神の書 140

禁転載

エリクのいる研究室はいわゆる「実験室」というよりは「大学の文系学科研究室」の様相に近かった。
長方形の机が三つ部屋の中央に並べられ、四方の壁は全て本棚となっている。
その机の一つで本と書類をつきあわせていた男は、雫に気づいて顔を上げた。
「やあ。どうしたの?」
「すみません。ちょっとお願いが……」
部屋には他に誰もいない。雫はエリクの目の前の椅子に座ると、持ってきた論文を机に広げた。
「生得単語がかつては固定されていなかったのではないか」という端的な説明と共にそれを彼に渡す。
「アイテア神徒の論文か。へえ、おもしろいね。『生得言語における神の力の現れについて』か」
「自分でも見てみたんですけど、さすがに内容がさっぱりでして」
「いいよ。読んどく」
エリクは論文の厚さなどまるで問題ないようにその束を紙包みに戻した。積んである本の一番上に乗せる。
用件だけを頼んでいくのは申し訳ないと思った雫は、空になっているエリクのカップを手に取ると部屋の隅にある茶器を使ってお茶を淹れ始めた。
「少し休憩する」という彼と向かい合って一息入れる。
「エリクは前に生得言語の原因は何かの感染じゃないかって言ってましたよね」
「うん。今でもそう思ってる。人間は生まれた後に親や周囲の人間から『何か』に感染するんじゃないかな。それで生得言語を身につける」
まるで虫歯菌のようだな、と雫は思ったがあんまりな比喩だったので口にすることはしなかった。虫歯が一つもない口内に砂糖菓子を放り込む。
「じゃあこの流行病はそれら感染への抗体を子供たちが持った、ってことになるんでしょうか」
「コウタイ? 抵抗力のことかな。僕はそう思ってるけど、今のところ証明できるものがない。
 病気の子と健康体の子供には実験では心身ともに違いがないそうだから」
「うーん。私の方は何故か言葉が通じているんですけどね」
雫自身の肉体も散々調べられたが、この世界の人間と何ら変わりがないそうなのだ。どこで言葉の有無が分かれているのか、彼女は大きく首を捻った。
ふと先程会ったレラとの会話が甦る。雫は半ば溜息をつくように向かい合う男に問うた。
「エリクはやっぱり、この病気は根絶された方がいいと思います?」
「何急に」
すぐには返答を返さず、そんなことを彼が聞き返してきたのは、間違いなく彼女の表情のせいだろう。雫は苦笑になりきれない唇を曲げた。
「いえ、私の世界ではこれは当たり前のことなんで。あんまり『異常で可哀想』って思われるとちょっと……」
「ああ」
生得言語などなくてもいい、と雫が思ってしまうのは、彼女自身がそういう世界で育ったからだ。
こんなものは病気でも何でもない。当たり前のことだと言ってしまいたい。
けれどこの世界においてそれが憐憫の対象なのだとしたら、雫のささやかな反論などやはり「外から来た者の傲慢」にしか過ぎないのかもしれないのだ。
最近はすっかりなりを潜めていた異邦人としての孤立感に苛まれ、彼女は澄んだお茶の表面をじっと見つめた。
だが、男の声は沈むことなく湯気の中を通り過ぎる。
「根絶すべきかどうかは、原因と経過がはっきりしてからかな。君の世界では話し言葉が不自由な人っているの?」
「え? うーん……身体的に別の原因があったりして言語発達に難が出る人もいますし、
 言葉をまったくかけられないで育てられたりしたら不自由になるでしょうけど。まず大抵の人は話せるようになりますね」
「教育の仕方によって習得できなくなるってことはない?」
「それはないと思います。私の持ってきた本の中にも、幼少期の言語習得について少し書かれているんですが
 そこでは子供は自然の言語……つまり身振り手振りを介して、大人たちが何を示して何と言葉を発しているのかを徐々に覚えていく、ってあるんです。
 だから多分今病気の子供たちも、教育をしてやれば加速度的に喋れるようになるでしょうけど、しなくてもいずれ自然と身につくと思うんですよ」
それは推測ではあるが、おそらく真であろうと雫は思っている。
現にリオと暮らしていた時には、試験範囲外であり教えようと意識していなかったにもかかわらず、雫がよく使っていたから彼女が覚えてしまった単語などもあったのだ。 異世界の女の意見を聞いたエリクは真面目な顔で頷く。
「なるほど。ならそれ程根絶を急がなくてもいいんじゃないかな。このまま時代が進めば生得言語がないことの方が当たり前になるかもしれないし」
「そうですよね……って、すごい!」
「何が?」

