神の書 141

禁転載

淡い色を使って描いた挿絵の隣に、丁寧に文字を書いていく。
用意した文章は平易なもので、絵本の下書きを作り始めてから一週間、何度か見直しもしたがこれで問題ないと思われた。
雫はあらかじめノートに書いておいた草稿を見ながら一枚一枚に短い文章を書き入れる。インクを乾かしながらのんびり完成を待った。
「よし、こんなものかな」
出来上がった原稿をもう一度見返すと、彼女はそれを紙で包んだ。小さな研究室内にいる文官に渡して製本を頼む。
これは試作品だが、子供たちの反応を見て問題ないようであれば量産の為の手続きが取られることになっていた。今までのカード教材もそうして作られたのである。
雫などは実際の作業を目の当たりにしたことはないのだが、この世界では書かれたものを量産するのに幾通りかの方法が使われるらしい。
文字だけの単色の本ならまず活版印刷が使われるが、絵本となるとそうはいかない。
絵は少数部だけなら写本職人が写し取ることもあるが、上質になる代わりに時間もかかりコストが跳ね上がる。
その為大抵は職人に原本を渡し、絵柄にあわせて木版画か石版画を作ってもらうことになっていた。
初めてそれを聞いた時、雫は「シルクスクリーンはないんですか」と言って文官に怪訝な顔をさせたが、どうやらその手の布を使った印刷は少なくともファルサスでは行われていないらしい。平版画である石版画よりは絹版画の方がとっつきやすそうに思えるのだが、その辺りは異世界文化ということなのだろう。
雫は試し描きとして金の蛙を描いたスケッチをかき集めた。それらをノートと纏めて小脇に抱える。
「じゃ、お昼食べてきますね」
「はい。お気をつけて」
少々遅い昼食だが、彼女は規定の仕事量さえ期間内に仕上げられれば、いつ何処にいてもいいことになっていた。
もっともそれは雫を含めて研究者として扱われている人間たちのみに適用される自由であり、文官武官は毎朝同じ時間に出仕して同じ時間に帰っていく。
魔法士たちなどはエリクに聞いたところ、大きく分けて講義に出て魔法を学ぶ人間と、研究室に詰めて研究をする人間がいるらしく、エリクやハーヴなどは以前はその両方に時間を割いていたが、最近は完全に後者なのだという。

雫は一旦自室に帰るとそこでメアが用意してくれていた昼食を取った。
とろとろと柔らかく煮込まれた豚肉を切り分けながら口に運ぶ。
「お仕事は一段落されたのですか?」
「うん。とりあえず一つは。また他にも手をつけるけど」
ジャガイモのスープが非常に美味しい。雫は匙の上に味の染みこんだジャガイモを掬い取ると欠片を頬張った。
メアも相伴に預かりながら微笑む。
「少しは休まれてください。マスターは最近ずっと夜遅くまで起きられてますから」
「あれ? そうだった? 早寝してるつもりなんだけど」
「とんでもない。勉強もよろしいですが、お体を大事になさってください」
雫自身は夜更かししているつもりはないのだが、メアにとっては許容範囲外らしい。釘をさすような口調で言われて雫は苦笑した。
「分かりました。気をつけるね」
真面目くさって頭を下げると使い魔は困ったような顔になる。
だがそれも雫がすぐに「美味しいよ」と言うと照れくさそうな微笑に変わった。
「マスター、午後からはまた研究室ですか?」
「んー。王様のところに一度顔出す。定期的に進捗を報告しないといけないから」
雫の直接の上司はレウティシアだが、ラルスにも定期的な報告を義務付けられている。
それは半ば、彼女を野放しにする気はないという王の意志を表すものなのだろう。
変わらぬその姿勢に腹が立たないわけではないが、雫も今更文句を言う気はない。 もはやそういうものだと思っているからだ。
「マスター、最近北方では魔物が多く出現しているらしいです。王家の精霊が言っていました」
「魔物が? 何かゲームみたいね」
間抜けな返答を口にしてしまったのは、雫が未だ「魔物」というものをよく分かっていない為である。
メアなどは勿論魔族であると承知しているのだが、どうしても魔物とは思えない。
姿形からして恐ろしいものなど禁呪の大蛇しか見たことがなかったし、メアの話を聞いてもいまいち現実味のない感想しか抱けなかった。
暢気さが窺える主人に少女の姿をした使い魔は注意を促す。
「城内には結界がございますから、そのような低級魔物は入り込んできませんが、くれぐれもお気をつけになってください」
「そうだね。ありがとう」
どんな姿の存在であれ、怖いものならば対面しないにこしたことはない。
しかしそう思っていた雫は午後からの謁見で、ラルスから似たような話を聞くことになったのだった。

