言わぬまま整った中庭を後にしたのである。