雫だからこそ「生得単語などなくてもいい」と思えるのであって、この世界の人間にとってみれば、それは本来受け入れ難い現象であるはずなのだ。
生得的なものの喪失がどれ程の衝撃なのか、雫も自分の身に置き換えてみれば分かる。
喜怒哀楽や立つこと歩くこと、それらがある日突然訓練を要するようになったのなら、人々は慌てふためいてしまうだろう。
先程はレラの反応につい浮かない気分になったが、それがこの世界における普通の反応なのだ。
―――― にもかかわらず彼は「いつかそれが当たり前になるかもしれない」と言う。
達観と言うだけではない冷静な視野の広さ、柔軟さに雫は感嘆した。
「エリクってそういうとこすごいですよね。もっと問題視したりしないんですか?」
「うーん、今のところは原因不明だし。第一他の魔法士と違って、僕はこれって魂には関係ない問題だと思ってるから。
 それを明確に示せれば彼らの姿勢も軟化すると思うんだけどね。本当に魂の欠損ならさすがに問題だ」
「あー」
この流行病が魂には関係ないのではないかと示すには、現状の手札からいって雫の特異性を明らかにしなければならなくなる。
それはさすがに容易くはできないことであろう。
あのラルスも今は雫について保留しているが、それはオルティアから正式な交渉を経て引き取ってきたという外交上の問題が影響しているからで、生得単語がないことを説明した時も「お前が病気発生に関係しているんじゃないか?」と散々絞られたのだ。
その時、雫に代わってラルスと論戦を繰り広げた男は平然とした顔でお茶を飲んでいる。藍色の目が論文の包みを見やった。
「そもそも魂ってのはまだその全貌が分かっていない。多少魔力で捉えられるところはあるけれど、それでもほんの上澄みだけだ」
「うー。難しいですね。肉体が死ねばその時拡散しちゃうんでしたっけ。それを捕まえてみるってことは出来ないんですか?」
肉体のない純粋な魂だけを確保できれば、その全貌を掴む研究に進展が見られるかもしれない。
この時の雫の発想は普段の人道的なものではなく、研究者がよく持っている、全ての可能性をさらい出そうとする性格が濃く現れていた。
エリクは彼女の指摘に少し微笑んで答える。
「出来るよ」
「お!」
「禁呪だけど」
「……駄目じゃないですか」
さすがに禁呪と言われては手を出すわけにはいかない。少し冷静になった雫にエリクは補足する。
「魂は力としては強力なものだからね。古来から人の魂を力に変換して使う禁呪は多いんだ。
 ひどいものになると国一つ滅ぼした禁呪が犠牲者の魂を取り込んで膨らんだ挙句、大陸中に飛び散ったなんて事例もある」
「うへ。力に変換って、魔力じゃ足りないんですか?」
「色んな事例があるけどそれは……」
彼はそこで言葉を切った。目を丸くして雫を見やる。あまり見ないその表情に彼女は自分も瞠目した。
「どうしたんですか?」
「―――― それがあった。証明って程じゃないけど、いい資料になるかも」
エリクはおもむろに立ち上がると、四方の本棚の一つから何冊かの資料を選び出した。それを次々腕の中に抱えていく。
雫は彼が何を思いついたのかはわからなかったが、何となく自分も急いで彼の傍に駆け寄ると、あふれ出しそうな本を引き取った。
彼女が五冊、エリクが七冊の本を抱え込んで元の席へと戻る。早くもその内の一冊を広げて目次を睨む男に、雫は恐る恐る声をかけた。
「あの、何を調べるんですか?」
「過去の事例。禁呪って程じゃないんだけどね。魔法士が魔力の不足に自分の魂を力に変換して使ったって事例がいくつもあるんだ。
 そのうち半分以上の人間が魂がなくなって死亡してるけど、中には生き残った人間もいる。
 ただ彼らは魂が欠けてしまったことにより、総じて後遺症が残った。それらは失われた魂の部分に対応してか種々の症状に及んでいる」
エリクが何を考えているのか雫はすぐに分かった。息を飲んで聞き返す。
「その後遺症の中に……言語障害が出た事例はあるんですか?」
「ない。僕はそう記憶している」
もし言語が魂を通じて備わったものならば、魂の対応する部分が欠けたことにより言語もまた失われるのかもしれない。
けれどそういった事例がないのだとしたら、それは魂と言語は無関係だということにもまたなり得ないだろうか。
勿論たまたまそういう例がないだけだと反論される可能性はあるだろうが、上手くすれば一般に信じられている魂と言語の関係性に一石を投じられるかもしれない。
雫は期待に表情を緩めかけて、だがまだ残る懸念に気づく。
「でもそれって大人の事例ばかりですよね。一旦生得単語が身についた後だから影響ないんだって言われませんか」
「言われると思う。ただね、魂の欠損については非常に有名な子供の例があるんだ」
「有名な例?」
エリクは無表情に少しだけの苦さを漂わせる。
その表情を見るだにあまり面白い話ではないらしい、と雫は予感したのだが、実際聞いてみると予想以上だった。