「魔物ですか。どんなのなんですか」
「色々だ色々。何かごりっとしたやつとかな」
「全然分かりません」
説明する気がないのではないか、と思われる王の説明に雫はしれっと相槌を打った。報告済みの書類を抱き直す。
真面目に資料を用意してきたのに、報告自体は五分で終わってしまった。
その後何故か「走るか」と言われたので断ったところ、間を取って外を散歩をする羽目になったのである。
空は曇天ではあるが、陽気は充分暖かい。雫はさわさわと揺れる木の葉を見上げた。
「でも王様、暴れるの好きそうじゃないですか。お城は構わず行ってらしてください」
「この前も城を空けたばかりだ」
「レウティシア様がいらっしゃるんで平気ですよ。私も束の間の平穏を味わえます」
「晴れ晴れとした顔だな。まだ行くと決まってないぞ」
ラルスは平然と返すと前を見たまま雫の頭をはたこうとした。だが彼女はそれを察知して一歩横に避ける。
王が言うには、何でも最近、ファルサス北部の町に魔物が出現するという報告が相次いでいるらしい。
夜になると現れ人を襲うというそれらは、けれどさして強い種の魔物ではなく、今は町にいる警備兵たちで何とか対処出来ているのだが、あまりにも出現が後を絶たない為、何処かに根城か何かがあるのではないかという話になっているのだ。
そして、魔法や魔物に対して、ファルサスはおろか大陸中を見ても、追随を許さぬ対抗力として知られているのは王剣アカーシアである。
古くは他国からの要請で使い手である王自らが魔女討伐にも出たというその剣は、今はラルスの手にあって彼を主人としているのだ。
彼の性格からいって他国の要請に応えるような人間ではないが、国内の問題とあれば必要に応じて討伐の前線に立つことは疑いない。
剣士としても名高い王は、恐れよりも面倒くささを前面に出して嘯く。
「何処が根城か分かればすぐにでも行くんだがな。何処だか分からないのは面倒だ。
 お前みたいに目の前に来れば殺しやすくていいぞ」
「私は殺してもらうためにファルサスに来たわけじゃないですから」
「大体他の人間に行かせようにもアカーシアを使えるのは俺とあいつしかいないというのがな。レティは魔法が使えなくなるから持ちたがらないし」
「私の話何で聞こえない振りしてるんですか、王様。自分の仕事を他国の人に振ろうとしないでくださいよ」
『あいつ』というのはおそらく先日ワイスズ砦に現れたヴィエドの父親のことだろう。
見た目はラルスより少し若く見えたが、何処の国の誰なのかは知らない。ただファルサス直系であるからして、彼もきっとアカーシアを使える人間なのだろう。
雫はそこまで考えて、ふと疑問を覚えた。そのまま一歩先を行くラルスに聞いてみる。
「アカーシアってファルサス直系じゃないと効果を出せないんですか?」
「出せるぞ。誰が使っても」
「あれ。じゃあ何で直系じゃないと駄目なんですか?」
「教えてやろうか」
そう問うてくる王の目は、お世辞にも善良な人間のものには見えなかった。雫は唇を曲げるとかぶりを振る。
「やっぱり結構です。忘れてください」
「よし、こっちに来い」
「本当に人の話無視するんですね……」
ラルスは雫を手招きして城の通用門の方へと歩き出した。そこにいた衛兵たちがかしこまって敬礼すると王は「門を開けろ」と命じる。
正門程ではないが、黒い鉄で出来た大きな門が開かれると、二人は外に出て濠の上にかかる石橋に立った。
「じゃあこれを持て」
「はい……っていいんですか!?」
ラルスが差し出したのは抜き身のアカーシアである。さすがに柄の方を向けて渡されたが、あまりのことにすぐには手が出せなかった。
思わず硬直した彼女に王は面倒そうに命じる。
「どうした? 早く取れ」
「取れと言われましても……怖いというか緊張するというか」
鏡のように磨かれた両刃の長剣。
今まで夥しい血を吸ってきたにもかかわらず、まるで真新しい剣のように輝くそれに雫は唾を飲んだ。かつて正面から刃を振るわれた記憶が甦る。
刃先を向けられているわけではない。
それでも彼女にとってその剣は、消せない恐怖を呼び起こすものだった。自分が自分でなくなったかのように体が動かない。
雫は己の心臓が跳ねるように打ち始めたのを自覚して息苦しさに喘いだ。曇りない剣身を見つめる。
「いいから持て。早くしろ」
重ねての男の声は少しだけ冷ややかさが混じっていた。雫は意を決して長剣の柄を握る。
不可思議な力を持つ王剣だ。直系でない者が触れたなら電気が走ったりするのかもしれない―――― そんな予感を彼女は一瞬抱いた。
けれど、実際伝わってきたものはただ、ずっしりとした重みだけである。
雫は予想以上の重量に慌てて石畳につきそうになる剣先を上げると、左手をそっと刃の部分に添えて長剣を支えた。
一つ嘆息するとラルスを見上げる。
「持ちましたよ」
「よし。ならここの結界を斬ってみろ」
「へ!?」
仰天する雫に、ラルスは何もない門前を指して「ここに結界があるから」と言う。しかし、そう言われても雫には何処にあるのか分からない。
結果として彼女は目隠しもしていないのにスイカ割りをするような気分で、重い剣を構えることとなった。
「王様! これかなり重いですよ!」
「そうか? まぁ、そのまま真っ直ぐ進め」
「こっちですか?」
「もうちょっと右。そこだそこ。よし、斬ってみろ」
軽い指示を受けて雫は震える両腕に力を込める。
そのまま苦労して長剣を振り上げると、一歩踏み出しながら剣の重さに任せて刃を振り下ろした。一瞬、体の中を違和感がよぎる。
一体これに何の意味があるのか、そうラルスに問いかけた次の瞬間―――― けれど彼女の掌には激痛が走った。
「っっああっ熱っ!!」
反射的に剣を落としてしまったが、それどころではない。
雫はまるで燃え盛る炎の中に両手を突っ込んでしまったかの如く飛び上がった。 悲鳴混じりの叫びを上げる。
「熱っ! 熱い! 痛い!」
すぐにでも冷水で冷やしたいが、周囲にそんなものはない。涙目になった彼女に後ろからラルスが歩み寄った。
「冷やしたいのか?」
感じたのは嫌な予感。
半ば既視感に似たその感覚に雫は慌てて振り返る。
何かを考えるより先に、彼女は伸ばされた男の手に両手でしがみついた。王は目を丸くする。
「その手は食わないって!」
負け惜しみとも勝利宣言ともつかない叫び。
その大声に続いた大きな水音は……それまで固唾を飲んで事態を見守っていた衛兵たちを慌てふためかせるに充分なものだったのである。