問題の話の舞台は古く暗黒時代にまで遡る。
戦乱が絶えず何処かで起き、毎年のように国が入れ替わっていた混乱の時代。
当時、大陸東部では魔法士の認知度が低く、彼らは穢らわしい異能者として裏町に追いやられていたという。
だがそのように迫害されていた魔法士たちもやがてその力を認められ戦争に投入され始めた。
身一つで人を殺せる彼らは一時期は暗殺者としても重宝され、東部の国々はその内こぞって魔法士たちを囲い込み始めたのである。
けれど当時は構成の洗練がさほど重要視されておらず、ただ魔力の大きさだけが魔法士の優劣に繋がると思われていた。
そして魔力は先天的に決定されるものである。
いくら魔法士の人数を集めたとしても、一人の強大な魔力の持ち主には敵わないと悟った小国の王は、ある時他国に勝る力を得る為に、 歴史に残る忌まわしい実験に手をつけた。
その実験とは「人為的に強大な魔力の子供を生み出そうとする」というもの。
王は魔法士の女を五十人捕らえ、やはり魔法士の男をつがわせると子を身篭らせた。
そして臨月になった彼女たちを集めると、禁呪によって母親の血肉を代償に赤子の魔力を増強しようとしたのである。
結果として―――― 実験は半分成功し、半分失敗した。
禁呪は母親たちのほとんどを犠牲としたが、同時に生まれる直前だった赤子たちの魂をもまた、代償として欠けさせてしまったのだ。
五十人の子供たちのうち、実験後すぐに死亡した者は十九人。
十三人は三歳までに死亡し、四人は十歳までに死亡した。
そして残りの十四人は……十五歳になった時、その力によって自分たちを生み出した国を滅ぼした。
魂の欠損を生まれた瞬間に負わされた彼らは、ある者は感情を持たず、またある者は記憶力がないなどそれぞれの弊害を持っていたが、総じて抜きん出た魔力の持ち主だったと記録されている。

「生まれてすぐ死んだ子供はともかく、残り三十一人はどういう後遺症があったのか全て記録に残っている。
 その症状は多岐に渡るけど言語障害が出た例は一つもない。他の症状はどれも別の事例なんかと同じ症状が見られるんだけどね。
 ―――― どうしたの?」
「い、いえ。あまりに壮絶な話なので……。人権無視にも程がありますね」
「当時大陸東部では魔法士は人というよりも兵器扱いだったから。こういう話はいっぱいあるよ」
蒼ざめた雫にエリクは肩を竦めて見せる。
それはもはや変えられない、大陸の負の歴史なのだろう。忌むべきものと讃うべきものの積み重ねを経て、世界は今に至っている。
自分の魂についてさえもよく分からない雫は、魂の欠損とはどういうものなのか想像も出来ない。
けれど禁呪に実験によって生み出さた一人、「悲哀」の感情がないため泣くことが出来なかったという少女の話を聞いて―――― 彼女は憤りよりも重いやりきれなさを覚え、そのまま沈黙してしまったのである。

エリクは「魂の欠損」について禁呪による過去の症例を纏めるという。
「この論文も目を通しとくから」と言う彼に、雫は「いつでもいいです。すみません」と笑って研究室を辞した。
暖かい風。他に誰もいない帰り道。中庭を通りながら彼女は青い空を見上げる。
大陸中何処までへも繋がっている空は、けれど彼女の世界と、過去には繋がっていない。
広くありながらも有限の世界。
その中に在る自分を思って、雫は白く光る日にただただ小さな両手をかざしたのである。