水もしたたるいい男とはよく言われるが、目の前にいる男は「いい男」と言うより、どう贔屓目に見ても「悪い男」である。
ずぶ濡れになった上衣を脱ぎ捨てながら剣を拾ったラルスは、それを鞘に戻すと同じく濡れねずみの雫を振り返った。
「やってくれたな。濠に落ちるなど十五年ぶりだ」
「私は五ヶ月前に経験したばかりです。どなたかに突き落とされて」
「熱いというから冷やさせてやろうと思っただけだ」
「私も王様の頭を冷やしたいと思いましたんで」
雫は白々と返すと、自分の両手を見つめる。
つい数分前、予想だにしなかった熱の痛みに絶叫した彼女を、ラルスは九割の悪意と一割の善意で濠に突き落とそうとしたのだ。
けれどその手に、以前同じような目に合わされた雫は全体重をかけてしがみついた。
結果として、突き飛ばされた彼女と、その彼女に引き摺られた王は、二人一緒に濠に落ちてしまったのである。
蒼ざめた衛兵たちに引き上げられた後、雫は冷えたというよりはびっしょりと濡れた掌を見て苦い声を洩らす。
「火傷するかと思いましたよ……。何やらせるんですか一体」
「話に聞くより分かりやすかっただろ? 直系以外がアカーシアを持って魔力や魔法構成に接触すると、柄や刃が発熱するんだ」
「言ってくだされば分かりました」
それだけの説明の為に痛い思いをして、挙句にはずぶ濡れになってしまったというのか。
濡れたのはお互い様だが痛かったのは雫だけである。彼女は腹立たしさに王をねめつけた。
だがラルスの方はやはりと言うかその視線に動じるわけもなく、ただ髪の水気を払っている。悪びれない声が彼女を叩いた。
「というわけで、今日の面白謁見時間は終わりだ。次は二週間後だな」
「次は絶対外には出ませんからね!」
「不健康な奴だなー」
「ぐああああ! 何このパワハラ!」
心からの絶叫は、しかしラルスには意味の通じるものではなかった。王は前を見たまま軽く手を振って歩き出す。
腹立たしい程に堂々とした後姿に雫は顔を顰めた。
「王様……私を試しましたね?」
ラルスは何も答えなかった。振り返りもせず足も止めない。
けれど、だからこそ雫は自分の考えに確信を持つ。
何故言えば分かるようなことをわざわざ体験させたのか。
それはきっと、アカーシアを持たせてみれば彼女が何かしらの本性を見せるかもしれないと、彼が疑っていた為なのだろう。
雫は石畳に放りだしてあった書類袋を摘み上げる。僅かに前髪からしたたる水滴を払うと、溜息もなく部屋への道を辿り出した。
「まぁいいか。珍しく痛み分けだし」
この程度で憤っていては、この城ではやっていけない。
それに今回はあからさまな敵意をぶつけられたわけでも、害されかけたわけでもないのだ。
彼女が以前よりも図太くなってきたように、もしかしたら王も少しは彼女のことを信じてくれる気になってきたのかもしれない。
雫は自分でも楽観が過ぎると思う考えで濡れそぼった現状を片付けると、小走りに城の外庭を走っていったのだった。